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「行こう。十六十くん」
促した癖に、京さんは歩き出さない。ああ、ボクが先に行けってことか。渋々、通路を進み始めると、背中を暖かい感触が押した。多分、京さんの掌だ。
なんか勇気を振り切って、余分なエネルギーが湧いてきちゃいそうだよ。
面を打った姿勢のままだった穣くんが、ボクたちの到着で動きだす。一旦上段に戻り、続けて正眼の構え。
「ひっ」
その動作を、更なる攻撃へのシフトだと思ったのか、付喪神がホワイトボードまで後退った。頭を庇うように上げた手。怯えるように下がった目には、遠くからでは見えなかっただけで、ちゃんと白目が有る。
本当だ。そろばんと肉体、容れ物が違うだけの同じ人間。
「ごめんね。脅かすつもりはなかったんだ」
京さんからは、まだちょっと、おっかなびっくりの気配が消えきっていない。
「お前たちは、いったい何なんだ」
「玩具トラブルの解決業をしている者だよ。今日は君に、幾つか聞きたいことがあるんだ」
「信じられないな。話をするだけなら、なんで刀なんか持ってきたんだ」
ゆらりと『猫目丸』を指差す付喪神。ボクも同感だ。
「持ち主も含めて、護身用だよ。君が攻撃してこなかったら使うつもりはなかった」
大したもので、京さんに頭をぽんぽん叩かれても、護身用人間は構えを崩さない。
「だったら、仕舞ってくれよ」
「あんたがそろばん珠をぶつけないって約束するなら、構えを解いてもいいぜ。でも、しまうのはダメだ。だって、鞘取ってくんのめんどうだからな。モチロン約束できねえなら構えも解かねえ――」
相手が付喪神でも、穣くんの饒舌は変わらないんだ。そういえば、付喪神と穣くん、丸刈りキャラが被っているな。
「約束する。もう、こっちから攻撃はしない。どうせ、ぶつかるまえに止められるんだ。やるだけ無駄だからな」
否、多分止められないけれどね。
「――突きだって練習――いいのか? 姉ちゃん」
「いいよ」
穣くんは構えを解いた。刀の切っ先が逸れ、やっと人心地付いたみたいで、付喪神は「ふう」っと小さく息を吐く。
「で? 聞きたいことってなんだよ」
「まずは、君が付喪神になったのはいつ頃かな?」
「さあね。こんな風になってから、何日とか何年とか気にしなくなったからな。暗くなったらそろばんの練習を始めて、明るくなったら終わりにする。それだけだよ。ただ、制服が二回変わるくらい前だったのは確かだ」
付喪神は、穣くんとボクの服装を一瞥した。
「そろばんを玩具に仕立てようとした店の名前は覚えてる?」
「『晴明堂』だ。忘れるわけないだろう。あのオヤジ、仕立てに失敗したら、慌ててそろばんごと骨董屋に売り飛ばしやがった」
「『清明堂』? 聞いたことないな。商売柄、結構広範囲の仕立て屋に顔が利くんだけど。屋号に有名人の名前を騙ってるくらいだから、大方、腕が悪くて潰れたんだろうね。
じゃあ、最後の質問。この学校で、セカイ語が大きく歪んでいる場所を知っていたら、教えてくれない?」
「セカイ語ってなんだ?」
「今の君を形作っている、異なる世界の層『異層』の法則だよ」
イソウって、そういう意味だったんだ。じゃあ、阿僧祇氏が勤めているのは、異層対応局ってことか。
「俺みたいなのが歪んでいる場所か」
付喪神、校内全域についての質問に答えようとしているってことは、自由に移動できるんだ。骨董屋から珠算実習室までは、自力で来たのかも。
「そんな場所は、図書室くらいだな」
「ああ、そこは、この間調べたよ」
『夕暮れの目録』か。あれはハズレだったんだよな。京さんががっかりするのも無理はない。
「場所じゃなくて、人じゃダメなのか?」
「どういうこと?」
京さんが穣くんとボクを掻き分ける。ここに至って、やっと恐怖を克服したのか。それとも、恐怖を忘れる程の興味が湧いたのか。
「明るいころだったから、姿はみてないけど。この間、ここに人が来た気配と同時に身体が揺さぶられた気がして、驚いたことがあったんだ。一回だけだから、珠算部の誰かじゃないのは確かだな」
「姉ちゃん。それってもしかして」
穣くんの声が低い。
「多分、玩具屋だね。怖い思いをして聞きに来たかいがあった」
まさかこんな事があるとは。ボクと付喪神は、同意を求めるように視線を交わして、首を傾げた。
玩具屋? それは、仕立て屋とは違うのか?
質問は、できなかった。
いつも飄々としている新谷姉弟のシリアスな雰囲気が、それを拒んでいる気がしたから。
「十六十くん、ありがとう。当たりだよ」
戸惑うボクに気を使ってくれたのかな。京さんは正面から満面の笑みをくれた。
でもそれは、決して、心温まる類のものではなかった。
おわり