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第二話 『夕焼け図書室』より
「七不思議集め、引き続き頼むね」
図書室から昇降口へと向かう道すがら。ちぢむ吹き戻しのように勢い良く振りかえって、新谷京さんはボクに告げた。
「『夕暮れの目録』はハズレですか?」
「天之屋で仕立てたのは、嘘じゃなさそうだからね」
素っ気ない去り方だったけれど、司書の先生に対して悪印象は抱いていなかったみたいだ。
「昨日の今日で玩具絡みのネタを見つけるなんて大したもんだよ。十六十くんには才能があるのかも」
「いやぁ、それほど――」
「じゃ、またね」
照れて下げた顔を上げたら、彼女は後ろ姿になっていた。手は振ってくれたけれど、振り返ることはなかった。
そして今日。美術室の入口に立ったボクは、真夏の室外機のようにどんよりと、重いため息を吐く。
美術室の引き戸が岩戸のように重い。「今は絵を描いてて真面目モードだから」と、持田はまた部活を欠席だ。せめてあいつが一緒なら軽々と開けられるのに。
中に入ってざっと見渡すと、今日も女子のグループが二つできていた。メンバーが一年生と二年生で別れている。月曜日と同じだ。違いがあるとすれば、部長の松井遥先輩が来ていること。
幸か不幸か、あの人もちゃんと出席していた。芳美千夏先輩のことじゃない。そっちなら「不幸」なはずがない。流し目からの凝視、そして投げつけるように発する一言一言。一挙手一投足でボクを打ちのめす、永田彩乃先輩のことだ。
隅に片付けてあったイーゼルを、一年生の陣地と二年生の陣地の中間地点くらいにはこぶ。つぎに、描きかけの絵を取ってそこにのせる。絵の具セットを窓際から持ってきて蓋を開く。今日使いそうな絵の具を選んでパレットに出す。これまでの経過を思い出す体でじっくりと絵を見直す。頭の中で「明日でもいいんだよな」って、考えながら。
って、何やってんだよ自分。もう、ボクには永田先輩くらいしか宛はないじゃないか。
なので、少しずつ慣らしていく作戦に出ようと思う。
生唾を飲み込み、懐中時計をぎゅっと握って歩きだす。
進んだ距離は、同じ美術室内だからせいぜい数メートル。なんだけれど、普通教室棟の端から端まではあるように感じた。
まずは、松井先輩からだ。
「どぉも、部長。お久しぶりです」
「えー。そんなに久しぶりかなー」
相変わらず、ぽわんとした雰囲気の人だ。こんな見た目によらず美術部部長と生徒会書記をこなすのだから、女子って不思議だ。
「熊沢先生は来てないんですか?」
「うん、木曜日だからねー」
そうだった。顧問の熊沢は非常勤講師。月・水・金にしか来なかったんだっけ。
「先輩。生徒会の方は……」
松井先輩の鮮やかなペインティングナイフさばきが、全く止まらない。やっぱり、生徒会との掛けもちで、進捗が捗々しくないんだろうな。ボクは、質問を飲みこんだ。
ともあれ、少し暖まった。邪魔にならないように、そっと後じさってから横をむく。次は芳美先輩だ。
「あ、あの、芳美先輩、前から気になってたんですけど」
「ん?」
筆を止め、芳美先輩がこちらをみた。なんでこの人の瞳は、いつもいたずらに成功した子供のようにきらきらしているのだろう。意識した途端、全身が熱くなる。
「その向日葵は、どうして長靴から生えてるんですか」
「潮水に濡れたら困るから」
屈託のない笑顔だ。
彼女の前にあるキャンバスには、鮮やかな、青い空と海岸が描かれていた。麦わら帽子をかぶった白いワンピースの女性と長靴から生えた向日葵が、波打ち際に立っている。
「長靴を履いた向日葵じゃなかったんだ」
なんとなく感じたことを呟いてみる。芳美先輩の大きな瞳がより一層拡大し、口が、手品でボールをだすように、小さく「O」の字にひらいた。
「その答え、貰ってもいい?」
これは、ボーナスチャンスかも。閃け、ボクの中に眠るユーモアセンス。
「つ、つまらないものですが」
「ありがとう」
会心の回答だったかはわからないけれど、先輩は嬉しそうに絵描きを再開した。小さな声で、BootsとかSunflowerとか歌いながら。
うん、いい感じ。この気分はきっと、永田先輩の冷凍攻撃に対する強固なバリアになるだろう。
「ちょっと、盆蔵」
来た。
顔が弛緩して蕩けてしまいそうになっていたボクを、低く掠れた声が、触手のようにとらえた。体に纏ったバリアが立所に霧消し、ぞわりと粟が生じる。
目論見が甘かった。
「はい、なんでしょう」
氷の女王が、腕と脚を組んでこちらをみていた。