04 変化
次の週の土曜日、沙菜はまた桜病院にいた。いつものように静香の病室にいたが、その日は窓から中庭をちらちら気にして見ていた。今日は泉に会って伝えたいことがある。それを目的に桜病院に来ていた。
沙菜は昨日、男子バスケットボール部のマネージャーとして入部届けを提出した。月曜日にたまたま勧誘された。自分でまたバスケをやる気にはなれなかったが、知識はあるのでマネージャーとしてサポートすることはできる。一度見学に行くとマネージャーは一人もいない状態だった。同じ日に同じく勧誘されて見学に来ていた一年生の上坂まゆとも気が合って一緒に入部を決めた。
入るつもりのなかった部活に入ることになったのは、少なからず泉の影響がある。沙菜はこのことを泉に伝えたらどんな反応をするのか確かめたくなっていた。週末を辛抱強く待って、土曜日の午後に桜病院に来た。
「部活入ったの?」
静香に部活のことを伝えると、とても意外な顔をされた。思えば、静香に相談してから自分の気持ちを変えるということははじめてだったかもしれない。いつも静香は沙菜の話を聞いて、反論することなく背中を押してくれる。それに反してこんなにも早く自分の意見を変えることは今までなかった。
「そうなの、勧誘されたからさ」
沙菜は心の中で静香に謝りながら、わざと面倒そうな声を出して言った。
「そっか、断れなかったんだね」
静香は納得してくれたようだった。泉に言われて考えを変えた、なんて静香には言えなかった。静香以外の人に、というのはもちろんそうだが、先週沙菜が泉の話をした時の静香を思い出すと怖くて口に出せなかった。沙菜が静香に言えないことができる、というのははじめてのことだった。泉以外のことは変わらず話したが、それだけはどうしても言えなかった。
「じゃあそろそろ帰るね」
沙菜はそう言って立ち上がった。面会時間終了まではまだ時間があったが、泉の休憩を逃すのは嫌だ。静香はいつものように、
「今日もありがとう」
と、言って沙菜を送り出してくれた。
沙菜はそのまま中庭に向かい、いつものベンチに腰掛けた。今までは偶然泉と会っていただけだったが、待つと思うと時間が長く感じる。十分、二十分と待ったが泉は来ない。気がつくと面会時間終了まであと五分になっていた。
沙菜は、今日は来ないのかなぁ…と不安になりはじめていた。だいたい、泉が休みの可能性もある。聞くにも静香に聞くわけにいかないし、世奈も今日は入院しておらずいなかった。
その時、中庭を看護婦の塚本さんが通りかかった。沙菜と目が合うと、
「あら、沙菜ちゃんこんにちは」
と、声をかけてくれた。
「こんにちは」
「今日は牧野さんのお見舞い?」
「そうそう。もう会ってきたよ」
「そう、よかった。面会時間も終わりだから、気をつけて帰りなさいね」
塚本さんはにっこり笑って立ち去ろうとした。
「あ、塚本さん!」
沙菜は慌てて呼び止めた。
「ん?」
塚本さんは立ち止まって振り返った。
「今日、泉…神浦先生っている?」
「神浦先生?いるわよ」
塚本さんは少し不思議そうな顔をして答えてくれた。
「何か用事?呼んで来ようか?」
「あ、ううん。いいの。ありがとう!」
塚本さんの申し出を断って、沙菜は塚本さんに手を振った。泉はいるらしい。いつも面会時間に入ったら休憩でここへ来るから、もう少し待っていれば来るかもしれない。沙菜はもうしばらく待つことにした。
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「はぁ……」
沙菜はため息をついた。あれから三十分、泉は来ない。泉だっていつも同じ時間に休憩がもらえるわけではないだろう。そんなことわかっていた。でも、沙菜は泉が来るのを待って動けずにいた。
かれこれ一時間はここに座っている。さすがに少し寒くなってきた。
帰ろう……
そろそろ面会時間終了から三十分。桜病院に顔馴染みの沙菜であっても追い出されてしまうかもしれない。だいたい待ち合わせをしたわけでもない。報告する義務もない。またいつか会えるだろう。
沙菜は思い腰を上げて立ち上がって、歩き始めた。
「……沙菜!」
後ろから呼び止められた。振り返ると、そこには息を切らせた泉が立っていた。
「泉ちゃん……」
ドクンドクン、と沙菜の心は高鳴っていた。
「すまない…俺を待ってたんだろ?」
暗くてよく顔は見えないが、泉は申し訳なさそうな声を出した。
「塚本さんに聞いて……」
言わなくていいって言ったのに……
沙菜は泉に、泉を待っていたということを知られたくなかった。恥ずかしさから沙菜は何も言えずにその場に立ち尽くした。
「どうした?何かあったのか?」
だいぶ息が整った泉に心配そうに尋ねられた。
「あ……別に大したことじゃないの」
沙菜は声を絞り出した。普通の声を出そうとしたはずなのに、上ずった声になってしまった。泉は何も言わずに沙菜の次の言葉を待っている。
「部活……入ったよ。男子バスケのマネージャー。勧誘されて、見学に行って、それで……。自分でバスケやるのは難しいけど、相手チームの分析とか、サポートとかならできると思ったから。……それだけ」
沙菜は一気に言った。泉の顔を見ると、暗がりでもはっきりと、嬉しそうな笑顔を浮かべる泉が見えた。
「そうか」
泉の声は今まで聞いた中で一番優しいものだった。沙菜の心は締め付けられて苦しいくらいの衝撃が走った。それを誤魔化すように沙菜は泉に背を向けて、
「じゃ、私帰るから。今度、待たせたお詫びにまたココア買ってよね」
と、言った。
「あぁ、わかったよ。気をつけてな」
泉はふふっと笑って優しい声のまま言った。沙菜は少し俯いて思わず笑顔を浮かべて、そのまま桜病院を後にした。振り返らなかったが、見えなくなるまで泉が見送ってくれているような、そんな気がした。




