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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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1566年夏

早川殿:殿のいない館

 殿が私の実家でもある関東の静謐を治めに行くと言い、駿府へと行かれました。まずは公方様、そして兄上や上杉様との会談に臨まれるそうです。殿の一言が、振る舞いが関東の明暗を分ける。そう思うと私まで背筋が伸びるような、得も言われぬ緊張を感じます。


 ご無事にお帰りになりますように。そう願うだけの日々を過ごすことができれば良いのですが、そうもいきません。普段は殿とともに考えることも、私が判断せねばならないこともありますし、軍事や政務に関しては殿の信任が厚い明智様が居てくださるので心配は無いのですが、やはり屋敷のことはどうしても私に委ねられます。


「御方様、こちらが帳簿になります」


「御方様、御用商人の方が公家の方への献上品を届けてくださりました」


「お部屋様、先程まで京の公家の方がご挨拶にいらっしゃいました」


「お部屋様、こちらのご承認をお願い致します」


 お腹も大きくなり、来客への対応は控えておりますが、それでも判断すべきことは多岐にわたります。今川館の女中は、日ノ本随一の働き者のみで構成されているため、よほどのことが無ければ、身重の私が対応することは起きません。私は脇息にもたれ、いつものように文を認めます。少し変化があるとすれば、付き合いのある寺社へ安産祈願の文や寄進を多く送るようになることくらいでしょうか。


 殿が以前、侍女改革と称して侍女を名誉ある仕事に変えてくださったことは、私が自由に動くことが出来ないときほど、ありがたさを感じます。常日頃であれば、来館された方にお会いし、言葉を交わすことも出来ますが、やはりこの身体では…。こうしたときに信頼できる侍女に囲まれているということはとても助かります。


 他家では奥の争いが原因で、家中が割れることもあると聞きます。それが起きないということはなんと良いことか。申し訳なさはありますが、今はただ、健康に我が子が産まれることを願い、皆に任せることにいたしましょう。



 一週間ほどたち、氏真は畿内から駿府へと戻ってきた。今川館に顔を出し、皆に無事の帰還を報告したその足で、駿府の町の一角に構えられた豪華絢爛な屋敷を訪れた。そこは現在、将軍・義輝の御座所となっている。


「公方様、ご機嫌麗しいことと存じます。いまや駿府の行事は公方様がいなくては成り立たぬと聞き及んでおります。駿府の町を数段育て上げていただき、誠に感謝いたします」


 氏真が恭しく平伏して挨拶を述べると、上座に座る義輝は上機嫌に頷いた。


「うむ。中将よ、大儀であった。ここは誠に良い町だ。皆が余を敬い、京から下ってきた公家も多くいる。権中納言が言うには、京は朝廷に任せて、余にはこの駿府にいてほしいのだそうだ。さすれば東海道の要衝から日ノ本全体に目が行き届く。これは余にしか出来ぬ大任だと言う。全く困ったものよ。本来であれば将軍は京にいるのが大事だというのに、そこまで切に願われてはな」


 義輝は満更でもない様子で笑声を立てた。どうやら父・義元がうまく将軍の自尊心をくすぐり、駿府での優雅な暮らしに満足させているらしい。武芸に秀でた将軍ではあるが、公家文化に囲まれ、争いのない平和なこの町での暮らしを心底楽しんでいるようだった。


「それは重畳にございます。して、此度は関東のことで、公方様のお耳に入れるべき重大な事案があり参じました。北条が保護、いや幽閉しておりました古河の藤氏公が亡くなったとの報せがございました。これにて、上杉が関東管領の名の元に担がんとしていた正統な公方たる藤氏公が不在となりました。もはや古河公方は義氏公に一本化し、関東をまとめ上げる必要があると存じます」


 氏真の言葉に、義輝の表情から笑みが消え、将軍としての鋭い眼差しが戻った。


「つきましては、今川家としては、将軍義輝公がかつてお認めになられた義氏公の正統性を強く主張し、弾正殿には関東から速やかに兵を引くよう、公方様のご意思であるとして進言いたしたく存じます。よろしいでしょうか」


「うむ。そうよのう。中将の言うとおり、藤氏が亡くなったとあらば、弾正が関東で戦う大義名分はもう無い。かといって、あやつが素直にそれを受け入れるかのう。弾正は義に厚い人間だ。一度決めたことを、途中で引くだろうか」


 義輝は顎を撫でながら、輝虎の強情な性格を案じた。


「だからこそ、公方様のお言葉が絶対に必要なのです。弾正殿が己の義を通すのは、ひとえに公方様や帝のため、日ノ本の秩序のためでございます。その公方様自らが、ここは出る幕ではないと仰られれば、弾正殿のいう義の根拠は失われます。義氏公の名の下に、関東がまとまることこそ、天下の静謐のために不可欠ではございませぬか」


 氏真が理を尽くして説くと、義輝は深く頷いた。


「ふむ、道理である。だが、北条がそのまま上野を領することとなれば、結局は上杉と国境を直接接することになる。それではまた火種がくすぶり、争いは止まぬのではないか?」


「御意にございます。では、その係争の地である上野は、今川が緩衝地帯として預かるというのはいかがでしょうか。現地の国衆らも、上杉と北条の間で長年揺れ動き、疲弊してまいりました。ここは公方様のお声掛けで、そのどちらでも無い今川が間に入り、彼らの自治を認めて治める。さすれば、上杉と北条は国境を接することがなくなり、以後ぶつかることは無くなります。必要とあれば、上杉との同盟関係も視野に入れれば、上杉家としても背後の憂いを絶ち、北の蘆名や伊達への対処に集中できます。双方にとって悪い話では無いかと存じます」


 氏真の提案は、幕府の権威を高めつつ、流血を避けて領土を広げるという緻密な計算に基づいていた。義輝は満足げに扇子を打ち鳴らした。


「見事な策だ。ではそれで頼む。中将にすべての仲介は任せる。北条を、そして弾正を取りまとめるが良い」


「はっ。今川左近衛中将氏真、公方様のご威光に代わり、関東の静謐を取り戻すべく粉骨砕身尽くします」


 氏真は深く頭を下げ、確かな手応えを感じていた。これで関東平定への最大の武器である大義を手に入れたのである。

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