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「ジゼル」
「クラウス、どうしてここにいるの?」
今、ちょうどこの時期には王宮で開かれる『春のお茶会』という催しものやその他の催事のために三家を筆頭に他の貴族たちが集まっている。なので、三家の一つの嫡男であるクラウスに対するジゼルの問いはなぜ領地ではなく王宮にという意味ではなく、どうして会場ではなく声さえ聞こえないここにいるのかということ。
庭の入り口の方から現れ距離が縮まるにつれて、ジゼルが座っているせいでいつもより見上げることになるクラウスはお茶会におとなしく来たらしい、装いが表していた。
「元はいいものね……」
長躯にまとうは旅装束ではなく身分に相応しい仕立てのよい正装で、クラウスとて素材は良いのでちゃんとすれば似合うのだ。見違えるようで、これならば誰が見てもシモンズ公爵家の御曹司だ。
ジゼルが眺めていると、服装は違えど中身は同じ。クラウスが堂々と言い放つではないか。
「ジゼルがいなかったから探しにきた」
「探しに――あなたね……」
口実にするのも大概にするといい。
と呆れていると、前にまで来たクラウスが後頭部でくくっていたと思われる髪をほどいた様子が見えた。
「どうしてほどいてしまうのよ」
「どうせもう戻らない」
「何を馬鹿なことを言っているの。貸して。ここ座んなさい」
「いやいい」
「あなたがいいだけでしょう。早く」
人はいないからちょうどいい。
ベンチの隣を指差すと、たまにいるそこは汚れていないのかと気にしてごねるような性格の貴公子ではないクラウスは大人しく座る。ジゼルは胸元から櫛を取り出し立ち上がって、その後ろに回り頭に手を伸ばす。
手入れすればさらさらになるだろうに。心の中でもったいないと呟きながら、ジゼルはどこに行っていたというのかまだ荒れの濃い黒みかかった青い髪を少しずつ櫛削る。
おそらく使用人が手をいれようとしてもクラウスが頑として受け入れなかった様子が目に浮かぶ。枝毛がいっぱいだと切ってやる小さな鋏がないことを残念に思う。
「手入れなさいよ」
「嫌だ。面倒だ。この際切ってやろうかと思ったが、ジゼルがこうしてくれるなら止めておくか」
何を言っているのだか。
国軍に入らない限り、身分の高い者は髪を長くする。クラウスの場合は度々切るのがそれこそ面倒で伸ばしている感が否めないが……。
こんな言動をしているのにこうしてお茶会のためにきっちりとはしてきたのだな、とジゼルが不思議に思うのは自然なことだろう。
「それで春のお茶会は? そのために来たのでしょう?」
「どっちかというとジゼルがいるから大人しく来た」
「大人しく来たのなら最後まで大人しくしてなさい」
「ジゼル」
「なに」
「俺の嫁になってくれよ」
「断るわ」
流れるように問答は終えられ、こちらに背を向けているクラウスはそれ以上何も言わなかった。
クラウスがどのような意図で求婚めいたことばを囁き、してくるのか。残念ながらジゼルには理由は思い当たらない。
ジゼルがクラウスとはじめて会ったのは五度目のとき。それから一度ジゼルは死に、生まれ、再び会ったとき幼きクラウスからしてみると容姿はまったく同じなので外見年齢は巻き戻っていたという感想を抱くことになるはずだ。
『伝説』では呪われた乙女は若き命を散らす運命にあり、その身のみならずその子孫に至るまで代々呪いは受け継がれることとなった。今もなお呪いは続き、もしかすると呪いを宿す乙女の子孫は短命の運命を抱えながら生きているのかもしれない……。ということになっている。
そのため以前に会い、一度生を終えて会ったときジゼルが件の呪いの乙女だと聞き、かつて神に祝福を受けて堕ちた神を封じたのだとしても神に呪われているということによりジゼルを忌避する人たちはいる。
単にクラウスは以前のジゼルを覚えていないのか、名前が同じで容姿と対応もまるで同じだけれど伝説を知り幼いながらに別人と認識したのか。細かい、で収められることではないはずだけれど幼かったことが作用しているのか、気にならなかったのかもしれない。前回の「ジゼル」がなかったことにされたのならそれはそれで悲しいような気もするが……。
父親であるデレックも全ての事情を知っているとはいえ以前と同じ態度で、ただ少し会わなかっただけという風に接してくれたので親子だなと思うことにした。
まあ「可愛くなったな!」とデレックに言われたときはどうしてやろうかと思ったのは別の話。
などと過去を思い返していると触れる髪が覆う肩幅の、背中の広さが目に入った。あれ? 瞼の裏に浮かんでいた大きさとの差異に目を瞬く。
「ジゼル?」
――「ジゼル!」
呼ぶ声の差異に。
いやこれはデレックだったろうか。以前彼にもこんなことがあって、はっとして――
ふいに息苦しさを覚えた。手から溢れる紺碧色の髪が遠ざかるような。
「ジゼル」
瞬きして視界が明確になったとき、向けられていたのは背中ではなく顔だった。
「……なに?」
「何じゃない。どうしたんだ、具合でも悪いのか? だからここにいたのか?」
「いいえ少し、少し……ぼーっとしていただけ。ごめんなさい。それからここにいたのはただの日向ぼっこよ」
「いや顔青くないか」
「外だからそう見えるのよ」
私、日に焼けにくい体質だから。とよく分からない理由もつけ加えてジゼルは伸ばされ頬に触れそうになった指先を反射的に避ける。避けたあとになぜ避けたのかと思い、ごまかすように言う。
「ほら前向いて」
強引に前に向かせて手早く髪をまとめてやり、終わったと肩を軽く叩く。
「そろそろ戻りなさい」
「ジゼルは」
「私は強制ではないもの」
「ずるいぞ」
「シモンズ家の嫡男が何を言っているの」
いずれは公爵家を継ぎ、一人でやって来ることもあるだろうに。
「私は部屋に戻るわ」
「待て」
手を掴まれジゼルは無意識に息を浅く吸った。
その意味を自分でも理解できないままに立ち止まらざるを得なくした人物を呆れたように見る。
「クラウス、戻らないとデレックにあとでここに来ていたって言うわよ」
「それで戻るとでも思うのか?」
「戻んなさい」
「退屈なお茶会にだけ出たんじゃ、割りに合わない」
強固な蒼い目はじっと下からジゼルを見上げ、ジゼルの指を覆い隠してしまいそうなほどに大きな手で握る手に力が込められた。
「もう少しだけ、ここにいろよ」
引っ張ることはせずに手もともすれば簡単にほどいてしまえるほどの力だけで、けれど尋ねる形は取らずに言った。
ジゼルは迷いを覚えた。
ここから去ろうとした足は前に進もうとしているのかこの場に立ち止まろうとしているのか。図りきれなかった。
当たり前だ。足はジゼルの意思で動き、そのジゼルは今迷っている。
春のやわらかな風が間にジゼルに、クラウスに吹き、髪が揺れたがジゼルの髪は軍服のときとは違いほどいておろしているままにしてあるが風向きのおかげで背で揺れるだけ。見えたのは青みの強い髪が揺れる様。
「……少しだけよ」
その結果ジゼルの出した答えはそれだった。折衷案のようなそれ。
――いつの間にか、時は過ぎている
そのことに気がつきたくないから、気がつく前まで。呪いにより廻る長い生の中で会っては去っていってしまう人たちがくれる心地の良い空気に浸りきってしまう前にまでならば。
「一緒に日向ぼっこでもしましょうか」
ジゼルは微笑んだ。