02 さよなら
翌日、沙菜は海斗に車で迎えに来てもらった。
「大丈夫……じゃ、なさそうだな」
沙菜の顔を見た海斗は思わず苦笑いを浮かべた。虚ろな目に青白い顔。海斗は「大丈夫だから」と言って沙菜を励ましたが、沙菜が笑顔を見せることはなかった。
沙菜が神浦家に着くと、世奈と静香が迎えてくれた。静香は普段と変わらない柔らかな笑みで、沙菜の様子に気も止めていないように見えた。泉は飲み物の買い出しに出かけていた。
「私も今朝帰ってきたばかりでね、料理もあまりできないからピザ頼んじゃったわ。あ、でもサラダとスープくらい作ろうかと思って、世奈に手伝ってもらって作っているところよ」
「じゃあ私も……手伝う」
沙菜は乾いた声でそう言うとキッチンに並んで立った。静香はとても楽しそうに近況を話していた。検査入院のこと、実家でのこと。変わらぬ静香の様子に沙菜もようやく少し笑顔を見せた。
「ただいま」
泉が帰ってくると、沙菜の表情はまた固くなった。泉も沙菜を見ることはなかった。
「あ、おかえりなさい。ありがとう」
サラダとスープも完成し、ちょうどいいタイミングでピザも届いた。
「じゃあ食べましょう」
五人はソフトドリンクで乾杯した。
「うわ~美味しそう!ピザなんて久しぶりだよ!」
世奈がいつものように場を盛り上げる。しかし、泉と沙菜はほとんど言葉を発することはなく、食もなかなか進まなかった。
食事が落ち着くと、静香は嬉しそうに沙菜に顔を向けた。
「美味しかった。沙菜とも久しぶりに会えて嬉しいわ。大学は忙しいの?」
「うん……まぁね」
昔は静香に何でも話していた沙菜だったが、泉と密会するようになって五年はあまり自分のことを話さなくなってしまった。今回も沙菜は曖昧に返事をするだけだった。
「そういえばこの前言っていた彼氏とはどうなったの?」
静香のその質問に沙菜は顔を強張らせた。しかし、すぐに、
「ちょっと上手くいかなくて……自然消滅したかも」
と、伏し目がちに答えた。
「え、そうなの?それは残念だったわね……せっかく沙菜から初めて恋の話が聞けたと思っていたのに」
「うん……ごめんね」
「謝ることはないわよ。それで、どうして上手くいかなかったの?」
再び沙菜の身体は硬直した。嫌な汗をかいてくる。そこで、海斗が、
「性格が合わなかったんだろ?付き合ってみたら思っていたのと違ったみたいですよ」
と、助け舟を出してくれた。
「そうなの?」
静香は普通に尋ねているだけかもしれないのに、沙菜には静香の瞳が鋭く光っているように見えた。口の中の水分がどんどん失われていく。しかし、どうにか、
「うん」
と、だけ答えた。
「そうかぁ~それは残念だったわね。まぁ沙菜はこんなに可愛いんだから、すぐにまた相手は見つかると思うけどね。お母さん達も全然心配してないみたいよ」
「そうなんだ」
静香の笑顔に合わせて沙菜もなんとか笑おうとしたが、上手く笑えてはいなかった。
「それより私の方が深刻だよ~私だって可愛いと思うんだけどなぁ」
世奈が明るい顔でぼやいた。
「そうやって自分で言うところが駄目なんだろ」
「あ~!海斗さん酷い!」
海斗と世奈の声に助けられて、沙菜は小さく息を吐いて水を飲んだ。
「あのね」
唐突に静香が海斗と世奈の会話を遮った。その声がいつになく深刻な声で、一同は話すのをやめて静香に視線を移した。
「泉にも今始めて言うんだけど、聞いてほしいことがあるの」
「何か」が来る……
そう感じた面々はそれぞれに不安や緊張の面持ちを表情から隠すことはできなかった。静香は赤いぷっくりとした唇を開いた。
「私、術後の経過は良好なんだけど、まだ歩いたりたくさん運動することができないじゃない?だから、リハビリが必要だって先生から言われてて。それでね、リハビリに精通している先生が福岡にいらっしゃるんだって。その先生のところに行こうかと思っているの」
「福岡……」
世奈が小さく呟いた。一旦言葉を切った静香だったが、まだ話には続きがあると感じて、一同はそのまま続きを待った。
「泉」
静香は顔を泉に向けた。
「私に着いて来てくれる?リハビリには時間がかかると思うから、福岡で転職することになってしまうと思うけれど。個人的には福岡にずっと住むことも考えているわ」
沙菜は目の前が真っ暗になるのを感じた。せっかくアメリカから帰ってきた泉。再び想いが通じ合ったかに思えた矢先、また離れ離れになってしまうのか。それも、今度は帰ってこないかもしれない。
海斗は顔が真っ白になっていく沙菜を心配しながらもまったく別の疑問が頭に湧いてきていた。静香は何故この夫婦で話すべき話を沙菜の前でするのだろうか、と。
泉は驚きの表情から苦しそうな表情に変えて、口を開いた。
「俺は……」
「泉」
静香は泉の言葉を強い口調で遮った。
「夫婦なのだから、来てくれるでしょう?」
沙菜は夫婦のやり取りを色のない瞳で見つめていた。泉がいなくなる。拒否なんてできるはずがない。
「もし、来ないと言うのなら」
静香がエプロンのポケットから出した紙を見て一同は目を丸くした。それは離婚届だったからだ。
「泉、これが最初で最後。選んでほしいの。来るか、来ないか」
沙菜は驚愕と恐怖の色が滲んだ顔で静香の背中を見つめた。何か叫びたい。何を言っているの、辞めなよ。しかし、その言葉は声になって出てこなかった。
ここにいる誰もがその意味をわかっていた。「来るか、来ないか」ではない。「静香か、沙菜か」。どちらを選ぶのかと静香は聞いているのだ。
泉は目を見開いて離婚届を見つめていたが、静香に視線を移した時の顔ははっきりとした意志が浮かんでいた。そして、腰を曲げて深く深く頭を下げた。
「すまない。行けない」
それを聞いて、沙菜は思わず声をあげた。
「そんなっ……!駄目、駄目だよ。だって静香ちゃんは……」
「沙菜」
静香は沙菜に背を向けたまま強く沙菜を征した。静香は真っ直ぐに泉を見つめていた。顔を上げた泉と視線が絡み合った。
「わかった。……謝らないわよ、今までのこと」
「あぁ」
泉もしっかりと静香を見つめていた。
「私はもう二度と貴方には会わない。ただ……頼むわよ。私の大切な人のこと」
「わかってる」
「静香……ちゃ……」
沙菜は泣いていた。静香はそんな沙菜にようやく顔を向けた。泉に向けていた時の顔を違って穏やかな笑顔を浮かべていた。
「沙菜」
静香は沙菜の手を両手で包んだ。
「ごめんね、本当にごめんね」
沙菜は顔を歪めながらぶんぶんと勢い良く顔を左右に振った。
「沙菜、幸せになってね。私も私で頑張るから」
「静香ちゃん……」
沙菜はすがるような目で静香を見つめた。
「沙菜の結婚式には必ず招待してね?相手が誰であっても」
静香は穏やかにそう言った。沙菜は目を見開いた。
「それまでには車椅子なしで歩けるようになっておくから」
沙菜の目からはとめどなく涙が溢れ出していた。静香はそんな沙菜の頭をよしよしと撫でてから、沙菜の手を離した。
「海斗さん。申し訳ないのだけれど、家まで送ってもらえるかしら?」
「……はい」
海斗は頭を下げて鍵を手にした。
「それじゃあ、またね、沙菜。世奈も元気で」
「うん……」
世奈の目にも涙が浮かんでいた。静香はゆっくりと車椅子を移動させて出口へ向かっていく。
「しっ……静香ちゃん!」
沙菜は咄嗟に追いかけようと足を踏み出したが、世奈が沙菜を羽交い締めにしてそれを止めた。
「離してっ……」
「駄目!追いかけちゃ駄目!」
世奈が必死に沙菜をなだめる。静香はその声が聞こえていないかのように振り返ることなくゆっくりと車椅子を進めた。そして、部屋を出てドアが閉まった。
「静香ちゃんっ……静香ちゃん!」
沙菜は大声で叫ぶように呼んだ。しかし、玄関の扉が閉まる音が聞こえると、力なく床にへたり込んだ。
「うわああああああ」
沙菜はそのまま涙が枯れるまで泣き続けたのだった。




