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―――3X67年5月16日21時18分
この時間の外は寒い。特に、秋も終わりに差し掛かり、冬の入り口がすぐそこまで来ている5月の中ごろの夜になると、冷たい風が不揃いな形をした建物の間を吹き抜けて、高い音を立てる。
冬が近い夜の裏路地は治安が悪い。これから寒くなる時期に備えるために物取りが現れ始めるからだ。
だが、そこにはその寒さの中で顔をしかめるどころか、笑顔で手の中に何かを大事そうに握りこんで歩く少女が居た。
その少女の髪は左右で結ばれていて、腰に届くほど長く、歩くたびにそれを可愛く揺らしていた。
「御嬢さん、少し頼みごとがあるんだが、良いかね」
そう言って少女に話しかけてきたのは道の隅で毛布に包まって座り込んでいる男だった。毛布の上からでも、その男の体つきが横に太く、大きいのが見て取れる。
少女はその声に立ち止り、男の方を優しい笑顔で見つめる。
「どうかしましたか? 私ができる程度の事なら、力になりますよ」
「ああ、勿論だ。あんた金持ちだろう? だったら俺を雇ってくれないか? 庭の掃除でも、雑用でもなんでもやるぜ?」
「なぜ、金持ちだと?」
「そうだな。まずは表情が明るい。金が無い奴はそれだけで暗い表情をしてる奴が多い。それに、その綺麗なドレス。装飾の細かさ、腕のラインにしっかりとフィットしているのに動かしても何の問題もない。そりゃ、相当の値打ちモンだな」
「あら、これの価値が分かるのですね。こんなフリフリした服は今の流行じゃないから、普通の人は価値なんてわからないのだけれど」
「俺も昔はデザイン系の仕事についていた事もあるからな。今はしがない路上生活だが」
「あら、デザインですか。この服の良さがわかるということは、ボディパーツのデザイン系じゃなくて、被服系ということですか?」
「そうだ。まだ人間の腕が付いていたころはずいぶん器用でな。そういう仕事にもついていた。もちろん、こっちの腕になってからは流行の機械工学も学んだな」
そう言って男はマントの中から右腕を露出させた。その右腕は鋼色に輝き、関節部分にはパーツとパーツのつなぎ目がある。そう、彼の右腕は機械でできた腕なのだ。
それに少女は驚く様子もなく、彼の過去に興味を示していた。
「つまり、今は新しい服は作れなくても、お話とか、アドバイスはできるということですよね?」
「ああ、アンタが服に興味があるなら、まかせときな」
「それじゃあ、お願いしちゃいましょうか」
そう言って少女はまた笑顔を見せてから頭を下げた。これから雇ってもらう人間に座ったままでは失礼だと、男も立ち上がってから頭を下げた。
「俺の名はボルツだ。宜しく頼むぜ……あ〜、そうだ、あんた……いや、お嬢さんの名前も聞いてなかったな」
「うふふ、お仕事を手に入れるのに必死で忘れていたのですね。私の名前はフェヒナーです。雇い主だからと言って、様付けはいりませんよ。服のファッションが分かる方は今時珍しいですから、特別です。それでは、私の家はこちらですので」
そう言ってフェヒナーはボルツに背を向けて歩きだした。
「しかし、フェヒナーさんも自分の名前を名乗らずに会話を続けていたのを見ると、緊張していたということかな?」
「それはそうですよ。こんな薄暗い路地で話しかけられたら、物取りだと思って、襲われないか身構えるのが普通ですから。あなたが物取りじゃなくて本当によかったです。私、少し怖かったんですからね」
「そりゃ、すまなかったな」
そのボルツの声は先ほどの2メートルほど後ろから聞こえていたものではなく、顔のすぐ後ろから聞こえた。
それに驚いて振り返ったフェヒナーの目の前にはボルツの左手があった。左手も右手と同じく機械化されており、鋼色の指が広げられたままフェヒナーに近づく。
ボルツの手はそのまま伸びてフェヒナーの顎に横から当てられた。
手が顎に当たるのとほぼ同時に、フェヒナーの喉に熱さが広がった。
突然手を近づけられたことに驚いてフェヒナーが体を引いた。それにより、ボルツの手が離れ、喉から血が溢れだし、服を赤く染めた。
血は喉の内側にも溢れだし、呼吸のたびにガボガボと音を鳴らし、空気の出し入れを妨げる。
ここでやっとフェヒナーは自分の喉に穴が開いたのだと気づいた。
朦朧とする意識の中でボルツの方を見ると、左手の手首と手の隙間から薄いブレードが15センチほど伸びていた。恐らく、何らかの仕掛けで飛び出るようになっている暗器なのだろう。
ボルツはよろけているフェヒナーを放置しない。自分の左手のブレードが首に刺さったことと、それでもまだ辛うじてフェヒナーが生きているという状況が確認できると、前に飛び出して一気に距離を詰めた。
左手のブレードを上方にかざして注意をそらし、右足でフェヒナーの足を払い、地面に転がす。頭部が地面に付くのと同時に鋼の右足で頭部に踵落としを決めた。
頭蓋骨が軋んだのを足で感じ取り、もう一度右足を振りおろす。
今度は頭蓋骨が割れ、中がつぶれる嫌な感触を受け取り、ボルツはフェヒナーの死を確信した。
「さて、お目当ての物は……」
ボルツは死んでもなおフェヒナーが大事に右手に握っていた物を手の中から拾い上げ、ポケットにしまった。
そして、インスタントカメラを取り出して、フェヒナーの死体の写真を一枚撮ってから、フェヒナーの服のまだ綺麗な部分で血と汁で汚れてしまった右足と左手のブレードを拭き、その場から離れた。
ボルツはしばらく歩いて電話ボックスを見つけると、そこで電話を掛け、十分ほど待つと、一人のニット帽をかぶった女性がボルツの元へと駆け寄ってきた。
「ああ、ありがとうございます。これで主人の敵は討たれました。なんとお礼を言っていい物か」
ニット帽の女は涙が流れぬ機械の眼でも泣いていることがわかるほどに顔をくしゃくしゃにしてボルツに頭を下げた。
「こんな仕事で礼を言われても嬉しくねぇよ。ほら、これがヤツが残してたデータだ」
そう言って先ほどフェヒナーの手に握られていた物を取り出す。
「こいつは成功報酬と交換だ。約束通り、現金は用意できたんだよな?」
そう言われて、ニット帽の女はカバンから金の入った封筒を取出し、ボルツに渡した。
ボルツは中から金を取り出して金額を確認すると、それと引き換えに先ほど見せた物を渡す。ニット帽の女はそれをすぐさま持ち運び型のパソコンに差し込んだ。
「おい、家で落ち着いてから見た方が良いんじゃないのか? 結構精神的にエグイ物を見ることになると思うぞ」
「いえ、今すぐにでも、私の夫がどうなったのか確認したいの。もしかしたら、まだ生きているかもしれない」
そう言ってニット帽の女はパソコンでデータの中身を確認した。
そのデータには、これまでフェヒナーが行ってきた悪行を画像と動画で納めた物が入っていた。その内容に、ニット帽の女の顔は凍りついた。
だが、ボルツは淡々と説明する。
「フェヒナーは体の機械化を首から上と、肺と心臓以外のほとんどの機関に施していた。つまり、性器も無くなっている。性器が無くなった奴は普通の事じゃ性欲を満たせない事が多い。代わりに、フェヒナーのような破壊行動で性欲を満たそうとするヤツも少なくはない」
入っていたデータは、主にフェヒナーが捉えてきた男性に拷問を行い、自分に命乞いをし、屈していく様子、そして相手の傷の具合を観察した物だった。
最初は反抗的な態度を取っていた者も、徐々に怯え、従うようになる。その過程がフェヒナーにとっての快感なのだ。しかし、相手の心が完全に折れてしまって、怯える態度にも変化がなくなってしまうと、フェヒナーに飽きがきてしまい、遊び相手は務まらなくなる。つまり、その者は処分されるのだ。
無論、最後まで抗っていても、治療も雑にされ、食料もほとんど与えられない状態ではそれほど長い時間を生き延びることはできない。
ニット帽の女が大量に存在するファイルの中から目的の物をすぐに見つけるのは難しいと判断し、夫の名前で検索したところ、いくつかの動画がヒットした。
「あ、ありました。私の、夫の名前が付いたファイルが……」
ニット帽の女は先ほどまでは夫が何をされたのか、最終的にどうなったのかを知りたいと思っていたが、他の男達がどうなったのかを見て、夫がされたことを見るのが怖くなっていた。
「事前に拷問されているだろうと俺は言ったはずだ。ある程度の覚悟をしていたのに、他人の状況を見てこんな風になってるようじゃ、あんたはこういう世界に踏み込むべきじゃない。俺が旦那さんの最後を確認してやるから、見るのはやめとけ」
ボルツはそう言ってニット帽の女からパソコンを取ろうとしたが、それをニット帽の女は拒否した。
「いえ、自分自身で見ます。もう、見ないといけませんから」
その言葉にボルツは「ああ、もう彼女は戻れないのだな」と感じた。それは他人の拷問される様子を見た時かもしれないし、自分に暗殺の依頼を頼んだときなのかもしれない。どちらにせよ、彼女はもう来るところまで来てしまったのだ。
ニット帽の女は深呼吸をした後、意を決して動画の一つを再生した。
彼女の夫は機械化された両腕の肘から下を外され、牢屋の中で壁にもたれかかっていた。そこにフェヒナーが現れ、手には長さ10センチほどの太めの針が握られていた。
夫の体にはいくつもの痣と火傷の痕と傷口が残っていた。これまでにも何度か拷問を受けているということだろう。
フェヒナーが夫に対していやらしいニヤついた笑みを浮かべながら話しかける。
「気分はどうですか?」
フェヒナーの問いかけに、夫は怯えるように顔を上げて答える。
「体中が痛いです。それに、喉も乾くし、腹も減りました」
「ふふ、どこが一番痛むのですか?」
「右の太股の刺された痕が膿んできたようで、そこが――」
そうやって夫が話していた傷口めがけて、フェヒナーは容赦なく手に持っていた針を突き立てた。
夫の痛みを訴える咆哮が耳に入り、妻は動画の再生を一時停止して、目をつむってしまう。
だが、ボルツはこれと言って問題にしていないように先ほどのフェヒナーの行動について説明をしてやった。
「相手の機械化された部分が少ないほどフェヒナーにとっては良質な拷問相手だ。あんたの旦那は両腕の先の方以外は生身だから、フェヒナーにとってはやりがいがあるだろう。それと、針のような細長い物を突き立てるのはそれを男の性器に見立てて、疑似的に相手を犯した快感を得るための行動の一つだろう。自分の物が使えなくなった男によく見られる行動の一つだが、性器を失った女はもはや性衝動に受け攻めの概念がまともに残っているわけがない。こいつは今まで自分が男に物を突きたれられていたのが嫌だったから、それの仕返しをしてるのかもしれないな」
ボルツの言葉を聞いても、ニット帽の女はそれほどの興味は示さず、怒りに満ちた表情で画面の中のフェヒナーをにらみ続け、また動画を再生し始めた。
「そうじゃないでしょう! 一番痛むのは40時間も私に会えなくて痛んだ心でしょう! なんで男の人はいつも私の言って欲しい事を言ってくれないの? 私の事を一生懸命考えなさいよ!」
「あ、ああ、申し訳ありませんでした。胸も、今の痛み以上に、寂しく、辛く感じます」
「本当に?」
「本当です。その証拠に、あなたの排泄物を頂きたくて、しようがありません」
その言葉にフェヒナーは今までで一番うっとりとした表情を浮かべた。
「あなたは本当に欲しがりですね。いいですよ。口を開けなさい」
そう言ってフェヒナーは股間部分からチューブを露出させ、そこから黄色い液体を男の顔にかけた。
男はそれをできるだけ多く口に入れようと必死に舌を動かし、その無様さにフェヒナーがまた笑った。
排泄物は尿だけを指した物ではない、その後、フェヒナーが男の前で排便し、男は地面に鼻を擦りつけながらそれを食したのだ。
フェヒナーはより一層上機嫌になり、しきりに、男に感想を求め、男は苦痛に歪んだ笑顔で賞賛の言葉を送り続けた。
ボルツはもうニット帽の女が自分の話にほとんど耳を傾けないのを分かっていながら、夜空を見上げて話す。
「あんたの旦那も含めて、捕らえられた奴は食事をまともに与えられない、だから、生きるためにはヤツの排泄物でもなんでも口に入れるしかないという判断だろうよ」
無言のままニット帽の女は他の動画も、夫に関連するものすべてを見続け、1時間ほどが過ぎてパソコンを閉じた。
「お前の旦那はどうだった?」
「殺された映像が入っていました」
「そうか。そりゃ残念だ。新しい仕事が請け負えない。じゃあ、俺の仕事は終わりだし、もう帰るぜ」
「いえ、新しい仕事を一つお願いしてもいいでしょうか?」
「別にかまわないが、何を依頼したいんだ?」
「あの女の死体を私の家まで運んでくれないでしょうか?」
その言葉にボルツは少しだけ寂しそうな目をして、ニット帽の女の方を見た。
「……死体は痛めつけても何も言わないから楽しくないぞ」
「はい。確かに、私はあなたに殺害の依頼ではなく、捕獲の依頼をすべきでした。でも、もう殺してしまった物は仕方ありません。せめて、残っているあの女の亡骸に復讐をしてやろうと思いまして」
「今一時の衝動ならやめときな。死体を痛めつけてストレスを解消するなんて、フェヒナーよりも狂ってる」
「それでも、この怒りの、胸の奥からあふれ出すドス黒い感情の行き場はどうすればいいの? 私に死ねとでも言うの? こんなことをやっても無意味なのかもしれないけれど、もう何もせずに生きていくなんてもう無理なのよ!」
声を荒げて息を切らしたニット帽の女の姿を見て、ボルツは諦めた。
「そうか。なら受けよう。自警団に出くわさなければ安くしとくよ」
ニット帽の女はボルツに礼も言わずに、胃からあふれ出す憎しみの感情が声となって溢れ出ないように抑え込んでいた。