第1話
よろしくお願いします
人生において、予定調和、運命、偶然、奇跡なんてものは存在しない。それらは全て起こった事を認識した瞬間——自分自身が信じられない事態を納得するために後付けされた言葉だ。
だから今も、家族旅行の帰り道で走る高速道路で、中央分離帯を粉砕して目の前に飛んでくる大型トラックを見ても、これが家族旅行に起こる予定調和だとも、運命だとも、たまたま運が悪かっただけとも、奇跡的な確率で遭遇した事故だったとも思えない。
空中でひねりを加えながら回転する大型トラックのフロントに、驚愕の表情を見せる運転手がよく見える——何が起きたのか理解できず、目を大きく見開き、叫び声をあげながら大きく開けた口の中も、その歯の一つ一つが、奥歯も喉の奥までもがハッキリと見える。
飛び散る唾の一滴一滴がスローモーションのように流れ、激突してひしゃげる車体に亀裂が走っていくフロントガラスとドアガラス、車内に飛び込んでくる破片の動き全てがスローモーションのように見えた。
そしてその先も——親父が座る運転席を押しつぶし、助手席に座る母をすり潰すようにフロントを破壊していく大型トラックを眼前に捉えた時、脳裏に走った言葉はただ一つ。
“必然”
過酷な労働環境が引き起こす『注意力の低下』と『居眠り運転』が運転操作のミスを引き起こしたのも、幼少の頃に病死した兄の分も両親に可愛がられていた俺が、後部座席を埋め尽くすほどのお土産や旅行カバンに囲まれながら座っていたのも、唯一むき出しになっていた頭部に避けきれない破片が当たって深い傷を負ったのも——その全てが“必然”。
なるべくしてなった——そう思わなければ、事故で両親が他界して天涯孤独の身となり、一六歳の春から一八歳の春までと言う一生に一度しかない青春時代を病院のベッドの上で、昏睡状態のまま過ごした事実を発狂することなく受け入れることは出来なかった。
更に言えば、両親の生命保険やトラック運転手の勤め先から支払われた多額の賠償金は、顔も名前も知らない遠縁の親戚によって管理され、俺が昏睡状態から目を覚ました時にはその全てを持ち逃げされていた。
だが、両親の死を悲しむ時間も、全てを持って行かれた怒りを感じる時間も、その全てが寝ている間に過ぎ去ってしまい、目を覚ました今では驚くほど何も感じていない。
俺に残されたのは病み上がりの体と唯一残された古い一軒家の自宅——そして、それを売り払わなければ支払えないほどに積み上がった医療費だった。
「明日からどうしよう……」
昏睡状態から目を覚まし、数ヶ月のリハビリを経て退院した俺がまず行ったのは両親の墓参り、そして昔から家族ぐるみで付き合いのあった隣家を頼って不動産屋や質屋を紹介してもらい、自宅の売却や転居先の手配、方々への届け出などを済ませた。
今は新しい住居となったボロボロのワンルームで一人途方に暮れている。
家を売ったお金はまだ少しだが残っている。贅沢をせず、日々を慎ましく過ごしていけば一年……いや、半年は生きていけるはず。
「だけど、そこから先をどうするんだぁ〜!」
家具一つないフローリングに仰向けに倒れ込み、真っ白な天井を見つめてため息を吐く。
お金を稼がなきゃ——だけど、アルバイトをしようにも病み上がりだし、コンビニとか? 道路工事の警備員とか? いやいや、肉体労働は病院の先生に控えるよう言われているし。
なら、もっと事務仕事的な? シール貼り——とか、花火の台紙貼り——とか、ハンコスタンプ押し——とか?
いやいや、一八歳を迎えたばかりの人生で、そんな夢も未来もないことを一生の仕事にはしたくない。だが、高校一年の学歴じゃまともな職業に就けるとは思えない……。
また一つ、深くため息を吐いて瞼を閉じる。
とりあえず、今日はこのまま寝てしまおうか——もしかしたら、目が覚めたら異世界の草原に転移して、すっごいチート能力を手に入れて無双し、奴隷ハーレムや王族の姫様や公爵家の令嬢とかが『結婚してください(ハート)』とか、『さすがご主人様ですッ!』とか言ってチヤホヤされる未来が待っているかもしれない。
異世界転生でもいいな……新しく生まれ変わって、赤子の時から魔力を高める練習なんかしちゃって世界一の魔法使いに……それじゃ一生童貞みたいだから、世界最強の魔術師に言い変えよう。
そして魔術学園の入学試験で試験官の顎が外れるほどの潜在能力や実技試験の成績を見せつけ、最初の魔術の授業で担任もクラスメートも驚かせる極大魔術を放って言い捨てるんだ——『俺、また何かやらかした?』って。
あー、編入とかもいいな……田舎町の寂れた学校から王都の最上級学院へ編入することになり、初日にだたっ広い学院で迷子になって運命の女子と出会うんだ。
角を曲がったら食パン咥えた女子とぶつかってもいいし、適当に教室のドアを開けたら着替え中の女子とバッタリ視線を重ねちゃうとか……。
そして突然始まる決闘! 今明らかになる主人公(俺)の能力!
そんな明日を妄想し始めたところで、ふと思い出した。
学園……学校……俺の青春……いや待てよ。確か俺の学費って入学時に三年分を纏めて納めたって親父が言っていたような……。
ということは、今の俺は休学扱いにでもなっているのだろうか?
絨毯もクッション一つもないフローリングの上で、妄想から現実へと戻った瞬間——。
——ピンポーン。
何もない、俺だけがいるワンルームの呼びベルが鳴った。
「ジロウいる〜?」
仰向けのまま頭部を傾け、玄関灯が点いていない暗い玄関ドアに視線を向けると、その向こうから聞き覚えのある女性の声が響いた。
「ジロウ、いるんでしょ? ご飯作って持ってきたわ、それといい話も」
グ〜〜〜。
“ご飯”のキーワードに、俺の脳より先に胃袋が反応した。
柔らかいペースト状の病院食ばかりだった毎日から解放され、一般的な料理を食べられるようになったのもつい最近。
俺は今、無性に手料理に飢えていた。怠い体を起こし、ペタペタと裸足のまま幽鬼のように細い体を揺らして玄関ドアの鍵を開けた。
「こんばんは、ジロウ」
「夜分すまないね、角田くん」
ドアの前には売却した元自宅の隣人、紫乃倉家の主人である紫乃倉泰造さんと、その一人娘である紫乃倉鵺耶が立っていた。
そして、二人が呼んだ名を繋ぎ合わせた——角田二郎、それが俺の名前だ。
「こんばんは、泰造おじさん。それに鵺耶ちゃんも」
泰造おじさんは丸メガネに腰の低い窓際サラリーマンみたいな雰囲気を醸し出す中年男性であり、その一人娘である鵺耶ちゃんは頭脳明晰にして運動神経抜群、俺の一つ下の妹的美少女である。
その二人が並んで立っていると、まるで援助交際中のハゲた中年男性と清純系美少女にしか見えない——そんなことは絶対に口にしないが。
その二人をいつまでも古いボロマンションの玄関前に立たせておくわけにはいかない。ご近所付き合いが希薄な現代だが、住人の気を引くような真似をあえてしたくはない。
薄く細く、朝の挨拶とゴミ捨て場で挨拶を交わす程度の交流は維持しておきたい。新居となったこの古いボロマンションは六部屋が横に並ぶ二階建ての計一二部屋、俺の部屋は二階の中央付近にあり、左右の部屋にはまだどんな住人が住んでいるのかもわからない状況だ。
見るからに怪しいジャンキーが住んでいるかもしれないし、夜のネオンに照らされる華やかな仕事に従事する綺麗なお姉さんが住んでいるかもしれない。
金銭的余裕のない俺の未来は、ジャンキーに誘われて闇の泥沼を突き進むか、お姉さんに拾われてこの細い体のようにヒモとして暮らしていくか——。
「ジロウ、とりあえず中に入れてもらえる?」
俺の未来を数瞬の間に妄想していたが、鵺耶ちゃんの声で現実へと引き戻された。
「あ、あぁ、とりあえず中にどうぞ……何もないですけど」
泰造おじさんと鵺耶ちゃんを中に引き入れ、周囲にこちらを窺う動きがないかどうか——視線を左右に振り、全く必要のない警戒をしながら静かに玄関ドアを閉めた。
「本当に何もないのね……」
「ジロウ君、ベッドやテーブルくらいは早めに買ったほうがいいよ」
「そ、そうですね。リサイクルショップにでも行って安いのを探してみます」
少しでも現金を確保するために、自宅の売却と同時に家具のほとんども売り払った。残ったのは家族の思い出が詰まった……いや、封じ込めた段ボール箱が二つだけ、それも今はクローゼットの下に押し込まれている。
家具一つないフローリングに直接座り込む泰造おじさんとは対照的に、鵺耶ちゃんは手に持つ大きな包みと一緒に「キッチン借りるわ」と、玄関から部屋に戻った俺と入れ替わるようにキッチンに立った。
「ジロウ君、先に私の要件を済ませてしまおう」
「要件って、なんですか?」
鵺耶ちゃんがキッチンで何を作ってくれるのか気になりつつも、泰造おじさんが手に持つ封書の中身も気になった。
「まずはこれだ——」
泰造おじさんが封書の中から取り出したのは一枚の用紙。
「復学願?」
「そうだ、君の学費はすでに三年分がご両親によって納められている。事故を受けて私の方で休学扱いにしておいたが、退院して実生活に復帰した以上、今後を見据えて復学することを勧めたい」
「ですが、俺はもう一八ですよ?」
「もちろん判っている。一応、学力検査を受けてもらうが、ジロウ君には第二学年に編入してもらいたい」
「一年生から勉強し直しではなくてですか?」
「私も最初はそう考えたが、鵺耶からのたっての願いでな……」
「鵺耶ちゃんの……?」
そう聞いて泰造おじさんと共に視線をキッチンで何かを温めている鵺耶ちゃんへ向ける。台所用品もわずかしかないのだが、極貧暮らしの友とも言うべき袋ラーメンやパスタを調理するために必要となる鍋やフライパン、それと数枚の皿と丼程度は用意してある。
調味料や香辛料の類はまだ買い揃えていないが、鵺耶ちゃんはあらかじめ持ち込んでいたようで、鍋の中に何かの小瓶を振りかけながら鼻歌交じりにお玉でかき回していた。
そんな普通の女子高生に見える鵺耶ちゃんが、なぜ俺の編入学年に口を出せるかといえば、この泰造おじさんこそが俺と鵺耶ちゃんが在籍している私立二田万高校の校長であり、理事長の紫乃倉厳三郎は鵺耶ちゃんの祖父であるからだ。
「第二学年から編入するとなれば、中途半端になっている第一学年での履修科目については補習や課題の提出で補ってもらうことになるが——」
泰造おじさんの申し出は非常にありがたい話だ。補習や課題は正直嫌だけど、最終学歴が中卒と高卒じゃ将来の展望が全然違うし、高校卒業資格が得られれば大学進学も可能になる。
問題はお金だけど……。
「それと、在学中の生活費に関してだが——」
おっ?! まさか援助——いや、奨学金とかあるのか!
「お父様、それは私から話します」
今まさに泰造おじさんから俺の最大の懸案事項である金銭問題について、一筋の光が差し込まんとした瞬間——。
鼻腔を擽る香りに視線が泰造おじさんからキッチンへと流れた。
「ジロウ、お待たせ」
テーブルがないため、鵺耶ちゃんは小さな鍋敷きをフローリングに置き、その上に鍋ごとおいて小皿を俺の前においた。
「まだ味の濃い料理は胃にきついでしょうから、ササミ肉のお粥を作ってきたわ」
鵺耶ちゃんの言う通り、鍋の中には丁寧に裂かれた鳥のササミ肉と、ほうれん草らしき緑野菜、そしてたっぷりの粥が入っていた。
「はい、スプーン」
「あ、ありがとう。いただきます——」
復学の話も、お金の話も重要で興味のある話なのだが、空腹の状態で目の前の料理を我慢できるほど、俺は大人で我慢強くはなかった。
「フー、フー」
鍋敷きに載せられた鍋から小皿に移し、立ち昇る湯気を吹き飛ばし、口の中へ運んで喉を鳴らす。
「ん〜美味しいよ、鵺耶ちゃん」
「このぐらい、いいのよ——それで、食べながら聞いてほしいのだけれど」
口の中をお粥でパンパンにしながら鵺耶ちゃんの言葉に頷き、話の続きを聞き始めた。
「ジロウ、お父様に第二学年への編入をお願いしたのは、ジロウに手伝って欲しいことがあるからなの」
「手伝って欲しいこと?」
「そう……ジロウには私の仕事を手伝って欲しいの」
「えっ? 鵺耶ちゃん働いてるの?!」
思わずおかゆを食べる手が止まり、泰造おじさんの方へ視線を向けた。
泰造おじさん何をやってるの? 紫乃倉家は一人娘に働かせるような財政状況なの?! というか二田万高校の経営大丈夫なのか? 編入したはいいけど、来年の入学希望者が少ないため廃校になることが決まりました——なんて流れは御免ですよ?
まさか俺に学園アイドルにでもなれと? 確かに鵺耶ちゃんの可愛さなら人気は出るだろう。新規入学希望者が殺到し、廃校の危機を免れるに違いない。
そのアイドルグループに俺が加入することでなんになるのか判らないが……まさか、学園アイドルとなった鵺耶ちゃんをプロデュースしろってことか?!
それなら任せてもらおう! 何を隠そう——。
「ジロウ君、君が何を想像しているのか判らないが……その心配は無用だ」
「え? そうなんですか?」
泰造おじさんと視線が重なり、お互いに探り合うような無言の時が流れかけたが、鵺耶ちゃんの可愛らしい咳払いによって再び時は流れ出した。
「コホン、話を続けてもいいかしら?」
「あ、あぁ——それで仕事の手伝いって、今の俺には肉体労働も頭脳労働も無理だよ?」
「そこは問題ではないわ。それに、仕事といっても部活の延長線上みたいなことなの」
「部活——? 鵺耶ちゃんが特定の部活に入れ込むなんて珍しいね」
紫乃倉鵺耶という美少女は、物語のヒロインをそのまま描いたような人物だ。誰にでも優しく、責任感があり積極性もある。
俺が事故に遭う前だけでも中学時代に生徒会長を二年務め、エレベーター式に進学した二田万高校でも一年生でありながら生徒会執行部に間違いなく勧誘されたことだろう。
文武両道を謳う紫乃倉厳三郎の基本理念を体現し、中学校時代は成績トップクラスを維持しながら複数の部活動で全国大会に出場し、その全てにおいて輝かしい成績を残している。
だが、俺が知る限り鵺耶ちゃんは特定の部活動に入れ込んだりはしていない。
その鵺耶ちゃんが俺に手伝いを求めるほどの部活とはなんだろうか? その本題に話題が移るのを待ったが、残念ながら詳しい内容は正式に復学できた後ということになった。
鵺耶ちゃんが言うには、説明するよりも体験した方が早いらしい。そして、その部活動に協力することが、イコール俺の生活費に繋がるらしい。
正直いって意味がわからないし、何か商売でもする文化部にでも夢中になっているのかと考えたが、高校生が行える商売などそれほど多くはないだろう。
比較的小規模な厨房で製造できる洋菓子などの製造・販売だろうか? それとも二田万高校の広報活動とか? まさか、本当にアイドルやっているんじゃないだろうな?
泰造おじさんと鵺耶ちゃんが帰った後も、部屋の隅に畳んでおいたマットに寝そべり、真っ白な天井を見上げながら自分の不思議な人生の行く先に興味が湧き出した。