タドルPart5 大恩、そして貧弱青年
「はぁ……はぁ……はぁ………っく!?……っはぁ……はぁ……」
――霞む視界。血で滲む街路。軋む肋骨。言うことを聞かない手足。
俺はその場にドサリと倒れ込むと、真っ青な空を見上げて、全身を走り回る激痛に奥歯を噛んだ。
ギリ、という音が、やけに頭の中に響く。
歯肉から歯が抜け落ちそうな激痛に顔を顰めて、俺は息を吸った。
「かはっ……!?」
口から、塊の血が吹き出して、口元を染める。
肺が悲鳴を上げて、空気を欲するが、先程吐いた、やや粘着く血塊が気管支を覆って、酸素の侵入を拒んでいる。
「……っぐ!
かはっ、けほっ、かほっ!」
肉体が上げる悲鳴を無視して、無理矢理に寝返りを打つと、咳と一緒にその血を吐き出そうと藻掻く。
漸くして、自分の吐血で溺死、などという事態を免れることには成功したものの、折れた肋骨や内臓が、更に悲鳴をあげることになった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
口で大きく息を吸う。
息を吸うたびに肺が痛い。
(……この症状は、血気胸か)
簡単に言えば、肺が損傷して、胸腔に空気と血が溜まる腫瘍の一種。
息を吸えば破損部位から空気がもれて胸腔内にたまり、息を吐くと、破損部位が閉じて胸腔内の空気が肺にもどれなくなる。
この結果、胸腔内に空気がどんどんたまり、この空気に押されて肺が縮むだけではなく、心臓や反対側の健康な肺も圧迫されるようになる。
しかし、よくこんな体であんな大声で叫べたものだ……。
我ながら、この肉体のタフさには正直引く。
そんな感想を抱いていると、やれやれといった表情で、ギルドマスターが近づいてきた。
(やれやれじゃねぇよ……!
早く治療しろよ……!)
肺の激痛に加えて、四肢の骨折、過労駆使した肉体の疲労が相まって、朦朧としてくる意識の中。俺はそんな様子の彼に心の中で悪態をついた。
「はぁ……ったく、お前貧弱すぎるだろ?
よくそんなので攻略組になるだなんて吠えたな。
ま、俺はそういうところ、嫌いじゃないがな」
彼はそう言いながら、ポケットから一本の瓶を取り出した。
その瓶は黒い布で覆われており、中に何が入っているかは分からなかった。
彼は話しながらその瓶の蓋を開けると、指先を俺の体と煉瓦敷きの間に滑り込ませて、くるりと上下を反転させた。
「なっ……!?」
何をする、と悪態をつきたい気持ちで山々になるが、しかし地面の硬さに思わず呻き声が漏れる。
自分としては早く病院に連れて行ってほしいものなのだが、このオッサンはと言えば、その瓶の蓋に何か液体のようなものを注いでこちらの様子をうかがうばかりであった。
そして不意に、彼はその注がれた液体を、辿の口の中に流し込んだ。
「ん……っ!?!?!?」
やめろ!今そんな事したら、確実に死ぬ!
「〜〜〜〜〜っ!」
舌が、喉が、焼けるように熱い。
その液体が触れたところから順に、まるでアルコール消毒をした時のようにスースーとした風の感覚が、熱と伴に訪れる。
「かはっ、かはっ!?」
あまりにも突然なことだったので、俺は思わずその場でむせ返した。
「何すんだこの野郎――っ!!」
怒りに任せて、その場で叫ぶ。
「何って、治療だが?」
しかし、彼はそんな咆哮など――無意識にスキル【咆哮】(先程獲得していた、ブラックマウスが使っていた咆哮を放つスキル)を発動していたのだが――柳に風という様子で答えた。
「治療……?」
言われて、そういえばいつの間にか、あの激痛が引いていることに気がつく。
「……?」
(……どう、なってるんだ……?)
状況から考えて、おそらくあの時に飲まされた液体が関係しているのだろう。
おそらく、ポーションか、それに類いする何か。
そんな不思議な形相をして、ペタペタと自分の胸に手のひらを当てて探っては怪訝な表情をする彼に、アドルフは笑いながら言った。
「ネクタールって霊酒でな。
滅多に手に入らないエルフ族の秘薬なんだが、応急手当としては、まあ、完璧だっただろ?」
どこか、いたずらを成功させた子供のような笑顔でそう嘯く。
「ネクタール……」
何処かで聞いた覚えがあった。
確か、ギリシャ神話辺りに出てきた気がする。
生命の酒、ってやつだっけ。
「高かったんだぜ?
何せ、オレの月収の三回分だからな!」
「……え?」
アドルフの言葉を聞いて、辿はその先に待ち受ける彼の台詞を予測する。
大抵の場合、高いモノを使わせたあとに、その値段の話が来るというパターンに於いて、その先の言葉は決まっているようなものだ。
この世界の金銭通貨であるアズランドというのが、日本円に換金していくらほどの価値なのかは理解できないが、少なくとも月収三回分という言葉から、安い値段ではないことが分かる。
「貸し一つな!」
彼は豪快に笑うと、完治したばかりの背中をバシバシと勢い良く叩きながらそう答えた。
……ああ、俺。異世界生活初日にして、借金を背負うことになるんだな……。
いや、でも彼には、結果的に命を救ってくれたという恩ができてしまった訳だからなぁ……。
貸一つ。
その一つ、新人冒険者には大き過ぎませんかねぇ……?
でも、まあ借金にはならなくて済んだのは、不幸中の幸いと言うべきか。
生命を助けてもらっておいて、それは凄く失礼な考えだが。
辿はそんな言葉を胸中に秘めながら、徐々に藍の勝ってきた空を見上げた。
こうして月詠辿の異世界生活は、巨大な貸しを作るところから始まるのであった。
⚪⚫○●⚪⚫○●
ネクタールによる治療を終えた辿は、その後ギルドへと帰還した。
「無事かタドル!」「タドルさん……!」
ギルドへ戻ってくると、オリバーとリリャがほぼ同時に叫びながら走ってきた。
「ああ……まあ、何とかな」
(死にかけたけど)
最後の一言は喉の奥に呑み込んで、俺はそんな二人にそう答える。
すると二人は徐に胸をなでおろして言った。
「そっか……。
無事なら良かったぜ!
正直タドルは貧弱そうに見えてたからなぁ……」
(ひ、貧弱……っ!?)
結構グサッとクルなぁ……。
自分よりも年下で、体格も小さい子供に言われると、なんか、悲しくなる。
あと、その隣でうんうんと頷いているリリャのその物凄い肯定ぶりにもかなり精神的にクルものがある。
(あの、ねえリリャちゃん?
そんなに俺って弱そうに見えるの……?)
答えが怖いので、とりあえず聞かないことにした俺は、やはりチキンなのだろうか?
……いや、あんな怪物相手に怯まず立ち向かえたんだ。断じて俺はチキンなどではないはずだ!
俺は自分にそう言い聞かせると、引きつっていた頬を無理矢理苦笑いにした。
(……うん。
でも、リリャちゃんのそのヘビメタも真っ青な首肯はやっぱり傷つくよ、お兄さん……)
閑話休題。
それから俺は、ギルド職員から攻略組(迷宮攻略による金銭稼ぎを主とする冒険者のこと)になる為の研修会の案内を受けてその手続きを済ませると、オリバー、リリャとの三人でギルドを後にした。
ギルドを出た三人は、帰ってきた冒険者で賑わう商店街をぶらついていた。
外はもうすっかり暗く日も落ちていて、街灯に火をつけて回る人が走り回っていた。
「なんか、今日はあっという間だったな……」
煉瓦造りの街並みを歩きながら、ふと呟く。
今まで張りつめていたものが緩んだせいか、そういえば強烈な空腹感がしていたことを思い出す。
仕方ない、徹夜の上に丸一日(実際には半日程度かも知れないが)飲まず食わずだったのだから。
「だな〜」
隣を歩きながら、オリバーがうんうんと頷く。
不意に、三人の間に腹の虫の鳴く声が聞こえた。
続いて、もう一人の腹からも同様に、小さな虫の鳴く声が聞こえる。
「腹減ったし、そろそろ帰ろうぜ。
タドルも来るだろ?」
ニッ、と彼は口角を上げながら手を差し伸べる。
こうして辿は、オリバー宅へとお邪魔することになるのだった。
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