ニートな女神と初めての運動
運動不足とはよく言うが、運動過剰とは言わない不思議。
そういえばさ、ちょっと話は変わるんだけども。
皆はランニングとジョギングの違いって知ってる?
……うん。なんていうか、きっと大体の人はランニングは本格的な走り込みのことで、ジョギングはもっと気楽な走り、運動のこと。みたいなイメージで理解してると思うんだけど。
いや、私はそれ以前に気になってたことがあってさ。
「ジョギングの、ジョグって何?」
ランニングの意味は誰だってわかってるとは思うんだ。
下界の言語、英語の言葉でつづりはrunning。
そしてそれはrunという単語(意味:走る)の現在進行形という形であり、現在進行形というのは簡単に言っちゃうとつづりの終わりがingになってる単語のことで、今まさにその行為をやってる最中ですとか言いたい場合や、〇〇すること、という風に言いたい時に単語の形が変化する。まあ、これについては詳しくは下界の英語の教科書や参考書を見てよ。
それで、だからrunningは、今まさに走ってますとか、走ること、っていう意味なのはわかると思うんだけど。それじゃあジョギングは?
なんか言葉の響きでジョギングの方も単語の最後がingで終わってるぽくて、現在進行形の単語なんだなということはわかったにせよ、そのingがつく前の元々の単語、おそらくジョグっていう読みの単語の意味を知ってる人はどのくらいいるんだろうか?
というわけで答えを言っちゃうけど、ジョギングっていう単語の意味は健康のためにゆっくり走ることなんだって。
単語のつづりはjoggingで、元々の単語はやっぱりjog。読みもジョグで合ってた。
ちなみに、jogには他にもいろいろと意味が内包されていたけど、それについては気になったやつは英語の辞書引くか、スマホの検索サイトで調べてみるといいよ。
ああ、ごめん。それで話を本題に戻すんだけども。
ランニングとジョギングの違いについてね。
いや、私もこれまであんまり気にしたことなかったんだけどさ。一応ちゃんと違いはあったよ。
で、それはまあ最初に言った世間一般のイメージとだいたい合ってたみたい。
ランニングとは、アスリートなどが自分の体つくりのためなどに走りこむトレーニングのことで、一般的にはなるだけ速く走れるように走る訓練とか特訓とか。
それに対しジョギングは、そこまで本格的に走ることそのものを重要視していないというか、日常のなかで今の私のように運動不足の解消だとか、さっきの単語の意味のようなあくまで肉体の健康のために行う軽い走りのことらしい。
ただし、日常会話で使う時には別にジョギングのことをランニングって言っても、走るという行い自体はどちらも同じであるわけだからおかしくはないし、その逆もまた然り。
つまり走っている人を見て、あの人は今ランニングしてるとも言えるし、ジョギングしてると言っても間違いではないらしい。
まああと、もっと簡単な違いとしては走る速度も関係してるという解釈もあった。
ランニングはガチで走ってる、それでジョギングはどっちかというと速歩き的な?
「うん、そっちの方が断然わかりやすいな。それで合ってるのかどうかは知らんけど」
アパートを出て、走り始めてから30分。
私は近所の公園のベンチでちょっと座って休憩しながら、スマホでランニングとジョギングの違いについて調べて、それで出てきた記事をいくつかさらっと読んでたのだけど。
「ジョギングの下にウォーキングっていうのもあるのか。ウォークは、歩くって意味の……」
まあそれも結局は本人の意識と、それを見た周囲の人間が勝手に違いを決めているような節があるけれども、さすがにランニングとウォーキングが一緒だという人は少数派に違いない。
そして、ここまででいうと今日、私が30分間やった走りはジョギングに分類される走りなのだろうということもわかった。
幸いにも、今日はまだ少し走っただけで筋肉痛に襲われるという自体は免れているけど。そういえば走った後にすぐに筋肉痛になるのは若い証拠で、年を取ると走った日の翌日か、2日後くらいに筋肉痛になるとかいう話も下界じゃあるそうだけど。神界の神様にもそれは適応されているのだろうか?
いや、なんせ私、神様も筋肉痛になることがあるっていう事実そのものを、ついこの前知ったばかりだったからさ。それについては知らないんだよね。トトおじさんあたりに聞けばわかるかな?
「うーん、まあ私はこの前、走った後すぐに筋肉痛になったから、まだまだ若いって証拠なのかもしれないな。ふふふ」
私はポジティブにそうとらえるとスマホを閉じてズボンのポケットにしまい、ベンチを立ち上がった。
それでまたジョギングという名の散歩を再開しようと思ったのだけど、まあ体もちょっと温まってきたことだし、スポーツジムに行ってみるか。
と、私はまた走り始めて20分ほど、どうやら私の記憶は正しかったようで私の覚えていた通りの場所にスポーツジムはたしかにあった。あったんだけれども。
「うわぁー、なんか、でっかくなってない?」
そう、そこにはたしかにスポーツジムがあった。
ただし、私の覚えているスポーツジムとは大きさが大きく変わっていて。
そもそもその場所にある建物自体がまるで別物に変わっていた。
家から徒歩で1時間近く歩く場所のことなんて、普段からそこを歩いてる人でもないと知らないよね。
私は車も自転車も持ってないし、なによりここ数年間はずっと引きこもりに近いニートだったんだし。
でも、私の記憶がたしかなら4年ほど前。その場所には雑居ビルが1つあったはずだった。
1階にヨガ教室、2階にスポーツジムがあって、3階は貸し店舗で4階になんかの会社のオフィスだったかがあったはず。
それなのに今私の目の前にはそのビルが丸ごとなくなっていた。さらに言うならその周囲一帯の建物も軒並み消えていて、そこには大型のドーム状の体育館のような建物がどっしりと構えていた。
私がそのあまりの変化に驚き、建物の入口の前で固まっていると、ちょうどその時道の向こうから老婆の女神が歩いてきたので、私はその女神に話しかけてこの建物について聞いてみた。
するとどうやら、この大型の複合運動施設がオープンしたのはおよそ半年前で、建てられ始めたのは2年半ほど前ということはわかったのだが。
「うそ、全然知らなかった。あー、ここにきて引きニートの悪い部分にぶちあたるとは」
引きニートの悪い部分、それは時代の流れによく置いてけぼりになるということ。
いや、違うか。ここ数年ずっとアパートの部屋で毎日ただやることもなくボケーっとしながら、親からの仕送り金を使いながら食っちゃ寝して過ごし、外にもほとんど出ずに、人ともほとんど会話せずに過ごしていれば誰だってそうなるか。たぶん、下界の人間たちもそうなってる奴は少なからずいるだろう。
「これからはホントにマジで、少なくとも月に3回くらいは今日みたいに外出て歩かないといけないな。こんなでかい建物が建てられてることに気づかないなんて、気づいた時の衝撃度がやばいから」
でもそういえば、たしかに半年くらい前にネットニュースでなんかどっかにでっかいスポーツジムみたいなのがオープンしたっていう記事を見たような記憶があるぞ。
その時は運動なんてもう面倒くさいとしか思ってなかったから、それがどこにあるのかとか知ろうとさえしなかったんだけど、まさかこの場所だったとは。
「うーん、まあとにかく入ってみるか」
私はそう言うととりあえず建物の中に入ってみることにした。
入口の自動ドアを通った先はすぐに受付になっていて、長めのカウンターに受付嬢の女神が3柱いた。
それで私が真ん中のお姉さんに声をかけようとしたまさにその時だった。
「あれ?、もしかしてそこにいるのアストレア先輩っすか?」
どうやら私のすぐ後に建物に入ってきたらしい神に、そう声をかけられた。
だけども、ちょっと待って。私のことを先輩と呼び、なおかつ今でも私と関わりがある神といえば。
私は声をかけられて速攻で振り返り、その声の主を確認してびっくりした。
「ヤ、ヤリーロ!?」
そこにいた人物。それは私と同じアパート、『はしくれ荘』に住むアイドルオタクで私のコンビニバイト時代の後輩であり、現ニート仲間でもある男神、ヤリーロだった。
いつもアパートの部屋の中にいる時は女神から見たらセクハラギリギリの恰好をしているのに、今日はちゃんと服を着ていたんで一瞬誰だかわかんなかったぞ。しかしその肥満体と間の抜けたような声は間違いない。ヤリーロだ。
「おまっ、え、どうしてここに?」
「それはこっちのセリフっすよ。アストレア先輩こそどうしてここに?」
「え、私はあれだよ。その、たまには運動もいいかなと思って」
「ああ、なるほど。先輩もそんな風に考えることあるんすね」
おいこら、お前それはいったいどういう意味だよ?
という言葉を私は飲み込んだ。
「お前、あー、ヤリーロはここよく利用してるのか?」
「そうっすね。まあ月に5回程度ですけど。そういう先輩は?」
「私は、今日が初めてなんだけど」
「ああー、それなら良いと思いますよ。ここって初回は利用料金タダなんで」
「あ、そうなんだ」
へぇー、初回の利用料金は無料なのか。
まあそれって2回目以降はちゃんと金取られるってことなんだろうけど。
あ、でも。スポーツジムとかってそういうサービスしてるところも多いのかもしれないな。
まずは試しに色々やってみて、自分にも出来そうとか、楽しいとか思ってもらえたらまた来てねっていうのを狙って。
だけどもちょうど良かった。それならこの際だしヤリーロに色々聞いてみるか。
「ちなみにここって、どういうのがあるんだ?、その、器具とか」
「そうっすね。まあ基本はなんでも揃ってると思いますよ。ランニングマシンにベンチプレス、サンドバッグなんかは普通にありますし。あ、地下にはプールもあるっす」
「え、ここプールもあるの?」
「はい。あと、僕はやったことないけど2階にはヨガ教室もあるみたいっす」
「ああ、ヨガ教室はそのままこっちにも移ったんだ」
たぶんその教室は、この建物が建てられる前にここにあった雑居ビルの1階に入ってたのと同じやつなんだろうけど。うーん、でもどうしようかな。
「お前はいつも何やってるの?」
「僕ですか?、僕は、まあ色々っすね。その日の気分でやるやつは違うっす」
「そうなんだ。……ダイエット目的?」
「いや、まあ……っていうか、僕のことは別にいいじゃないですか。とにかくほら、先輩もせっかく来たんですからまずは何かやってみましょうよ。今日は僕、先輩に付き合いますから」
「お、おう。わかった」
と、ヤリーロに促されて私は改めて受付のお姉さんに話しかけた。
そして私がここの利用は初めてだと言ったら受付のお姉さんはそれはもう丁寧にこのスポーツジムの設備と、2回目以降の利用料金のことについてなど、あれこれと説明してくれて。
利用料金については、フリータイム式で利用時間によって金額が決定する方式のようで、利用時間内であれば基本的に施設内のどの器具を利用してもらっても問題ないとのこと。
このジムは地上3階建て、地下1階構造で地下には屋内プール場がある。
地上1階には受付と休憩所、それとランニングマシンなどがあり、2階には他の器具やヨガ教室、それと他にも貸出しスペースがあって、そこは日によって色々な催しがあるそう。3階は事務所になっていて一般神は立ち入り禁止。
ちなみに、半年前にオープンしたこのジムだが、評判はそこそこといったところ。
ただ、たまに有名アスリート神などもお忍びで利用しに来ることもあるそうで、その噂も広まったせいか利用客はけっこう多いらしい。
「それでお客様、どうされますか?」
「え、ああ。うーんと、あの、ちなみにプールって、水着とかは?」
「もちろん貸出ししております。こちらも初回のご利用では無料となっています。ただ、次回以降は水着と、運動用のジャージの貸出しにつきましては、施設の利用料金とは別に料金が発生しますので」
「外から自分で持ち込みしてもいいんですか?」
「はい。物にもよりますけど基本的には大丈夫ですよ」
「あー、それじゃあ今日はプールで」
今日はここまで歩いてきただけでも久々の運動としてはよくやった方だと思うし。
ここからさらにランニングマシンとかやったら帰れなくなりそうだったから。
その点プールなら、自分のペースで泳げるし、運動不足の解消には持って来いだろう。
何よりも、プールに入るのなんて中学の時の体育の授業以来だからな。
というわけで私(と私に付き合ってくれるらしいヤリーロ)は階段を降りて地下へと向かった。
そして地下には一般的に学校などにある25メートルプールだけでなく、40メートルプール、ウォータースライダーが設置された流れる温水プールなど様々なプールがあって。
まあ、建物の敷地面積の大きさからそれも予想はしてたけど、すごかったよ。
「先輩、どうしたんすか?」
「あ、いや……ううん。なんでもないよ」
「あそこで水着の貸出ししてるんで、選んで更衣室で着替えて、手荷物や貴重品なんかはロッカールームに預けるんす」
「ああ、うん。わかった」
私はヤリーロに言われるがままに地下の受付カウンターで水着の貸出しを頼み、自分の身長とボディラインに合いそうな水着を選ぶと女性用更衣室へ。ヤリーロも水着を選ぶと男性用更衣室へと向かった。
そして私はその日、途中で休憩を挟みつつも3時間ほどそのジムで運動をした。
最初はプールに入ってしばらく遊泳して、終わりにヤリーロと25メートルプールどっちが先にゴールできるか競争したりして、案の定というか私が圧勝して。そうしたらヤリーロの奴が……
「いやあ僕はデブなんで先輩がうらやましいっす。水の抵抗少なそうですもんね、先輩は」
と、私の体の一部(どことはあえて言わない)を見ながらそんなことを言いやがったんで私はすかさずヤリーロにヘッドロックをかけて締め落としてやったり。
昼食は1階の休憩所にあった自販機で売ってたカロリーマイトで済ませて。ヤリーロのおごりで。
そして最後の方はなぜかヨガ教室でヨガを体験してみることなったりして。ヤリーロはあまりのデブさに体を曲げることができず速攻で諦めてたけど。まあでも楽しかったよ、その分疲れもしたけど。
スポーツジムを出る時に、受付で会員証を作らされた。
次回以降の利用の際はこれを提示しないと施設の利用はできないようで、会員証はポイントカードの役割もあり、利用するごとにポイントが溜まっていき、ポイントが溜まるとなにか景品がもらえるという。
「へぇ、ちなみに景品ってどんなのがもらえるんですか?」
と、私が聞いて、受付のお姉さんが見せてくれたポイントでもらえる景品一覧を見て、私は察した。
景品の中に、ここでしか手に入らないらしいアイドルの限定グッズ(アイドル名はよく知らないやつだった)があったから。
「ヤリーロ、お前がこのジムに通ってる理由ってさ……」
「な、な、なんすかその目は。ち、違いますよ。ここには本当に日頃の運動不足解消のために……」
「ほんとかな~~~~?」
「あ……す、すみません。今のは嘘っす。先輩のお察しの通りっす」
「やっぱりか」
しかし、聞くところによるとヤリーロはもうすでにポイントをためてそのアイドルグッズは手に入れていたようで、今日ここに来たのは本当に運動不足解消のためだったらしい。
というか、スポーツジムのポイントの交換景品にアイドルグッズって、もう意味がわからないよな。
まあでも、コンビニで定期的にやってる一番くじだって、同じようなところあるしな。
ちなみに、後でヤリーロに聞いた話によると、このスポーツジムがオープンした時に、広告塔として起用されたのが件のアイドルグループらしく、そのアイドルグループはいわゆる体育会系で、と、そこらへんからもう私にはよくわからない世界の話になりつつあったのだが。とにかく、だからポイントの景品にそのアイドルグループの限定グッズがあるということはわかった。
っていうか、ヤリーロはほんとに完全なドルオタだったんだな。いや、わかってたつもりだけども。
ヤリーロが会計を済ませて、一緒にスポーツジムを出たのが午後2時半過ぎのこと。
「ヤリーロはこの後どうするん?」
「僕はもうアパートに帰ろうかと思ってますけど、あ、途中でコンビニよろうかなと」
「そっか。うーん、じゃあ私もそうしようかな」
ということで私はヤリーロと一緒にアパートまで帰ることに。
その帰り道の途中では、まあ予想通りヤリーロの方から昨今のアイドル事情についてのあれやこれを熱く語られて、私はたまに質問とかしつつもそれを聞いていたのだが。
話の区切りがよさそうなところで私の方からもヤリーロに1つ話題を振ってみた。
「あ、そうだヤリーロ。ちょっとお前に聞きたいことあったんだけど」
「え、なんすか?、こういう時に先輩の方から質問って珍しいっすね」
「いや、ちょっとな。ほら、この前うちのアパートに新しい住人来たじゃん?」
「え?、あー、みたいっすね。たしか先輩の隣の部屋じゃなかったっすか?」
「うん、そうそう。それでさ、ヤリーロは……そいつの姿見たことある?」
いや、この質問の答えは実はわかってるんだ。
もしもヤリーロがそいつ(=スクルド)の姿を見たことがあるならば、ヤリーロはすぐにその正体を見抜き、そしてそのことを私に報告してくるだろうから。おそらくは異様なテンションで。
もしかすると私と自分の部屋の場所を取り替えてくれ、とか言ってきそうだ。まあさすがにそれはないとは信じたいところだが。
「いいえ、見てないっすけど。え、なんすか、もしかして先輩もまだ見てないんすか?」
「い、いや。私は見たよ。っていうか引っ越しの挨拶にもちゃんと来てくれたし」
「ふーん、それでどうして僕にその人のこと聞いたんすか?」
「い、いや。その、ごめん。特に意味はないんだ」
「そうっすか」
普通ならここで不審に思って色々とつっこんできそうなものだけど、ヤリーロはそもそもアイドル関係以外の話は基本興味がないんで、相手がなんでもないと言ったらすんなり引っ込んでくれる。
だけど、ある意味これもアイドル関係の話ではあるのだけど。
まあとにかく、ヤリーロはまだ同じアパートに元アイドルのスクルドが住んでいるということには気づいていないようなんで、とりあえずはほっとした。いや、何にほっとしたのかは私にもわからんのだが。
そして私とヤリーロはコンビニに立ち寄り、私は特に何も買わず、ヤリーロはお菓子類を買った。
それから私たちは『はしくれ荘』に戻ってきたのだが。
「あれ、なんかアパートの前に車停まってない?」
「誰かの引っ越しっすかね?」
『はしくれ荘』の前に白いワゴン車が1台停まっているのが見えた。
なんだろう、また新しい住人でも来たのか、それとも退去かな。
と、アパートの方を見ていたら2階の一番端の部屋、205号室の扉が開かれた。
205号室はたしか、大学教授のイシュタムさんの部屋だったな。
しかし205号室からは私の知らない若い男女の神々、おそらくは大学生だろうが、そいつらがダンボール箱を抱えて出てきた。そして最後に部屋の主である女神、イシュタムさんが。
「あら、ごめんなさいね。うるさかったかしら」
イシュタムさんは階段を降りてきたあたりで私たちに気づき、そう声をかけてきた。
「いえ、あの、お引越しですか?」
「ええ、そうなの。って言っても最近は全然こっちには帰ってなかったんだけどね。大学の方の教員用の宿舎が改築されて大きくなってね。それで少し部屋が余ってるっていうんで私も教授なんだし、そっちに住んでもらえないかって言われちゃってね」
「そうなんですね」
「それで今日、ちょうど大学で暇してた子たちが何人かいたから、こうして引っ越しのお手伝いをしてもらってるってわけ。今ちょうど終わったところなのよ」
なるほど、まあそれは見たら大体予想はついたけども。
「あ、じゃあ私もう行くわね。アストレアさんと、ヤリーロさん。お元気で」
そう言ってイシュタムさんは微笑み、軽い会釈をしてからアパート前に停まっていた白いワゴン車の助手席に乗り込むと、車は走り出して行ってしまった。
それにしても、前に話したのはずいぶん前のことだったはずなのに、よく私の名前覚えてたな。
「僕、あの人とは1回くらいしか話したことないのに。すごい記憶力っすね」
さらにヤリーロがそう言ったのを聞いて私も同じことを思ったけど。
大学教授ならむしろそのくらい記憶力よくないとダメなのかもしれないな。
その記憶力、私にもちょっと分けてもらいたいよ。ほんとに。
次回、アストレアの3日間の休日2日目。
アストレア、久々に下界へ行くの巻。
あと、4月からは話の更新速度をまた少し上げていきたいなと思っている所存です。
3月いっぱいは忙しくて難しそうですので。次回更新は4月頭の予定。




