02 内心
沙菜は海斗とおやすみの挨拶を交わしてから自分にあてがわれた部屋に戻った。この家はとても広いので部屋が余っている。だから、よく泊まりにくる沙菜の部屋も用意されていて、洋服などの私物も置いてある。
沙菜の部屋には明かりが点っていた。沙菜は反射的に『世奈だな』と、思った。わざと足音を大きめに立てて扉を開けると、予想通り世奈は沙菜のベットに座ってスマホをいじっているところだった。世奈は沙菜を目だけで見る。少しバツの悪そうな顔をしていた。
沙菜は扉を閉めて世奈の隣に腰掛けた。
「さっきはごめんね」
先に声をかけたのは沙菜だった。世奈はスマホから目を離して、
「うん」
と、だけ言った。沙菜にとってはそれで十分だった。世奈はいつも謝ることはしない。長い付き合いの沙菜はこうして世奈が自分から沙菜に接触してきたことが謝りの意思だということをわかっている。
「この家もまた賑やかになるね」
「そうね」
「でも……私はなるべくここには来ないようにしようと思う」
沙菜の言葉に世奈はハッと息を呑んだ。そして、沙菜の言葉に続きがないとわかると、
「それがいいね」
と、同意した。今日で痛いほどわかった。沙菜はここにいてはいけない。自分の保身のためではなく、この気持ちを持ったままここに居続けることで静香を苦しめることがわかるから。
そのまま世奈は沙菜とそこでしばらく他愛のない話をしてから自分の部屋へと戻っていった。沙菜はすぐに電気を消してベッドに入る。
今日はいろんなことがあった。泉と龍がここに戻ってきた。あとは静香だけ。
ギュッと目をつぶる。世奈の言う通りとても辛い。喜びたいのに喜べないから。
しかし、沙菜には海斗もいる。今日の海斗との会話を思い出した。海斗は沙菜の味方でいてくれる。どこまでも優しい海斗。初めて会った時は今みたいな状態が想像出来ないほどだったんだけどな───
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沙菜が泉への気持ちを自覚して一月ほど経った六月のある日のことだった。沙菜はいつもの様に桜病院で静香のお見舞いをし、世奈とおしゃべりを楽しんでから面会終了時間少し前に病室を出た。今日も泉と喋るために中庭に向かった。
沙菜は週に一回のその時間を楽しみにしていた。まだ新人の泉はベテランの先生達が土日にしか休めない分、土日はいつも働いていた。そのため、いつも中庭で短い間の会話を楽しんでから帰るのが習慣になっていた。
その日も足取り軽く階段を降りると、泉と看護婦の塚本さんが立ち話をしているのが見えてきた。泉は私服に着替え鞄を持っている。
「あれ?今日はもう帰り?」
私はすぐに声をかけた。泉がこんな時間に帰るなんて珍しい。
「あ、沙菜ちゃん!」
塚本さんは少し安心した顔をした。
「神浦先生、風邪引いちゃって熱が酷いの。だから今日は帰ってもらうところなのよ」
泉の顔は確かに赤い。目もいつもより虚ろだ。
「明日はちょうど休みですし、ゆっくりしてくださいね」
「すみません」
泉は塚本さんに頭を下げた。
「でも、本当にタクシーで帰らないんですか?そんなにふらふらなのに」
塚本さんは心配そうな顔をした。
「大丈夫です。家まで乗ると結構かかっちゃいますし」
泉は固辞した。
「あんまり無理しないでくださいね。沙菜ちゃんもこれから帰るところ?よかったら途中まで神浦先生のこと見ててあげて」
「え」
沙菜は泉を見た。泉と一緒に帰れるの?喜んでる場合じゃないのはわかっているけれど、沙菜の心は跳ねた。
「それじゃあまた明後日!」
塚本さんは忙しそうに去っていった。泉は怠そうな顔で沙菜を見た。
「俺が倒れてもお前に何が出来るとも思えねぇけど……」
「な、なによ。塚本さんがいなくなった途端に失礼なやつ」
沙菜は泉を軽く睨んだ。
「ま、最寄り駅まで一緒だし、行くか」
いつもより覇気のない声で泉は言って歩き出した。本当に辛そうだ。沙菜は泉についてゆっくりと病院を出た。
思えば泉の私服を見るのも初めてだ。沙菜は泉を横目で観察する。チノパンに長袖の青いボーダーが入ったシャツ。白衣を着ていないだけでなんだか新鮮だ。
泉は辛そうにこめかみを抑えた。
「あ~だりぃ。まさか風邪引くとはな……」
「辛そうだね」
「あぁ」
泉は顔を歪めた。
「薬飲んだせいで車も置いて帰る羽目になっちまったし」
「普段は車通勤なの?」
「あぁ。電車は嫌いだ」
それは初めて聞いた。いつか車を運転しているところも見てみたいな。
「電車乗るのも久しぶりだよ……めんどくせぇ」
心なしか言動が普段より荒っぽい。それだけ怠いということなんだろう。
「そんなに辛いならなんでタクシーで帰らないの?」
「金かかるだろ」
泉は首を振った。
「お医者さんって稼げるんじゃないの?」
「おいおい、高校生がそんなこと言うなよ」
泉は少し笑顔を見せた。
「貯めてるんだ」
「貯金?堅実だね」
高校生の時から医者になるために頑張ってきたというのに医者になってからも羽目を外したりしないんだな。
「借りは作りたくないしな」
「借り?」
「あぁ……いや、なんでもねぇよ」
泉は少し寂しそうに笑った。たくさん話しているのに泉は時折こうして寂しそうな顔をする。何を抱えているんだろうか。沙菜は泉の心の中をもっと見たくてじっとその瞳を見つめた。




