龍と沙菜①
「お、龍。おかえり」
龍がリビングに入るとソファでくつろいでいた海斗が顔を上げた。
「ただいま」
龍は海斗の顔を見て一瞬ぎょっとしたような表情を見せたが、すぐに無表情に戻して挨拶を返した。冷蔵庫の前に行くと、ダイニングテーブルから立ち上がった泉とすれ違った。
「おやすみ」
「……おやすみ」
龍は冷蔵庫から飲み物を取ると、その足で出口へ向かった。
「龍」
出て行こうとした龍を海斗が呼び止めた。
「お前、仲直りしないの?」
「……何が?」
龍はドアに手をかけたまま顔だけ海斗に向けた。
「沙菜と」
海斗はニヤリと笑ってその名前を告げた。
「喧嘩してないから」
「そう?でも、全然話してないんだろ?」
早く話を終えようとする龍を海斗は許さないようだった。
「……別に。おやすみ」
龍はこれ以上会話を続けられないように、逃げるようにリビングから出ていった。海斗はやれやれ、といったような笑みを浮かべて、
「おやすみ」
と、もう届かない程遠くに行った背中に声をかけた。
「はぁ」
自室に戻ると龍は溜息をついてベットに倒れ込むように横になった。明るい光が眩しいのだろう、腕で目を隠した。
このままではいけないことは龍自身もわかっていた。それに、もうとっくに内心では沙菜のことは許している。しかし、長く口を利いていないせいできっかけがつかめずにいるのだった。
沙菜と出会って自分達兄弟の関係が変わった。そのことに泉も海斗も、もちろん龍も多大なる感謝をしていた。そして、歳の近い龍は世奈を含めて親しく付き合っていく内に沙菜に惹かれていくことは自然なことだった。
いつか想いを伝えられたら。そんな気持ちを持ちながら、龍は大切に沙菜への想いを育てていった。
その中で沙菜が誰のことを想っているのかということに気がついたのは、龍が沙菜に出会って一年が経とうとしている頃だった。世奈に言わせれば「気がつくのが遅い」とのことだったが、泉には静香という相手がいたのだ。脳裏に「まさか」という思いが浮かんでも、無意識に排除してしまっていた。
はっきりと自覚したのは泉と静香が入籍してからだった。静香が一時退院で神浦家に来た時、龍は初めて泉と静香と一緒にいる沙菜を見た。その時の沙菜が、静香がいない時に泉を見ている表情よりも遥かに苦しそうに無理やりに笑顔を作っているのを見た。それは見ていたくないほど痛々しいものだった。
その後すぐに龍は沙菜を問い詰めた。沙菜は初めは頑なに認めなかったものの、龍が粘り強く聞くととうとう認めた。
何故、結婚した泉のことを想い続けるのか、諦めるべきだと強く言った。しかし、沙菜は曖昧に答えるばかりではっきりと「諦める」とはどうしても言わないのだった。
そんな沙菜に苛立ちを覚えた龍は、その勢いで自分の気持ちを告白した。
「兄貴への気持ちを諦めるために俺と付き合え。俺は沙菜が好きだ」
こんな風に言うつもりはなかった。大切に育てた気持ちは然るべき時に大切に告白するつもりだったのに。
沙菜は動揺を見せたが、龍の告白を断った。
「今は俺のことを好きじゃなくてもいい」
そう龍が食い下がっても沙菜は首を縦に振ることはなかった。
「龍のことが大切だから、そんな気持ちで付き合えない」
沙菜はそう言った。
龍の告白を断った沙菜は、それでも泉を諦められた様子はなかった。一生懸命に泉から離れようとしている様子は見られたが、どうしてもそれが叶わない、そういう雰囲気だった。
そんな沙菜を見る度に龍の苛立ちは募った。どうにかしたいのに自分ではどうにもできない。そういうもどかしさもあった。
度々沙菜に当たったが、沙菜は悲しそうな顔をするだけだった。その顔も見たくなくて、龍は沙菜と距離を置いた。そのままアメリカに行って───
上手く話すきっかけをつかめないまま今に至るのだった。
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「おーい!」
龍が指定されたカフェに入ると、髪の毛をいつもよりくるくる巻いた世奈が手を振ってきた。
「もう、遅いよ龍」
「このくらいの時間になるって言ってあっただろ?文句あるなら誘うなよ」
「もう、冷たいんだから」
世奈は頬杖をつきながら龍を睨んだ。
「一週間の疲れを美味しいごはんで癒やしたいの!」
「お前、友達いないのか?」
「失礼ね、いるわよ。でも、週末くらい学校の友達じゃない人と会って気持ちをリフレッシュさせたいの。わかんないかな~」
世奈は飲んでいたアイスティーに刺さっていたストローを龍に向けて振った。
「お前、飲み物飛び散るからやめろ」
「あ、私もう食事頼んじゃったから」
「はぁ、ったく」
龍は深い溜息をついてメニューに目を落とした。
龍が食事を頼むと同時に世奈の料理が来て、世奈は嬉しそうに食べ始めた。
「ん~美味しいっ!癒されるな~」
「そりゃよかったな」
龍は呆れた表情で世奈を見ながら適当に相槌を打った。
「それにしてもお前、週末に食事誘うなら沙菜でも良かったろ」
「何言ってんのよ。沙菜には先生がいるでしょ?想いが通じて間もないんだから、しばらく私から誘うのは遠慮してんのよ。これだから龍は気が利かないんだから」
世奈はびしっと龍に言い放った。
「そりゃ悪かったな。じゃあお前も彼氏でも作れば?」
「うわ、出た出た、龍のデリカシーない発言!余計なお世話ですよ」
世奈は龍を睨みつけた。
「それに、同じく彼女いない龍に言われたくないわね」
「うるせぇなぁ」
龍は少しバツの悪そうな顔をしてそっぽを向いた。
「その割に家では俺は遊んでるオーラ出しちゃってさ?沙菜は信じてるんだからね」
「沙菜は関係ないだろ」
今度は龍が世奈を睨んだ。
「ホント、龍ってめんどくさいやつ。いい加減沙菜と話しなよ。先生とめでたく結ばれたわけだしさ」
龍は何も言い返すことができずに目線を逸した。
「ねぇ、明後日暇でしょ?日曜日」
「は?何だよ急に」
世奈はフォークでハンバーグを差したまま龍にそれを向けた。
「楓さんと太陽、沙菜と私で公園行くの。龍も行くでしょ?」
「何で俺も行く前提なんだよ」
龍は顔をしかめた。
「メンバー聞いてわかるでしょ?車もないし男手が足りないの。私達が危ない目に遭ったらどうすんのよ」
「遭わねぇだろ、お前がいれば」
「は?何その失礼発言」
世奈は大きく口を開けてハンバーグを頬張った。
「それに、どうせ荷物持ちさせようとしてんだろ?」
「あ、バレた?」
世奈はにやりと笑った。
「ビニールシートにお弁当、絶対重いからさ。ほら、楓さんは太陽で手一杯。あとはか弱い私と沙菜しかいないんだもん、厳しいじゃない」
「何がか弱いだよ」
ぽつりと龍がそう言うと、世奈が思いっきり睨んできた。
「とにかく、お弁当は私達に任せて?楽しみにしててよね」
「おい、俺は行くとは一言も……」
「沙菜」
世奈がその名前を口にすると龍は一瞬怯んだ。
「話すチャンス、なかなかないでしょ?先生もいない方が話しやすいだろうし、いい機会だと思うけど?」
世奈は龍の瞳の奥をじっと見つめてから、ふっと笑顔を見せた。
「その様子だと予定はない、ね?じゃ、日曜日、よろしく~」
世奈は機嫌よくそう言うと、目の前のお皿に視線を落とした。
「ぐっ……」
世奈の言う通り予定のなかった龍はもうそれ以上言い返せずにつまってしまった。悔しいけれど世奈の勝ちだ。さすが付き合いが長いだけあって、世奈も龍の扱いを心得ているのだった。




