6
しゃあ、ぱちぱちぱち……。しゃあ、ぱちぱちぱち……。
件の音が、珠算実習室の外に漏れていた。これで天井の照明が消えていたら、一秒で逃げるな。
「ううぅ……」
振り返る。京さんがゲーム・スフィアを、球体のまま両手で持って唸っていた。一方、穣くんは、竹刀袋から物騒な代物を取り出す。もう、誰が見たって日本刀と思う逸品。京さんが玩具の副作用について説明していた時の「刀」は、比喩でもなんでも無かった。
「俺の方はいつでもいいぜ。なんなら、予め『風化』にしておくか? 粘土なら持ってきてるけど。でも、『気』が入ってなかったら逆効果だから、止めといたほうがいいよな。何だよ姉ちゃん。まだ、『シンク・スフィア』起動して――」
穣くんの声小さいのに、うるさいな。手元を見たら、鯉口は既に切っていた。テレビとかでちきっと金属音がなるのは、フィクションだったみたいだ。
「あの、京さん?」
急かさないように、とは想いつつ、ボクは声を掛ける。
「……」
恨みがましい目で見られた。かといって、反論も言い訳もしない。彼女は黙々と、ゲーム・スフィアを展開する。起動音が聞こえないのは、音を消しているからだろう。穣くんにも、是非搭載したい機能だ。
「いいよ、準備できた」
何度か傾けたりボタンを押したりした後の京さんの声が、異状に小さい。あわよくば聴き逃されて時間が無為に過ぎる、って展開をねらっているのかな。
だとしたら、そうは行かない。ボクは返事代わりに頷いて、出入口の引き戸に手を掛ける。
「じゃあ、開けますよ」
気配で、姉弟が頷いた気がする。
ごろろんっと、想像より軽い抵抗感で戸が開く。
一番奥。ホワイトボードを正面とすれば最前列のど真ん中の席に、青白い光を纏った丸刈り頭が座っていた。室の照明が消えているから分かりにくいけれど、確かに詰め襟の制服を着ているみたいだ。
しゃあ、ぱちぱちぱち……。しゃあ、ぱちぱちぱち……。
音に合わせて、小刻みに身体が揺れている。風で開閉を繰り返す廃墟の扉のように、ただ只管、そろばんをはじく少年。
新谷姉弟は付喪神って言っていたけど、これは幽霊でしょう。
おもちゃのスライムをかぶったように悪寒がはしり、足がすくむ。
「ナユタ先輩じゃま」
ボクは押し退けられた。
ずいずい進むのと、やんわり動く気配。穣くん、京さんの順番で入ってきたようだ。
引き戸が閉められ、明かりは、その上部にはめられたガラスから漏れる廊下の明かりだけになった。
「どうだ姉ちゃん。やっぱり『気』が多いのか。手を早く動かすんだから『気』か『時』を使わなきゃだめだろお。どれが多くても大丈夫なように準備はしてるけどな。そうだ、抜刀しておくか。鞘は机に置いておくぞ。床に置いて、踏んだり蹴飛ばしたりしたらあぶねえもんな」
振り向いて、思わずのけぞる。顔のすぐ近くに抜身の刀身が迫っていた。
「あ、悪りい悪りい。でも、これ、刃が無えから切れねえよ。殴れば痛えけど」
穣くんは、人差し指で刃をなぞった。
って、何してんだよ。ちぢむわっ。
「ほら、切れてねえ」
ボクに見せた穣くんの指は、全くの無傷だった。
「逆刃刀でもねえから。飛天御剣流じゃ――」
今度は峰でも同様にしてみせた。やっぱり指は切れない。
「ふう……」
安心した。縮んだいろいろな部分が弛緩する。
「ほとんど『土』だね。『乾』と『冷』に分解して使ってる。でも、若干『火』と『質』も入ってるかな。この二つは分解してないけど」
男二人がアホなやり取りをしている最中、京さんはきちんと仕事をこなしていた。弟の陰に隠れて、引っ込む寸前のモグラ叩きみたくなっているけれど。
「――だから最後まで読んで――って、なんで『土』なんだよ。そんなもん多くたって、早く動けねえじゃん。空気テーコーを減らす『気』か、マサツテーコーを減らすジュンカツ油の『水』か、自分の時間を早く動かす『時』だろお。使うなら。全部逆じゃん」
穣くんが『猫目丸』を振り回す。予想外で苛つくのは分かる。でも、止めてくれないかなあ、天井の照明にぶつかりそうだよ。
「そろばんは単なる器で、もっと違った目的のための玩具だとか?」
ゲーム・スフィアを操りながら、京さんは眉を寄せる。先週『倉庫番』をやっていた時と同じだ。
悩める新谷姉弟に対して、ボクには一つ心当たりがある。差し出がましい気がするけれど、口を挟まずにいられない。
「もしかして、早く動かすのが目的じゃないのかも」
「あんなに必死になってそろばんを練習してるのにか?」
『猫目丸』の切っ先がボクの眉間にぴたりと付いた。偶然? 否、わざとか?
わざとだとしても、ボクは怯まない。
「だって、特殊な能力で早くなったら卑怯だよ」
「十六十くんの言うとおりかも」
弟が振り回す刀に、当たらないようにしゃがんでいた京さんが立ち上がり、目を合わせた。
「だとしたら、『土』『火』『質』を使って何をしようとしてたのかな」
意見を求められて嬉しい半面、カッコつけて間違っていたらどおしようと不安を感じなくもない。懐中時計を握って応える。
「そろばんは(樹木の方の)木でできてるから、保管するのに一番の大敵は湿気と熱です。『土』を分解した『乾』と『冷』は、単独で使用できるんですよね」
京さんの瞳がみるみる輝き出した。暗い室でも分かるくらいに。
「そういうことか。全部そろばんを長持ちさせるための工夫なんだ。少しだけ入っている『火』と『質』を分解していないのは、本物の水が掛かった場合と経年劣化の対策だね」
多分、間違いない。自信を込めてボクは頷いた。
「そろばんの技術は練習でキタえる。玩具の能力はだいじな道具の保管のために使う。ってことか? だったら、ああやって、ずっとそろばんの練習してるのもナットクだな。かっこいいじゃん。俺、あいつ、嫌いじゃないかも。なあ姉ちゃん、『弥生』でバッサリは、かわいそうじゃねえか? 少しけずるくらいで止めとこうぜ」
どことなく好戦的だった穣くんの口調が和らぐ。文と武の違いはあっても、己を磨いて高める志に、通ずるものがあるのか。
「初めからバッサリの予定はないよ。退治に来たんじゃないんだから」
えっそうなんだ。ならば、何のために京さんは、苦手な付喪神に会いに来たのだろう。
「じゃあ、『弥生』じゃねえから『質』に対抗して『時』か。『黄昏』だな。えっとコセンは……あった」
ぴんっ。
穣くんがごそごそと取り出した物が何か、ボクの目が認識する前に、それは、敢えなく弾け飛んだ。
首を傾げる穣くん。
「何やってるの?」
尋ねる姉。
「よくわかんねえ。とりあえず、コセンは後で拾うとして『朧月』でいくか」
今度取り出したものは分かった。小さな瓶だ。右手の親指と人差し指で摘まれたそれのなかには、透明な液体が満たされている。
「あ、フタはずさなきゃな」
穣くんは、左手に持っていた刀を机に置く。空いた手に小瓶を持ち替え、左手で下部、右手で蓋のコルクを摘む形になった。
ぱきんっ。
両手で持っていた小瓶が、真ん中から二つに別れた。中の液体がこぼれる。
おかしい。
二回続いたこともそうだけれど。何より、小瓶が勝手に割れるはずがない。
もしかして。
ボクは珠算実習室の奥に目をやった。
ホワイトボードの正面、最前列のど真ん中の席。一心不乱にそろばんをはじいていたはずの詰め襟丸刈り頭の少年が、纏った青白い光を波立たせて立ち上がり。
こちらを見ていた。
「さっきからごちゃごちゃ煩いんだよお前ら」