3、中隊で一番偉い人物
「よぉ、苦労してるみたいだな、乃木」
唐突にかけられた言葉に振り返る。
乃木からは死角になっていた廊下の角のあたり、煙缶の並べられた喫煙場所で中隊の先任曹長が意地の悪い笑みを浮かべていた。咥え煙草で手招きをしている。
乃木はすかさず敬礼を送り、歩み寄った。中隊における下士官兵たちのボスであるこの男は、ある意味で中隊長以上に気を使わなければならない相手だ。
「いえ、曹長殿の激務に比べたら全くもってたいした事でもありません」
「嘘つけこの野郎、思いきりため息ついてたじゃねえか」
乃木は苦笑いを浮かべた。
「まずい所を見られてしまいました。申し訳なくあります」
曹長は不機嫌そうに鼻を鳴らした。周りに人のいない事を確認すると、顔を近づけてくる。
「馬鹿野郎、貴様が甘やかしすぎんだよ。貴様が一から十まで尻拭いばかりするから、いつまで経っても奴さんは学ばないんじゃねえか。てめえのケツくらいてめえで拭かせろよ」
こと兵隊に関する事ならば知らない事は何もないこの下士官の親玉は乃木のため息の種など全てお見通しのようだ。
「別段自分は甘やかしてるつもりはないのでありますが」
「大甘だよ馬鹿野郎。だいたいだな、生意気な新品少尉殿なんざビシバシいびり抜いて軍隊がどういう所か教えてやるのが貴様の仕事だろうが」
「参ったな。手厳しい」
どうもこの人と話していると自分が新兵に戻ったような気分になるな、と乃木は内心で苦笑する。乃木がこの部隊に配属されたばかりの頃、目の前の古参兵は彼の教育係を務めていた。
「いいか貴様、ここが内地の駐屯地の兵舎ならばそうやって悠長にやるのもいいだろう。だが、今、俺たちは戦地にいるんだ。指揮官が馬鹿なら兵隊全員が死ぬんだぞ?俺も貴様もそれで散々苦労したんだろうが?もう忘れたか」
乃木は苦笑を深くした。その顔のままで告げる。
「曹長殿も人が悪いですね――――忘れる訳がないですよ」
目だけは笑っていない部下の答えを確認した後で、中隊最先任下士官は面白くもなさそうに鼻を鳴らした。