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愛人(アイビト)  作者: 弓原もい
第三章 神浦家
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08 兄弟の過去

「俺は、前にも言ったと思うが、父親の希望で医者になるために塾に通って勉強ばかりしていた。やる気はなかった。でも、反攻もしていなかった」


 そよそよと気持ちのいい風が吹いた。昼間は暑くなってきたが、夜にもなるとちょうどいい気温だ。


「龍はまだ小さかったから何もわかっていなかったと思うが、海斗にも医者になる本当の理由は伝えていなかった」


「お医者さんになるのは泉ちゃんじゃなきゃダメだったの?」


「そんなことはない。むしろ俺より海斗の方が頭はよかった。本気で目指させていたら俺よりももっと簡単に医大にも行けたと思う。でも、海斗は昔からパソコンをいじる方が好きなようだった。俺と違って意思がはっきりしていたし、責任感も強かった。きっと父さんが本気で頼めば目指してくれたと思うが、そうしたら自分の好きなことを捨てなければならない。それをするのは特に目的のない俺だけで十分だ。だから、海斗には俺自身の希望で医者になろうとしていると伝えていた」


「泉ちゃんは海斗さんのために医者になろうとしたってこと?」


「そんな大層なことじゃないさ」


 泉は自分の太ももに腕を乗せ、腰を曲げて体ごと下を向いた。


「そんな時、あれは夏だった。俺と海斗は家に残っていて、父さんと母さんは龍を連れて自分の実家に、俺のじいちゃんの家に帰省していた。龍を預けて二人だけで近くの温泉地に車で一泊の旅行に行った。その途中で……」


 泉は広げていた手を軽く握った。


「父さんと母さんは死んだ」


 沙菜は息を飲んだ。


「玉突き事故に巻き込まれた。後ろがトラックだったからひとたまりもなかった。即死だったと思う」


 泉はふぅと息を吐いて少し間を空けた。虫の鳴く声が聞こえる。それが辺りの静かさを助長するようだった。


「じいちゃん達にはそんなに蓄えがなかったが、父さんは俺を医大に行かせるためにだいぶお金を貯めていたし遺産も入った。当面は困らないくらいの金はあった。ただ、医大は金がかかる。龍はまだ四歳。海斗もいる。龍にはこれから先長く学生生活が待っている。三人が大学に行くことを考えると少し心もとなかった」


 泉は顔だけ上げた。


「俺は医者の道を諦めるべきだった。誰しもがそれを望んでいた。俺が国立の四年制大学に通えば問題なく暮らしていける。海斗も大学に行ける。でも、俺はそれがどうしてもできなかった」


「お父さんの望みだから?」


「あぁ。父さんだって息子に自分の夢を託すことに躊躇いがなかったわけではない。青春を捨てて勉強に打ち込まなければならないことに『大丈夫か?』と声をかけてくれたこともあった。でも、夢を語る父さんはいつも嬉しそうだった。学費が高いっていうのに私立の大学のある先生が素晴らしいからそこに行った方がいい、と俺よりも熱心に調べてきたりしてさ。俺が医者を目指すと決めると『ありがとう』と何度も言われた。それを思い出すとここで諦めるわけにはいかなかった」


 沙菜は辛そうに話す泉の横顔をただ見つめた。


「俺はそこから猛勉強を始めた。せめて、と思って塾は辞めて自分で。周りに気を遣っている隙がないくらいに」


 泉は片手で顔を覆った。


「親戚にはだいぶ説得された。でも、俺は聞く耳をもたなかったし弁明もしなかった。すべてを捨てて勉強をしてなんとか希望の私立の医大に受かったよ」


 苦しそうな顔に無理やり笑顔を浮かべた。


「その頃には海斗は自分の大学行きを諦めていた。龍に負債を押し付けたくなかったからだ。海斗は俺に会えば怒鳴り散らし、学校も適当にサボったり家に帰ってこなかったりだいぶ荒れていたよ。当たり前だ、俺が医大に行くことで自分の大学行きの道が閉ざされたんだから」


「だから『人生をめちゃくちゃに』って……」


「あぁ。海斗は高校を卒業して就職した。何度も弁明の機会はあったはずだ。父さんの望みだと言えばよかった。でも、それができずに……はは、情けない話だろ?」


 泉は嘲るように笑った。沙菜は笑わなかった。


「今からでも……」


 沙菜の言葉をすべて聞く前に泉は首を横に振った。


「俺が海斗の人生をめちゃくちゃにしたのは事実だ。それに、今更だ。もうあれから十一年。時間が経ちすぎた」


 泉は沙菜を振り返った。


「な?聞いたって全然面白くなかったろ?」


 顔に笑みを作ったが上手く笑えてはいなかった。


「これが俺たち兄弟の話だ。今はまだ龍が進路を決めていないから一緒に住んではいるが、目処が立ったら二人か俺かどちらかがあの家から出て行くことになるだろうな。そうしたらきっともう一生会わない。そんな関係だよ」


 それを最後に二人は何も言葉を発しなくなった。沙菜は眉に皺を寄せて少し悲しそうな顔のままずっと何かを考え続けていた。しばらくそのまま河原に留まって、泉が、


「帰るか」


 と、切り出して、必要以上の会話はしないまま沙菜を家まで送って別れた。

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