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イレブン

Side#001 神喰い

作者: 時幸空

「おばばさま、いまなんとおっしゃいましたか?」

「おまえ、その年で、もう耳が遠くなったのか? 若いくせにいやだねえ。結婚しろとゆうたのじゃ」

「あり得ません」

「これは我が神路かみじの者の義務じゃ」

「ぼくの年齢をご存じですか?」

「そんなものは関係ない」

「おばばさま、日本では男子は十八にならないと結婚できないんです。ちなみにぼくはまだ十四です」

「法律? はっ! そんなもの、神路と神庫ほくらの結婚に関係ないぞ」

「神庫って、もしかして相手は燈火とうかちゃんですか?」

「そうじゃ。神庫の家に、他に神路の嫁になれるピチピチギャルがどこにおる。あとはしわくちゃのばばあばかりじゃ」

「あなたが一番しわくちゃですけど。それにいまどきピチピチギャルなんて誰も使いませんよ」

「なんかゆうたか? 最近、耳が少しばかり遠くてな」

「あいかわらず、自分が聞きたくないことは聞こえないんですね。とにかく、相手がしわくちゃだろうが、ピチピチだろうが、ぼくはまだ結婚などしたくありません。一生を共にする相手くらい自分で選びます」

「そっちの相手は好きに選べ。ただし、この神庫との結婚が終わってからにしろ」

「終わってから?」

「神庫との結婚は、普通の結婚ではない。神路の務め。一族のため、お山のため。逃げることは許されない。式は一ヶ月後だ。わかったな」

 神路家の長、神路ハルは、その鋭い眼光を孫の太郎に向けて放った。ただでさえ凍りそうな真冬の空気がぴしりと張り詰める。

「わかりません、おばばさま。普通じゃないって、どういうことですか」

「燈火が心得ておる」

「燈火ちゃんは知っているんですか」

「当たり前じゃ。生まれたときから決まってたんだ」

「ぼくはなにも知りませんでしたよ」

「燈火が年齢に達するまで生きられないと思ってたんじゃ」

「それ、なにげにひどいですね」

「そういうわけだ」

「ぜんぜん理由がわかりません」

「店も頼むぞ。十四といえば、神路では家業を継げる立派な男子だ」

「ぼくはまだ了解したわけじゃないです」

「黙れ」

 ハルの、静かだけれど、重く力強い言葉が、小さな古い店内に響いた。長の声だ。大人といえども、神路の者ならば、これだけで身が竦む。それでも肯定の返事はできなかった。ゆがんだガラス戸がぴしゃりと閉まると同時に、太郎は大きな椅子にくたりと背を預けた。

 その足元で、白い大きな犬のような獣が、顔を見あげる。犬よりも鼻先が長く、目は細く鋭い。毛もふさふさと長く、店内を鈍く照らす橙の電灯につやつやと白銀に輝いている。白狐だ。ハルがいる間、まるでその気配を感じなかった。存在そのものを押し殺していたようだ。紫の瞳で太郎の顔色を窺う。

「なんかいいだけだね、(ほむら)

「いいえ、なにも」

 獣が答え、長く太い尾で太郎の足を軽く叩いた。店奥の古時計が刻を告げる。ぐったりと椅子に座っていた太郎が、背後の時計を見あげる。

「もう五時か」

「店を開ける時間ですよ、太郎さん」

「わかってるよ」

 太郎はゆがんだガラス戸の向こうに、薄紅の空を仰いだ。

 I県F市二神町。その小さな商店街は、夕方になると小さな賑わいをみせる。店先に灯りが入り、声、笑い、手拍子、それらが作り出す小さな熱に満ちる。明らかに町の人口よりも多い人影が、ざわざわと行き交う。一日のうちで一番活気のある時刻だ。

 その外れの一際古い店の軒にも、灯りが入った。木の看板に刻まれた店名は、陽に雨に風に抉られ、黒ずんだ染みにしかみえない。それでもこのあたりに住むものであれば、それが『貸本神路屋 創業慶長三年』であることを知っている。

 四百年以上も続いたこの神路屋は、逢魔が時に開店する。神路家の家業の一つである。現店主であり、たった今、一族の長に結婚を言い渡されたばかりの十四歳の太郎が、ガラス戸に『商い中』と書かれた木札を下げた。

「焔、悪いけど」

 焔が頷く。長い鼻先を天へ向け、人間には理解できない母音と子音の繋がりを吐いた。真言にも似たそれらの音は、細い紫煙となりゆるりと立ち上る。宙に描かれた螺旋が、一瞬の風に乱れ、ふいに消える。そこには、元の大きさの三分の一くらいの白い犬がいた。

 焔は、人間でも狐でも犬でもない。あやかしと呼ばれるものの類だ。

 あやかしは存在する。そして、それらを視る力を持つ人間も存在する。それが神路の家の者に遺伝的に備わった資質であり、家業の源である。

「おれは犬なんて、大っ嫌いなんですけどね」

「ごめんね。でもまだ人間の時間だから」

「この辺りじゃ、それほど気にする必要はないのでは?」

「確かに、昔からこの地方はあやかしが多い。だからこんな貸本屋なんて商売も成立してるし、あやかしを退治することで、ぼくの家は生活してきた。白い狐がいても不思議じゃない。でもやっぱりちょっとずつ変わってきてるんだよ。あやかしの存在を認める人よりも、一笑して終わる人の方が多い。異質なものは受け入れたくないんだ。みてみぬふりをして、そしてそのうち完全に視えなくなる、感じなくなる」

 太郎が机の上にあった、和綴じの本に指で触れる。学校が終わってから開店までの間に太郎が拵えた新しい本だ。開いて名を呼べば、あやかしを捕らえることができる。神路の者のように特別な力がなくても、あやかしを御することができる。呼ばれたあやかしは紙に焼き付き、その命果てるまで墨絵のまま出ることはできない。神路屋の商売道具だ。

「この本も必要なくなる。捕らえるべきあやかしが視えないんじゃ、意味ないよね」

「この店も店じまいですね」

「それも困るな。うちの両親のように日本中を走り回って、妖怪退治する体力なんてないし。普通の就職だってきっと無理だ」

「身体、弱いですもんねえ。結婚も無理じゃないですか」

「あれ、本気かな」

「あれは、本気ですね」

「普通でない結婚ってなんだろう」

「燈火さんに聞けばわかるんじゃないですか?」

「焔はなんか楽しそうだね」

「そりゃもう。あなたの困っている顔をみるのは、なかなか楽しいです」

「友だちじゃなかったの」

「おれはあやかしですから。本能の赴くまま、好奇心の望むままに行動します」

「じゃあ、犬でいいじゃない。ぴったりだよ」

「太郎さんって、綺麗な顔して、いい性格してますよね。それに、ときに非情だ」

「非情?」

「おれみたいなあやかしをそばに置いたりするのに、あやかしを封じるのに容赦ない。知ってますよ、おれ。あやかしを封じるときのあんたの顔が笑ってるのを」

「悪いあやかしは、いない方がいいよね」

 太郎の綺麗な顔が、あやかしよりも妖しく笑う。

「おれも人を喰う悪い妖怪ですよ」

「焔はもう食べないよ」

 太郎の言葉は、まるで呪文のように焔に絡みつき縛り付けた。はき出した言の葉が現実となる。あやかしたちの使う言霊のようだ。人間のくせに・・・と、舌を打ちたくなる。それでも不思議とそれを受け入れている自分がいる。やけに澄んだ獣のような太郎の瞳が、橙の灯りに艶めく。焔は、言霊に縛られた身体を解くようにぶるりと振るった。

「・・・あなたのそういうところ、嫌いじゃないです。それよりも、お客ですよ。しっかり仕事してください。あなたができる唯一の仕事なんですから」

「どっち?」

「人間ですね」

 ガラス戸が開き、陽に焼け深いしわをいくつも刻んだ顔が覗いた。

「こんばんは、太郎ちゃんいるかい?」

「こんばんは、三井さん」

 三井と呼ばれた老人が、木の床を軋ませながら、奥の太郎の方へと歩いてくる。途中、床の上に生えたいくつもの本の山を崩さぬよう、細心の注意を払う。

「あいかわらず、すごい本だな」

「すいません。ちょっと整理が追いついてなくて。今日はどんな本をお求めですか?」

「畑が荒らされるんで、調べてみたら、元狸のあやかしでな、少し、懲らしめてやりたい」

「留め本にします? それとも封じ本の方がいいですか?」

 太郎が立ち上がり、店奥の壁に設えられた木製の棚に手を伸ばす。背表紙のない和綴じの本がいくつも並んでいる。

「留め本で十分だ。しばらく閉じこめて、また放してやるよ」

 太郎は和綴じの本を一冊、三井に手渡した。あやかしを捕らえるための特別な術をかけた本だ。これを困っている人間に貸す。これが貸本神路屋のメインの仕事だ。

「二百円いただきます。残りは留め本に閉じこめておく期間に応じて、本をお返しいただくときに」

「三日くらいで返しに来るよ」

「わかりました」

 三井老人の細いが強そうな腕が、ガラス戸へと向かい、ふと止まった。

「神庫と結婚の儀式するんだって?」

「もう知ってるんですか?」

「神庫とは遠縁だ。神路と神庫の結婚は一大行事だからね」

 三井老人の吐いた耳慣れない言葉に、太郎の背がざわりと泡立つ。

「かみくい?」

「神を喰らうと書く。ずっと昔から繰り返されてきた儀式だ」

「なんですか、それ」

「太郎ちゃんには知らされていないのか。神路のおばばさまは強行突破するみたいだな。でも知るべきだと思うよ。それじゃあな」

「ちょっと待ってください、三井さん! 神喰いってなんですか! 三井さん!」

 太郎の目の前でガラス戸は閉まった。ゆがんだ視界の中で、去っていく三井老人の背が街灯の輪を越え、闇に消えた。普通の結婚ではないと、ハルはいった。神喰いの儀式だと、三井は告げた。自分の全く知らない世界を目の前に突きつけられ、手をのばしてそっと触れていいのかどうかもわからない。ざらざらした嫌な空気だけがまとわりついてくる。知るのが怖い。

「おばばさまのいうとおり、神庫と結婚するのも楽しそうですね」

 太郎は身体の脇で、両手の指を握りしめた。

「なんか楽しいことになりそうです」

 焔には答えず、太郎は戸口を離れ奥の座敷へ上がった。

「焔、店、閉めといて」

 振り返りもせず、焔に言い放つ。襖を開け、書庫となっている部屋の一つへと入っていく。

「了解です。太郎さん」

 焔がにやりと笑った。その姿はもう犬ではなく、白狐でもない。高校生くらいの人型だった。掲げたばかりの商い中の札を下げ、ゆがんだガラス戸の鍵を閉める。陽に灼けたカーテンが引かれると、店先には薄い闇が訪れた。


 星が一つ、降った。

 完全な闇ではなく、すでに明日の光が薄く混じり込み、昨日と明日がせめぎ合っている。物の輪郭は闇にとけ込み、色だけが薄い光を映し発光する。そんな不確かな刻の中、白い絹をまとい歩いている。たくさんの白い着物の人間たちに囲まれて、ゆっくりと歩いている。足元の枯れ葉が人間の重みに押しつぶされ、ちりちりと砕ける。

 腕が重い。自分の手の先に、なにかがぶら下がっている。いや、この手がなにかを掴んでいる。冷たい、棒のようななにかを掴み、ずるずると引き摺っているのだ。振り返る。だらりと流れた細い首筋がみえた。枯れ葉の絡まった短い黒髪、土や露で彩られた白い絹を纏った身体。はだけた襟元から覗く、小さな乳房の先端から、赤い、汁が、落ちた。

「はっ!」

 声の限り叫んだはずなのに、口から出たものは、短い息一つだけだった。

「太郎ちゃん」

 橙の電球がぼんやりとまぶたを刺激する。耳に触れるのは誰の声だろう。焔ではない。女の人だ。

「大丈夫? 太郎ちゃん」

 軽やかな声音に、太郎は重く閉ざされていた瞼を押し上げた。裸電球の中に、自分を覗き込む人影がある。短い髪に、細い首筋、すっとしたあごのラインに、陽に焼けた肌が艶々と光る。

「燈火ちゃん」

「太郎ちゃん、また倒れたんだって?」

 燈火の言葉で、さっきまで絡みついてた夢から完全に引き離された。それでも全身がずしりと重く、起き上がる気力すら湧いてこない。わずかに首を動かし、燈火の顔を見るのが精一杯だ。

「いま、何日?」

 時刻ではなく日にちを問う太郎に、燈火はくすりと笑った。

「二月十六日の夕方だよ。太郎ちゃんが倒れたのは今朝。焔が使いを寄越したんだよ。今、人型で店番してる。晩ご飯の支度もしてたよ。ほんとソツないね、妖怪のくせに」

 やけに人くさいよねと笑う。燈火は焔が犬でも人でもないことを知っている。神路と神庫の家の者は、昔からそういったモノたちとこの地を共にしてきた。

「三日間、ほとんど寝てないんだって? 学校にも行ってないんでしょ」

「店の本の整理が溜まってたから」

「それだけでこんなにならないよ。太郎ちゃんが寝込むときは、自分を追い詰めているときだよね」

 中学から短距離走の選手で、いつも短かった髪が、高校に入って少し伸びたようだった。顔にかかる前髪を指で掬う。自分を覗き込む燈火に、夢でみた映像が重なる。

「太郎ちゃん、神喰いって知ってる?」

 心臓が押しつぶされる。全身を冷たい血が逆流する。白い絹の着物から覗く細い首筋。滴る赤い血。魂の消えたその身体を、荷物のようにずるずると引き摺って歩いている自分。太郎は思わず瞼を閉じた。こみ上げる吐き気を無理矢理のみこむと、喉の奥が焼けるように痛んだ。

「神喰いは、神を食べ、一度殺してから再生させる儀式。調べたんでしょ?」

「燈火ちゃん、やめてよ」

 掠れる声で請う。太郎の願いは燈火には届かない。

「うちの家の者には、あやかしの血が混じっている。神とはすなわち妖怪。神路の者は、神庫の人間を食べ、その能力をより強力なものとして、人々を守ってきた。食べられた神庫の人間は、山神として蘇り、この地を守る。それがこの二神町の由来。神を食べ、神となる、二つの家の物語」

 そうだ。あれは夢だけれど、夢ではない。知りたくもない史実だった。神路の者は男子でも女子でもいい。家を継ぐ者がその役目を担う。神庫の者は十六歳になる前の女子と決まっていた。二人は白い絹を纏い、真夜中の山へ入る。神庫を殺めその血を飲む。亡骸は山へ捧げる。その魂は山神となり、もう二度と人間の世界には戻ってこない。

 古い文字を辞書と格闘しながら解読した。最後に儀式を行ったのはハルだった。その記録は、ハル自身の手で記されていた。やり場のない熱が、太郎の身体の中で溢れた。なにかしていなければ、闇に飲み込まれてしまいそうだった。が壊れるよりも先に、身体が堪えられなかった。

「おかしいよ、あんな儀式。間違ってる」

「なにいってんの、太郎ちゃん」

 違和をもたらす明るい声だ。

「神路と神庫に生まれた人間の義務だよ」

「義務で片付けられることじゃないよ」

「じゃあ太郎ちゃんはあたしと結婚するのがいやなの?」

「子どもを為さない。人ひとりが死ぬだけ。こんなの結婚なんていわない」

「じゃあ、子どもをつくればいい?」

「え?」

 視界がふっと暗さを増した。燈火の身体が覆い被さってくる。さらりとした黒い前髪が、色素の薄い太郎の前髪と交わる。

「太郎ちゃんの子どもなら、欲しいよ」

 息が耳朶に触れる。太郎の身体がびくんと揺れる。

「なにいってる・・・の?」

「太郎ちゃん」

 甘い声が頬の産毛を撫でる。太郎の身体の上にいる燈火の顔は、完全に影になっているはずなのに、その瞳だけが濡れるように輝く。深い紅を含んでいる。できたばかりの血だまりのように、ぬるりと艶めく。

 燈火ちゃんじゃない。

 逃げる間もなく、柔らかいくちびるに呼気を奪われていた。初めて味わう甘さに、くらりと目眩がした。

「・・・んっ」

 閉じた瞼の裏で、火花が散った。まるで線香花火の松葉のようだ。くちびるが交わっているだけなのに、しびれて動けない。頭の中がくらくらして、思考できなくなる。熱い。

 たんっ! 短い音が響いた。

「太郎さん。この留め本なんですけど」

 勢いよく襖が開き、焔が現れる。燈火が視線を投げる。突然の侵入者を確認すると、ゆっくりと太郎から身を離した。唾液が小さく糸を引く。

「あら、残念。いいとこだったのに。犬の躾がなってないんじゃない? 太郎ちゃん」

「おれは犬じゃないですよ、燈火さん」

「犬でしょ、太郎ちゃんの。今日は邪魔がはいっちゃったから、また今度ね」

 部屋の入り口で、焔と燈火が、顔だけはにこやかに言葉を交わす。制服のスカートの裾が揺れて、燈火が消えた。残ったのは、熱に浮かされ腫れぼったく感じるくちびると、にやりと笑う焔だった。

「くちびる、紅くなってますよ」

 咄嗟に手の甲で押さえる。くちびるに残る唾液が肌を濡らした。

「お邪魔でしたか? でも顔色はだいぶよくなったみたいですよ、太郎さん」

「焔」

「はい」

「用は?」

「怒ったんですか? 止めなかった方がよかった?」

 太郎はその身を隠すように頭から布団を被った。

「あの子は、根っからの神庫の人間ですよ。あなたに喰われ、蘇ることを願っている」

「人を殺してまで力が欲しいなんて、絶対に思わない。人が死んで蘇るもんか!」

「あの子だけだじゃない、神路と神庫のすべての人間がそれを願っている。この場合、間違っているのはあなたです」

「間違ってない!」

「委ねるだけで楽になれるのに。あなたは神路や神庫の家の者じゃないみたいだ」

 低い笑い声と、襖の閉まる音をきいた。太郎はその細い身体を抱きしめ、丸くなった。


 弥生に入ると、山が鳴き始めた。

 なにか大きなものが歩いている重い足音のような音だ。遠い空の春雷のようでもある。どーんどーんと、山々を響き渡り、毎日、少しずつ近づいてくる。

「山が鳴っておる」

「わたしを呼んでいるのですね」

「わかるか」

「はい、おばばさま。神喰いは神が望んだ儀式。わたしたちはその言葉に従うだけ」

「さすがホタルの血筋だけはある」

 神路本家の広い居間で、ハルが目を細めて笑う。

「ホタルって、うちのおばあちゃんのお姉さんですよね。美人だったってききました」

「ホタルは美しかった。その身体は、六十年前、このわたしが喰った。山はいまでもホタルの気で満ちておる。子どものころと変わらない強く優しい気じゃ」

「はい」

 燈火は、開け放たれた障子の向こう、少し曇ったガラスの先に、白々とそびえる雪山をみつめた。そこへ迎えられる日を想う。胸は山の呼びかけに応えるように、強く鳴り響いていた。


 白い世界だった。

 降り始めた雪は、枯れ葉を隠し地を白に染める。はき出す息は視界を白く遮る。凍てる風は行く手を阻む。指も足も、とうに感覚を失った。

「太郎さん、この雪じゃあなたには無理です。引き返しましょう」

 太郎の正面に立ちふさがる焔の身体は、すぐにも白い世界に溶けてしまいそうだ。

「ぼくはどうしても、山神さまに会わなきゃならない」

 どーんと深い音がした。町にいたときよりもずっと大きい。風までが一瞬、その動きを止めるほどだ。

「ここで死んだら意味ないんですよ」

「そうだよ、死んだら意味ない。人間として生まれたからには、人間としてやるべきことがある。燈火ちゃんだって、やりたいことがあるはずだ。ぼくは彼女を死なせない」

「あの子は神庫の人間としてやるべきことを知っている。それだけです」

「頭で理解してることと、ほんとうにやりたいことは別だ。燈火ちゃんは強い。欲求さえ飲み込める。前の人だって、やりたいことがあったんだ」

「なんでわかるんです?」

「書いてあったんだよ。おばばさまの記した神喰いの儀式の中に、ホタルには好きな人がいたって。ホタルさんには、自分の好きな人と結婚して子どもを作る、そんな生き方だってあったんだ。そんな日を夢みたときがあったはずだ」

「偽善者だ」

「なんとでも呼べばいい。でもぼくは人間だ。たとえこの身体が、幾人もの神庫の人たちの血と肉でできていても、特別な力をもっていても、普通の人間だ」

「その普通の人間の望みはなんです?」

「神路の長として、二度と神喰いの儀式はさせない。そして、誰かを好きになって、本気で好きになって、結婚して、子孫を残す」

「ホタルのためですか? これまで神路のために命を投げ出した神庫の人のため? ますます偽善ですね。あなた自身の欲望はどこです?」

「人間じゃない焔にはわからないよ」

「そうですよ、そんな思想、おれたちには通用しない。刹那的な欲望の方がずっとわかりやすい。あなたはこの山から神を奪う者、神路の家に在らざる者。その代償はなんです? あなたが払える犠牲はなんですか?」

「ぼく自身」

「ハハハハハハ」

「ホホホホホホ」

 吹雪の中で笑い声が舞う。四方八方から流れ込み渦を巻く。吹雪で閉じこめられた小さな世界は、ぐるりと笑い声に取り囲まれていた。

「誰!」

「名ナドトウノ昔ニ捨テタ」

「神喰イヲヤメルトイッテイルゾ」

「代償ニ自分ヲサシダシタ」

「愚カナ」

 見渡しても白しかない。声はあちこちから響いてくる。

「あなた方は山神さまですか!」

「ソウダトシタラ?」

「神路の者として、そして人間としてその務めを終えたと思ったら、この身を差し上げます。残りの一生、この山とあなた方に仕えます。だからもう終わりにしてください」

「物ハ言イ様ダナ」

「好キ勝手生キタアトニ代償ヲ差シ出スノカ」

「笑エルジャナイカ」

 頬を打つ風が氷の飛礫を投げつける。両足に力を入れ耐える。

「できない約束はしたくない。ぼくだってだれかを愛したい。ホタルさんのために、できなかったことをしたい。あなた方は偽善者っていうかもしれないけど、そのために生きられるのが人間なんです!」

「神路ノ者トハ思エナイ」

「コレガ次ノ長カ、情ケナイ」

 雪は太郎をあざけるように吹き荒れる。周りからどんどんと短い間隔で地を踏む音がする。焔は太郎を守るように、その長い尾で太郎を抱き、吹雪に向かい牙をむいた。

 風がふと、静かになった。

「我ハオモシロイト思ウ」

 静かな声だった。静かだけれど強い声だ。

「他人ノタメニ生キルトイウ、ソノスベテヲ我ハミテミタイ」

「物好キナ」

「確カニオモシロイカモシレナイ」

「ナラバ契約ダ」

「神路ノ長ノ言葉ヲ受ケヨウ」

「契約ヲ破レバオマエノ子ドモヲ喰ラウヨ」

「そんなことにはならない。絶対に」

「イイネ、ソノ目ハイイ。獣ノヨウダ」

「白狐。ソノ人間ヲサッサト連レ出セ。目障リダ」

「凍エテ死ニソウダカラ助ケテヤレッテイエナイノカイ?」

「太郎さん!」

「弱イモノダ。人間ハ・・・」

 声が遠くなる。いくつもの笑い声が渦巻いた。風が轟々唸っていた。意識を手放していく中で、その声を聞いた。

 我ノ変ワリニ夢ヲ見ヨ。オマエノ見ル夢ヲ我モ見ヨウ。

 白い絹を纏った美しい人だった。


 どこかの桜木からこぼれ落ちた白い花弁が、神路屋の前を軽やかに通り抜けた。店奥の古時計が刻を告げる。

「太郎さん、九時ですよ」

「焔、悪いけど、店を開けてくれる? こっちの片付けが終わらないんだ」

 店番用の机の上には、崩れそうな本の山だ。その向こうに声の主がいる。

「それ、片付けてたんですか? 散らかしてるようにしかみえませんけど」

「ぼく流の片付け方なんだよ」

 焔が陽に灼けたカーテンを開き、ゆがんたガラス戸を押し開ける。陽と風が、柔らかい花のにおいを運んできた。

「いいにおいだね。なんの花だろう」

 太郎が店先へと出てくる。

「太郎さん、早く片付けないと、間に合いませんよ。今日、燈火さんたち来るんでしょう?」

「うん、赤ちゃん連れてくるっていってたよ。男の子なんだって」

「あなたの子どもはまだですか? 最近、山神たちがうるさいんですけど。まだかまだかって。まるであなたのおばあちゃんたちみたいですね」

「あ、三河屋さんだ。回覧板、渡してこなくちゃ」

「あ! それ、二ヶ月も前のやつじゃないですか! 太郎さん!」

 店が開き、小さな商店街の一日が始まる。春の陽に満ち、軽やかに人が行き交う。その外れの一際古い店先で、『商い中』と書かれた木札が、花を含んだ風に揺れた。


(了)


最後まで読んでくださってありがとうございました。よかったら感想などいただけたら、励みになります。この妖怪物の短編は、シリーズの一部です。いつかこのシリーズをここで発表できたらいいなと思っています。

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