07
―――3X67年5月22日9時29分
イプスがエータに連れられて店前に行くと、ボルツがタバコを吸いながら待っていた。
「ボルツ、おはよう」
「おお、来たか。イプス、その服どうしたんだ?」
イプス昨日まで、病院で支給される服のような物を着ていたのだが、今はすこし大き目のTシャツと七分のジーンズを身に着けていた。とはいっても、七分丈のジーンズはイプスには長すぎて足首まで届いてしまっているのだが。
「エータがくれたの」
ボルツはエータの方を見たが、エータは表情一つ変えずにどこか遠くを見ていて、ボルツの方を見ようとしない。
「へぇ~、そりゃよかったな。朝飯は食ったか?」
「うん。パンの上に焼いた卵が乗ってるのを食べたよ」
「そうか。じゃあ、今日は病院に行こうか」
「ん? 私何処も悪くないよ?」
「ほら、昨日言ってた、ずっと生身の体で居る奴に会いに行くんだよ。検査も一応するが、それはオマケだ」
無論、ボルツとしては『向こう側』から詳細が一切知らされていないイプスの事について調べるために病院に行こうとしている。
「ふ~ん。わかった。じゃあ、エータ。またね」
エータはイプスの方を振り向かずに手を振って、店の中に入って行った。
それを見て、ボルツは歩きだし、その後ろにイプスが続く。
「あのさぁ、エータって、恥ずかしがり屋さんなんだね」
「確かに、そう言うところはあるな。しかしイプス、エータに何をしたんだ? いくら俺の頼みで預からせたとはいえ、エータは自分の服を他人にあげたりしないぞ」
「何にもしてないけど? ただお話してただけ。それも、愛想のない返し方されちゃって、すぐ寝ろって言われちゃった」
イプスは理解していないが、エータはイプスの事を認めているのだ。短い時間、少ないやり取りでボルツとイプスの関係をなんとなく推測できる程度には物事を観察する能力があるのだと。
「ふむ、やはり女はわからん」
―――3X67年5月22日10時12分
二人は少し歩いて、近くの病院に着いた。しかし、病院というよりは、廃墟と言った方が近く、清潔感のかけらもない寂れた建物だった。
しかし、建物の入り口に張られたダンボールにマジックで『ドクター・アヴィセント診療所』と書きなぐられていたので、間違いなく病院であることがわかる。
ボルツが受付で話を済ませると、すぐに二人は奥に通された。
部屋に入ると、メガネをかけた白衣の男が椅子に座ったまま、二人を出迎えた。
「やぁ。今日はその子の事を診てほしいんだって?」
彼がこの診療所を取り仕切るドクター・アヴィセントである。短めに整えられた黒髪が、アヴィセントの若い見た目をより一層若く見せる。
「ああ、今日はよろしく頼む」
「堅苦しいのはいいって、ボルツはウチのお得意様だからね。少しぐらいならサービスしとくよ」
「そいつはありがたい。色々あって、金のやりくりに困ってるからな」
「それは僕に対する嫌みかな?」
「一部はな」
「ふ~ん。そうえば、君はイプスと言ったね。ボルツから聞いた話なんだが、本当に全身生身なのかい?」
アヴィセントの問いかけに、イプスは2~3度、頭を縦に振った。
「じゃあ、僕と同じだね」
そう言って、アヴィセントはイプスに手を差し伸べ、二人は握手をした。
「お兄さんも、機械が入ってないの?」
「ああ、僕はそもそも『向こう側』で育ってきたからね。こっちに来た時には他人に狙われないようにする知恵も力も持っていたしね」
「わたしも『向こう側』で生まれたよ」
「そうかい。それじゃあ、尚更同じというわけだね。これから、よろしくたのむよ」
「うん。よろしく」
そう言って、二人は握手した手を上下に振った。
「それじゃあ、まずは基本の身長体重の検査から始めるから、君はそこの看護婦さんについて行って、検査をしてくれるかな?」
そう言われたイプスは、ボルツの方を見て、意見を仰ぐ。
「ああ、行って来い」
ボルツの承諾を得て、イプスは看護婦の元へと歩いて行き、手を引かれて部屋を出た。
イプスが部屋から出たのを見計らって、アヴィセントはボルツに話しかける。
「で、新たな出費でも増えたのかい?」
「まぁ、少しの間あの子を預からないといけないんだが、その分食費やらなんやらとかかりそうだし、面倒を見る分、できる仕事も限られてくるかもしれないからな」
「なるほど。子連れで裏稼業は厳しいだろうね。人質に取られたら困るだろうし。そうなると、表の方の仕事がメインになるのかな?」
「スティールボールか。最近試合に出てないから、腕が鈍ってるかもしれんな。帰ったら参加申請でも出しておこう」
「それがいいよ。君は試合の勝率は良かったはずだろ? 僕としては、表のスターになってくれるのが楽しみなんだけどな」
「おいおい。すでに最強のスターがいるんだ。勝てば勝つほど、あいつと試合を組まされる可能性が増える。あいつとやって無事でいられるなんて、運が良すぎるだろ。普通なら廃業、運が無けりゃ死ぬことになる」
「そうなれば、僕も困るというわけか。それなら、程々に頑張ってもらうしかないね。ところで、さっきの子について、君はどう思ってるんだ?」
「イプスの事か?」
「ああ、『向こう側』が一体何を考えて送って来たのか。そして、保護させて待機させる意味はなんなのか」
「質問したが、何も答えなかった。恐らく、こちらの様子見じゃなく何か目的があるんだろう。様子見なら、何か理由をでっち上げた方が観察しやすいだろうし」
「あるいは、何も情報を与えないで、怪しい仕事を渡した時にちゃんとやり遂げるか、試しているのかもしれない」
「なるほど。それは考えてなかった」
「元々『向こう側』に居た僕が言うのもなんだけど、やつらは信用しちゃいけない。毎日の仕事を適当にやっても生きていける裕福層は、ヒマを持て余してるからね。僕らが走り回るのを見て笑うのが暇つぶしになってるかもしれない」
アヴィセントがそう言ったところで、看護婦が部屋に入ってきた。
「アヴィセントさん、ちょっといいですか?」
「どうした?」
「あの、視力検査をしていたんですが、ちょっと、信じられないことが起こっているんです。来て貰えますか?」
その言葉に、アヴィセントとボルツは立ち上がって検査室まで向かった。だが、イプスを見たのは検査室に入る手前の廊下だった。
そこでは、本来5mで行う視力検査を、3倍の15mで行っていた。
「じゃあ、コレの向きは?」
そう言って、看護婦は一番小さなランドルト環を指さし、それの欠けている向きをイプスに質問した。
「下」
イプスが即答したのを受け、ボルツとアヴィセントはランドルト環が羅列してある紙の方に走り、向きを確認した。
的中である。
「この向き、覚えていた可能性は?」
アヴィセントの質問に看護婦は首を横に振って答えた。
「距離を変えるたびに違う向きが記された紙で検査していたので、まずありえないかと」
「距離が3倍ってことは、少なくとも視力は6.0あるってことになるな」
神妙な顔をするアヴィセントにボルツは問う。
「ちなみに聞いておくが、普通はどれくらいなんだ?」
「君はこの前測った時に1.75で、人の目を使っているにしては出来過ぎだと話しただろう?」
「ああ、そんなこともあったな」
「普通は1.0ぐらいだよ。僕が今まで見た人の中でも、2をギリギリ超えるのが限界だったんだがな」
結果に驚く二人に看護婦は「表に出て続きを測りますか?」と聞いたが、アヴィセントはすぐに辞めさせた。
「次は、聴力検査に移ってくれ。普通に測れる範疇まででいい。その後の検査も、普通に測れるところまでやるんだ」
看護婦は指示に従って、イプスを連れて行った。
「賢明な判断だな」
「君も気づいたのか?」
「いや、俺は表でこんなことをやって目立つのを防ぎたかっただけだ。でもまぁ、考え直してみると別のことも思いつく」
「なるほど。その口ぶりだと、今は僕と同じ考えだということだね?」
「ああ、イプスは一見生身の普通の人間に見えるが、おそらく遺伝子操作された改造人間だ。丁度、お前の専門分野だな」
「ああ、遺伝子操作関係の設備はこの大陸の中で一番そろってる自信があるから、任せてくれよ」
「お前は研究熱心過ぎて、イプスをバラバラにしないか心配なんだが?」
「何を言ってるんだ? 大事なお得意様の、大事な患者様だ。下手な事はしないよ」
「どうだか。許可されてない人体実験をやらかしたから『向こう側』から追報されたんだろうがよ」
「過去は過去の事ということで、安心してくれよ」
アヴィセントの笑みにボルツは一抹の不安を覚えながらも、検査は滞りなく進んでいった。
イプスの身長や体重はこれと言って一般的な物だったのだが、視力、聴力、筋力などはおおよそ見た目から想像できる一般の物を凌駕していた。
握力は少し鍛えている成人男性と変わらないレベルの数値を出しているのを見て、ボルツは昨日、イプスが自分の首に捕まった状態で走っていたことを思い出した。その時はとっさの事でそれほど何も感じていなかったが、普通のこれぐらいの年頃の女の子なら、途中で捕まっていられなくて、手が離れてしまうシーンがあってもいいはずだ。
これらから、イプスという遺伝子操作された人間が実験でこちらの大陸に送られてきたという今回の任務の全貌が見えて来たかに思えた。
だが、その仮定はすべての検査を終えた時に覆された。