第14話
早苗ちゃんと約束したデート前日の夜。俺はまた夢を見ていることを自覚していた。
視界全体に広がる眩い白——その中を色合いの違う白い靄が蠢き、俺の左右をせわしなく動き回っているのを感じる。
またこれか、メビウスを始めてから何度となく見るようになった白い夢。水の中だったり白い洞窟の中だったり、真っ暗な何処かだったりと、場所は様々だ。
だけど共通しているのは眩い白と、気持ちが安らぐ何か——誰かがそこにいると、短くて黒い髪を認識した時は少年か? と思ったが、正直言って性別はどうでもいい。
それがそこにいるだけで俺の心は安らぐ。
何かを話しているのか、靄がパクパクと口を動かしているような錯覚を覚える。だが何も聞こえない——キーンと耳鳴りがするだけで、何も聞こえない。
自分が立っているのか、それとも横になっているのかも判らない微睡の中で、ただ一つ確かに感じるのは右下に感じる温かみ。
あぁ、これは——この感覚は——。
そこで薄っすらと目が開いた。カーテンの隙間から差し込む光、狭い寝袋の中でモゾモゾと体を動かして体勢を変える——視界に入った小さな白い目覚まし時計は、朝の八時数分前を指していた。
昨日の夜は中々寝つけなかった。最後に時計を確認したときは、深夜の三時を回っていただろうか。そこからさらに寝返りを何度も打ちながら悶々とした夜を過ごしていたので、寝れたのはほんの数時間か。
目覚ましをセットし直して二度寝をしたい誘惑に駆られたが、もしも早苗ちゃんとの約束の時間に間に合わなかったら俺の人生が終わる。
眠い目を擦りながら寝袋から脱し、午後の待ち合わせに備えて準備を開始することにした。
現在の時刻は一二時四五分。約束の一三時まではあともう少し——少し早く来すぎた気もするが、遅刻するよりかはいいだろう。
駅前広場に建てられたよく判らないモニュメントの周りには、俺と同じように待ち合わせをしているらしき男女がスマホなどのガジェットを片手に時間を潰していた。
電車の走る音や通りに流れる賑やかな音楽、道ゆく人の話し声やアナウンスの声が耳に入ってくるが、その内容は全くもって頭に入ってこない。
「せ〜んぱいッ! もう来ているとは思いませんでした。待たせちゃいましたか?」
不意に後ろから声をかけられて振り返ると、早苗ちゃんが小さな体をさらに縮ませて下から俺を見上げていた。
開幕早々、下からの上目使いだなんて——なんてあざとい仕草を使ってくるんだ。ひょっとして、純真無垢な幼い顔をしていながら、実は百戦錬磨の恋愛マスターか?
「す——」
「す?」
「——空いていたんだよ、電車が。だから少し早く来ちゃったけど、それでもついさっきだよ」
思わず“好き”——と言いそうになったが、なんとか誤魔化せたようだ。それに俺は二田万駅までバスに乗ってやって来た。電車はおろか、駅構内にすらまだ入っていない。
「あはは、そうですか。待たせてないならそれでいいです」
ピョコンっと立ち上がった早苗ちゃんは白のブラウスにミニスカート、それに丈の短いデニムジャケットを着た少し大人なファッション。その低身長とは裏腹に、俺が思っていた以上に大人なセンスを持つ女子なのかもしれない。
対する俺はチノパンTシャツにジャケットを羽織っているだけだが、早苗ちゃんと並んで子供っぽく見えない服装で助かった……。
「と、とりあえず——駅前の家電屋に行ってガジェット選びの助言、頼むよ」
「任せてください! 先輩にピッタリな一品をご紹介しますッ」
そうして俺と早苗ちゃんの初デートは、まずガジェット選びからスタートした。
「あーこれなんかどうですか? 腕輪型の最新型ガジェットで、素手や服の上に画面が表示されるんですよ」
家電量販店のスマートガジェット売り場には、数多くのガジェットが並んでいた。早苗ちゃんが指差すのは、細いシルバーリングにしか見えない一品だ。
早苗ちゃんがサンプル品を手首に装着すると、リングに軽く指を当てて動かすだけで、デニムジャケットの上に見慣れたガジェット画面が表示された。
「ほぅ、それは服の上でも操作できるのかね?」
「もちろんですッ。素手に表示された画面も操作できますし、防水加工なので浴室でも使用可能なのですよ」
「っは〜、いつの間にかガジェットも大きく進歩したんだねぇ〜」
「今や旧時代のスマートフォンや携帯電話を使用している人は少数派です。イヤリングや指輪、腕輪など、ガジェットは持ち運ぶ物ではなく、身に着ける物になったと言えますッ」
早苗ちゃんが次々にオススメしてくれる装飾品型ガジェットを品定めし、実際にサンプルを装着して使用感を確かめたりしてみた。
そして辿り着いたのが、早苗ちゃんも愛用している腕時計とイヤリングの複合型スマートウォッチ。
店員さん立ち会いのもとイヤリングを装着し、AR(拡張現実)ディスプレイとやらを体験すれば、その近未来的な——いや、すでに商品化もされている現代技術に唸り声しか出なかった。
「操作はメビウスに似ているんだな」
「このガジェットの開発企業はメビウスの開発にも関わっていますからね」
AR(拡張現実)ウィンドウの操作はメビウス内での視線操作と同じだった。視線を集中させ、瞬きによって操作を決定する。
これなら操作に指どころか腕すらも動かす必要がなく。全く別の作業をしながらガジェットを操作することが出来た。
早苗ちゃんが言うには、メビウスの上位プレイヤーのほとんどが本体ガジェットこそ腕時計や他のアクセサリーに分かれているものの、メビウスと同じ視線操作系のAR(拡張現実)ウィンドウを搭載したガジェットを使っているそうだ。
視線操作に常日頃から慣れておくことが、ゲーム内での危機的状況に一早く、そして正確な操作を実行することに繋がる。
日々これ訓練——メビウスを最速踏破するためには、VR(仮想現実)の外でも視線操作に慣れ続ける必要があると言うことだ。
最終的に、腕時計ベースの複合型スマートガジェットを購入することにした。腕時計のデザインはデジタルよりもアナログの方が好みなのだが、最近のスマートウォッチはパネルを操作するだけで表示を切り替え、どちらも楽しめることができる。
重すぎず、ゴツゴツしていないシンプルなシルバーデザインの腕時計と、少し太いシルバーイヤリングは耳に穴を開けなくとも吸い付くように耳に装着できるタイプを選択した。
だが、最新のAR(拡張現実)技術を誰もが自由にすぐさま持ち帰られるわけではない。特に自分だけの視界にAR(拡張現実)ウィンドウを表示するのには、細かい調整が必要になる。
受け取りは後日となったが、とりあえず第一目的は達成した。ついで——と言うわけではないが、早苗ちゃんの電話番号もゲットすることができた。
根本的に携帯用通信機器であるスマートガジェット選びを手伝ってもらったのだ。その相手の連絡先を教えてもらうのは、至極自然な流れ——全て俺の計画通りだ。
そのあとは駅ビルに早苗ちゃんを誘い、下から順にショッピングや本の物色を楽しんだ。昔からある駅ビルだが、中のテナントは俺が以前来た時——二年以上前とはほとんど入れ替わっていた。
目新しく見える反面、俺の記憶の中にある家族との思い出が何一つ思い出せないことに少し寂しくも感じた。
だが、隣を歩く早苗ちゃんの笑い声を聞いていれば、寂しさよりも楽しさが上回る。寂しい記憶を楽しい記憶で上書きしていく、それはなんて幸せな事なのだろうか。
ショッピングを楽しんだあとは最上階にあるゲームセンターへ行った。予想通り、早苗ちゃんは相当なビデオゲーム好きだった。
「早苗ちゃんはメビウスのプレイヤーになりたいとは思わないの?」
缶ジュースを手渡しながら聞いたのは素朴な疑問だった。家庭用のゲーム機にも移植されたビデオゲームを器用にプレイし、大型筐体のメダルゲームやクレーンゲームを楽しむ姿をみると、なぜ早苗ちゃんが外部オペレーターをやっているのか。
Δ(デルタ)ドライブと言う鵺耶ちゃんの前パートナーが離脱した時に、俺ではなく早苗ちゃんを新パートナーにすれば良かったのではないか——いや、もしかすると、俺がその座を奪ってしまったのではないか。
そんな疑問が頭をよぎり、声に出してしまった。
「メビウスはプレイしていますよ。週末に二駅先のアミューズメントパークで嗜む程度に……ですけど、会長の横にプレイヤーとして立つ自信は……正直ないです。それに、今はプレイするよりも配信サポートの方がもっと楽しいんですッ! 世界中の色々な人たちが一つのゲームをクリアするために集まって、意見を出して、時にはキツい言葉や嫌がらせみたいな言葉も飛び交いますけど、でも一つの目標に向かって突き進むプレイヤーたちを応援し、援助し、時にはそれが無駄になって再出発になってもまた応援して……その繰り返される一体感を間近で見て、応援して、サポートできるのが、今は物凄く楽しんですッ!」
壁の小窓から差し込む夕焼けの赤色に照らされた早苗ちゃんの笑顔に、俺は随分とつまらない質問を投げたものだと恥ずかしくなった。
メビウスはチームでクリアするVRH&Sだ。実際にアバターを操作するプレイヤーだけが戦っているわけじゃない。様々なサポートをしてくれる早苗ちゃんや一瀬副会長の存在が、ゲームクリアには絶対に必要な要素なのだ。
「そっか——なら、俺も応援しがいのあるプレイヤーとして頑張らないとな」
「はいッ! 頑張って最速踏破、目指しましょう! あっ、そろそろ暗くなってきますね」
早苗ちゃんも夕焼けの赤色に気づいたのか、小窓から差し込む光に目を細め、細くて可愛らしい腕時計で時間をチェックしている。
「下の中央公園、今日からイルミネーションが点灯するらしいんだ——見に行かない?」
「本当ですか?! 毎年見にはきているんですけど、点灯の瞬間は見たことがないんです!」
「よし、行こう!」
「はいッ!」
最高のタイミングとさり気なさで中央公園へ誘えたことに心の中でガッツポーズをし、いよいよメインイベントの時間が近づいてきたことを実感し始めた。
心臓の鼓動が煩いくらいに高鳴り、その音が隣を歩く早苗ちゃんに聞かれてはいないか? そんな心配をしながら、二人で二田万中央公園へと降りて行った。
「ちょっと寒いですね」
「そうだね」
中央公園の並木道を並んで歩く。ここは二田万市の繁華街に囲まれた自然公園で“二田万のセントラル・パーク”なんて大げさな呼ばれ方をされたりもする。
その“二田万のセントラル・パーク”の中央部分は入り口よりさらに低くなっており、傾斜の緩い階段を降りて行くと、並木道の左右にはまだ点灯していない電飾が夕暮れの明かりを反射させながら多数飾り付けられている。
クリスタルのように輝く電飾は、それだけで幻想的な風景を見せていた。
「凄いな、点灯前に来たのは初めてだけど、こんなに綺麗だったんだな」
「はい——これが点灯したら、どれだけ綺麗になるんでしょうか」
樹々の装飾にばかり気を取られていたが、いつの間にか周囲には俺と早苗ちゃんのように男女の若いカップルが増え出していた。
時刻はもうすぐ17:55。事前の下調べでは、18:00なった瞬間に一斉に電飾が光り輝くはず——。
そしてその時が、俺の告白タイムだ。
中央公園の中心部、時計塔の前には大勢のカップルが集まっていた。みな肩や腰に手を回し、寄せ合うようにして時計塔の針を見上げている。
見つめ合い、愛を囁きあい、気の早いカップルはすでに唇を啄み合っていた。
俺も数分後にはあの仲間入りか——。
生唾を吞み込みながら視界の隅に映るカップルを見て意識したのは、余りにも進展スピードが早すぎる妄想だった——が、思春期後半の男子など誰でもこんなものだ。
中央公園の照明が一つずつ落ちていき、周囲が段々と暗くなって行く。そして——。
「10!」
「きゅうっ!」
「ハチッ!」
「なな!」
秒針が最後の一分を周り切ろうとした時、時計塔を囲むカップルたちによるカウントダウンの大合唱が沸き起こった。
俺と早苗ちゃんもお互いに視線を重ね、自然と大合唱に参加し出した。
「四!」
「さんッ!」
「にー!」
「イチ!」
「ゼロぉぉぉ!」
秒針がゼロを指すと同時に歓声が上がり、時計塔を中心点として波紋が広がって行くように並木一本一本の幹から枝の先にまで装飾された電飾が点灯し始め、ブルーとオレンジにイエローの光が点り、中央公園は繁華街のネオンと夜空に囲まれた一角に沈む、サンゴ礁の公園へと生まれ変わった。
「綺麗……」
「本当に——綺麗だ」
光に照らされた君の横顔の方が綺麗だ——と言いたくなったが、流石にキモすぎるので大幅に縮小して応えた。
時計塔周辺のイルミネーションを鑑賞し、少しずつゆっくりと歩きながら、タイミングを見計らうように色々なことを話した。
駅ビルでも散々話したのに、出てくる話題に事欠かない。こういったデート時の会話サンプルはギャルゲーで散々蓄積して来た——貯めに貯めた|武器(話のネタ))たちは十分に貯蔵されているのだ。
女子に好かれ、逆に引かれる話題、パーフェクトコミュニケーションを連発できる応対等々、日々の研鑽はまさにこの日のためだったと言える。
中央公園の装飾は単純に木の幹や枝に電飾が付いているだけではない。
公園敷地内をいくつかのエリアに区分し、中央部分がサンゴ礁を思わせる神秘的な海底空間なら、いま俺たちが歩いている場所は動物を模るイルミネーションで溢れる夜の動物園だ。
「すご〜い、あれクマさんですよッ! あっちのはキリンさんで、あれは——」
「あれは……ナマケモノ?」
可愛らしい動物たちの電飾に早苗ちゃんが喜んでくれてよかった。イルミネーションの点灯までだいぶ時間がかかったが、今の雰囲気なら行けるかもしれない。
「さ、早苗ちゃん、話があるんだ」
他のカップルが離れていき、周囲に誰もいない——電飾の動物たちだけが俺たちを見守る中、意を決っして話し始めた。
「はい、なんでしょう? 先輩」
俺を見上げる早苗ちゃんはニコニコとゆるい?マークでも浮かび上がりそうな表情をしていた。
そんな笑顔がとても愛くるしい。
「あの……また俺とここへ遊びに来てくれないかな?」
「はいッ、もちろんです、先輩!」
「その……先輩とか後輩とかじゃなく、煮卵TVの仲間としてでもなく——」
「なく——ですか?」
早苗ちゃんはコテンと首を傾げ、言葉の続きを待っている。
「——彼氏彼女の関係で来てほしい」
言った! 言えた! 言ってやったぞ!!
俺が言わんとすることを察した早苗ちゃんの目が大きく見開き、わずかに震える小さな唇から絞り出すように声を出した。
「つ、つまりそれは……」
「俺と——付き合ってほしい」
今度は更にハッキリと言った——シンプルかつ真っ直ぐな言葉だ。
早苗ちゃんは耳まで赤く顔を染めあげて一瞬の硬直——そして、俺を真っ直ぐに見つめていた視線が左に逸れた。
その瞬間、俺は自分の敗北を悟った。
「先輩……お気持ちは嬉しいのですが……私には将来を誓った……その……」
「ま、まさか、許婚とかがいるの?」
「いえ……私は将来、レイジ——ナルガと結婚するって決めているんですッ! だから、すいません。先輩とはお付き合えできないです」
そっか——鳴賀零士って男が早苗ちゃんのいい男か——すでに恋人、彼氏がいる可能性について考えていなかった。
「いや、俺の方こそ悪かった。その可能性について考えてなかった。ははっ——」
思わずカラ笑いが溢れる。俺がそれほどショックを受けていないことを感じ取ったのか、伏せ目がちに曇っていた早苗ちゃんの表情も明るさを取り戻し始めた。
「可能性? 先輩、私にとってそれは約束された未来なんですッ……今日は楽しかったです。ありがとうございました。そろそろ帰らないと門限を過ぎてしまうので」
「あぁ、そうか。さっき言ったことは忘れて——月曜からまた、メビウス最速踏破に向けて頑張ろう」
「はいッ、頑張りましょうッ!」
中央公園から二田万駅まで早苗ちゃんを送り、俺は駅前のバスターミナルに向かうため、駅の改札口前に立っていた。
いや、正確には立ち尽くしていた。告白してフラれた——要はそういうことだ。事を急ぎすぎたか? 相手の一面だけを見て知ったつもりになっていたか? 相手の気持ちを考えずに押しつけようとしていたか?
頭の中を色々なことがグルグルと駆け巡り、電車の入ってくる音も、かき鳴らされるベルの音も、軽快な音楽も何もかもが耳に入っては反対側へ抜けていく。
「——帰るか」
軽く夜空を見上げ、バスターミナルへ向かおうと歩き出した時、その声が聞こえた。
「何をしているの、ジロウ」
後ろから聞こえた声に振り返ると、駅の反対側へ渡れる歩道橋の階段に鵺耶ちゃんが立っていた。
「鵺耶ちゃん——なんでここに」
歩道橋の上に立つ鵺耶ちゃんは紫基調のミニスカートが可愛らしいイブニングドレスに、白い毛皮のドレスボレロを纏っていた。
どこかのパーティー帰り——いや、時間的にこれからか?
「お爺様の夕食会に誘われたのよ……あなたは小桜と一緒ではなかったの?」
「さっき駅まで送ったところ——」
「なんだが暗い表情ね……まさか、告白でもしてフラれたの?」
上から見下ろす鵺耶ちゃんの表情は暗くてよく見えない。俺をからかっているのか、それとも俺の表情はそんなにも気落ちしているように見えたのか。
「まぁ——そんなところ、鵺耶ちゃんは知っているかな? 鳴賀零士って男、それが俺の恋敵ってわけ」
なんでもないようにフラれた事実を認め、我が生涯を掛けた恋敵を紹介した——。
「鳴賀零士って……男? ふふっ、それマウスでしょ?」
——が、鵺耶ちゃんの応答は一瞬何を言っているのか判らなかった。
マウスってネズミだよな。鼠男ってことか? いやいや違う——マウスか、PCのマウス、前に早苗ちゃんがうっとりしていたレイジ社製の“ナルガ”ってマウス。
そこまで考えれば、俺がなにに負けたのかを理解出来た。
「お、俺はマウスに負けたのか……」
「小桜が普通の男子に靡くわけないじゃない。あの子は筋金入りの機器フェチなのよ」
「機器——フェチ?」
「そっ、PCの周辺機器やガジェットだとか、とにかく小さくて可愛い機器が大好きなのよ」
なんだろう——フラれたとか恋敵だとか、ことを急ぎ過ぎたとか押しつけたとか、そんなことを考えていたつい数分前までの自分が馬鹿らしく感じてきた。
そして同時に、腹の下が急激に押さえつけられて全身の力が抜け落ちていくのを感じた。
帰って飯にしよう——そう思い、改めて歩道橋を見上げた瞬間、少し強い秋風が吹いて鵺耶ちゃんのミニスカートが捲り上がった。
風に捲れても鵺耶ちゃんはスカートを押さえることなく、腕を前にしてドレスボレロを押さえたままだった。となれば、当然その下にあるものがハッキリと見える。
「——熊」
そのパンツの正面には、熊の絵がプリントされていた——だが、それはクマさんでもくまさんでも、熊さんでもない。
熊だ——熊出没注意の看板かと思うような吠える熊のプリント。
なぜそれを選んだ——しかもミニスカイブニングドレスで。
「……なによ」
俺に見られたことは判っているらしく、口を尖らせてそっぽを向いてしまった。
「はぁ〜なんだよそのパンツ」
「なにって……クマよ、クマさんよ」
「クマさん——じゃなくて、熊だろ」
「同じじゃない」
「同じじゃない! 全く、鵺耶ちゃんはパンツを舐めすぎなんだよ。ちょっとこれはレクチャーする必要がある気がしてきた」
この大人ぶっている癖に着飾るのが下手な可愛い妹には、人生におけるパンツの重要性を今すぐにでも教えこむ必要がある。
しかし、この空腹感は如何ともし難い——あっ。
歩道橋の階段を駆け上がり、そっぽを向いた鵺耶ちゃんの前に立つ。
「爺さんの夕食会、強制じゃないんだろ?」
鵺耶ちゃんの爺——祖父である紫乃倉厳三郎は二田万高校の理事長であり、経済界の重鎮である。その人物が開く夕食会と言えば、ホームパーティー程度の規模ではない。
政界の大物や芸能界の重鎮、日本経済を実質動かしている大企業の重役などが招待され、ホテルの大宴会場を貸し切るほどの盛大なパーティーだ。
鵺耶ちゃんもそういう場に参加し、日本国内でのVR配信やメビウス最速踏破を争うような競技としてのゲームタイトル、活動への理解を広げるために動いている。
「……そうね。今夜のはメビウス攻略とは無関係のものだし、絶対に参加するように言われているわけじゃないけれど、どうして?」
「飯食い行かない? レストランに席を予約してたの忘れてたんだよね」
そっぽを向いたままの鵺耶ちゃんだったが、食事への誘いに視線だけを動かして俺の目を見つめる。
「……行く」
少し不貞腐れたように同行することを了承したが、そんなことはもはや関係ない。
美味い飯を食べてマウスに負けたことはキッパリと忘れ、パンツソムリエとして鵺耶ちゃんにパンツのなんたるかを教えてやることにした。