薔薇の褥を毟る夜
「――ロザリア・エルヴァイン! 本日を以て、貴様との婚約を破棄する!」
耳を劈くような怒声が、ガラス細工のシャンデリアが輝く大舞踏会に響き渡った。
声を張り上げたのは、この国の第一王子・エドワード。その腕には、怯えたように震える男爵令嬢のマリアがしがみついている。
周囲の貴族たちは一瞬で静まり返り、次の瞬間には、品性のない好奇の視線が津波のように私へと押し寄せた。
「……なるほど」
私は手にしたグラスのシャンパンを見つめたまま、小さく呟いた。
胸の奥を焦がすのは、悲しみではない。激しい頭痛の後に、脳髄へ濁流のように流れ込んできた「異質な記憶」に対する戸惑いだ
。
(ああ、そうか。ここはあのアホらしい乙女ゲームの世界で、私はただの噛ませ犬か)
ドレスの裾にじわりと染みるワインの冷たさが、現実を教えてくれる。マリアにわざとらしくぶつかられ、突き飛ばされた衝撃。それが引き金だった。自分がかつて「日本」という国で死に、このゲームの悪役令嬢に生まれ変わったのだと、今この瞬間に理解してしまった。
だが、思い出したのはそれだけではない。
私の肉体の底から、目覚めを告げるように悍ましいほどの熱量がせり上がってくる。
(思い出すのが少し遅すぎたわね。……私が、この世界の調律を狂わせるための『バグ(裏ボス)』だったなんて)
視界の端にチラつく文字やステータスなどという、便利なものは存在しない。
ただ、自分の魂の輪郭が、この舞踏会会場を、城を、ひいては王都のすべてを容易に圧殺できるほどに膨れ上がっている感覚が、皮膚を通じて生々しく伝わってくる。
「聞こえているのか、ロザリア! 己の嫉妬に狂い、マリアを暗殺しようとした罪、言い逃れはできんぞ!」
エドワードが一段高い壇上から私を指差す。その顔は、正義の味方にでもなったかのような全能感に満ちていた。
彼の合図とともに、抜剣した近衛騎士たちが金属音を響かせ、私を何重にも取り囲む。
「エドワード殿下」
私は一歩、前へ出た。
ただそれだけだった。
私の足が床に触れた瞬間、コツ、と静かな音が響き――同時に、周囲の空気圧が爆発的に跳ね上がった。
「っ……!?」
近衛騎士の一人が、喉を詰まらせたような声を上げて膝をつく。
冷気。いや、絶対的な捕食者を前にしたときの本能的な恐怖が、会場の貴族たちの五感を容赦なく支配し始めていた。
エドワードの勝ち誇った笑みが、引きつったように凍りつく。
「その令嬢が流している涙以外に、私を罪人とする根拠はありますの?」
「な、何を……マリアが嘘をつくはずがない! 貴様、その不遜な態度は何だ! 早く捕らえよ!」
悲鳴に近いエドワードの命令。
色を失った騎士たちが、恐怖を振り払うように一斉に槍を突き出してきた。
私はただ、彼らを見据えた。
指を鳴らす必要すらない。私の意志(魔力)が、空間そのものを拒絶した。
キィィィィン、と鼓膜を刺す高音が鳴り響く。
次の瞬間、私の周囲3メートルに迫っていた鉄の刃たちが、一瞬にして「黒い煤」へと変わって床に落ちた。
「ひ、あ……っ」
武器を失った騎士たちが、腰を抜かしてその場にへたり込む。
彼らの手は、触れてもいないはずの私の魔圧によって、酷い凍傷を起こしたように白く変色していた。
「……婚約破棄、喜んでお受けいたします」
私はゆっくりと、取り巻きたちに守られたエドワードへと視線を移す。
彼は完全に蛇に睨まれた蛙のように、ガタガタと膝を震わせていた。
マリアにいたっては、すでに失禁しかけて白目を剥いている。
「この国の王族がこれほどまでに盲目で、脆弱だったとは。私がこれまで、どれほど泥をすするような思いで、この国の境界(結界)を支えてきたかもご存知ないのでしょうね」
実際、私の体に眠る膨大な負の魔力がなければ、この国はとっくに隣国の脅威や魔物に食い荒らされていた。それを「邪悪な悪役令嬢」の一言で切り捨てたのだ。この無能な王子たちは。
「追放処分、感謝いたしますわ。これからはどうぞ、そのおいたわしい正義感だけで、この国を護ってみせてくださいませ」
私は誰に頭を下げることもなく、優雅に身を翻した。
怯えきった貴族たちが、まるで割れる海のように左右へ飛び退き、私に道を譲る。
重厚な大扉を自らの手で静かに押し開き、私は夜風が吹き抜けるバルコニーへと出た。
眼下に広がる王都の夜景を見下ろしながら、私はただ、これから訪れるであろう、誰にも邪魔されない孤独で静かな時間を想い、深く息を吸い込んだ。
この先に待つ、自らの運命の重さなど、まだ何も気に留めることなく。
毎日18時投稿です!!
★評価・ブックマーク・フォローなどをしてくださると励みになりますのでもしよろしければしていただけると小説を書くうえでありがたいです!!




