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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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決意

1556年秋

 今川館の奥座敷、氏真と義元を前に、元信は静かに、しかし力強い声で答えた。


「…若様、殿。私は、三河の領地返還ではなく、今川家内でのさらなる地位の向上を求めさせていただきます」


 その言葉に、義元はわずかに眉を動かした。三河武士の執念を知る者であれば、即座に土地を求めると予測したであろう。しかし、氏真だけは満足げに目を細めた。


 元信の胸中には、氏真の帝王学が深く染み込んでいた。


(土地とは、守るべき器に過ぎぬ。その器を満たす富と、器を動かす理がなければ、三河は迷い、泥に沈む。今の私は、今川という巨大な機構の心臓部に食い込み、その真髄を我が物とせねばならぬ。三河へ帰るのは、私が今川の不可欠な脳となった後でも遅くはない)


 決して三河を捨てたわけではない。むしろ、より確実に三河を守るための、合理的な遠回りを選んだのだ。元信の瞳には、かつての幼い竹千代ではなく、一国の運命を冷徹に計算する経営者の光が宿っていた。


「見上げた覚悟だ、次郎三郎」


 義元が満足げに頷き、傍らの書状を差し出した。


「其方が今川の血肉となる決意をしたならば、こちらも相応の誠意を見せねばならぬ。今川一門、関口義広の娘…瀬名(築山殿)を其方の妻に迎えよ。これをもって、松平は今川の親族衆に準ずる扱いとする」


 元信は、氏真の顔を見た。氏真は優しく、そして何かを確信したように頷いた。


 数日後、元信と築山殿の婚儀は来春と決定した。それは、松平家が今川の単なる従属国から、帝国を共に運営する共同経営者へと昇華した瞬間であった。


 史実では桶狭間の混乱により悲劇へと向かうはずのこの婚姻も、氏真が築いた安定した政情の下では、両家を繋ぐ強固な楔となった。氏真は、義元が健康に、そして長く現役で働ける環境を整えることで、自身が理想とする戦なき世の完成を、確実なものにしようとしていたのである。



 しかし、秋の始まりと共に、今川家を支え続けてきた最大の巨星が、ついにその光を終えようとしていた。


 今川家の軍師であり、外交の天才、そして今川官僚たちの師である太原雪斎。史実において、雪斎は1555年に没している。しかし、この世界では違った。氏真が導入した石鹸による衛生管理の徹底、そして栄養価の高い兵糧や清浄な水環境の整備が、老境にあった彼の寿命を一年余り延ばしていたのだ。


 雪斎の部屋は、かつての暗く湿った禅寺のそれとは異なり、氏真の指示で風通しが良く、常に清潔に保たれていた。


「…若、おいでなされましたか」


 枕元に座る氏真に、雪斎は枯れ枝のような手で石鹸の香りがする手ぬぐいを握りしめ、微笑みかけた。


「若がもたらした清浄は、私の余命を少しばかり延ばしてくれた。おかげで、尾張が血を流さず屈服し、織田という怪物を手懐ける様を、この目で見ることができた…」


 雪斎は、氏真の顔をじっと見つめた。

「若は、私や御屋形様が描いた天下の、さらに先を見ておいでだ。武力で制するのではなく、文明で同化させる。それは、仏の教えにも似た、慈悲深き征服にございますな…」


 弘治二年十一月。太原雪斎、入滅。享年六十一。


 その死は今川領内を駆け巡り、家中は深い悲しみに包まれた。義元は三日間、自室に引きこもり、長年の盟友との別れを惜しんだという。


 しかし、雪斎が産み、氏真が育て上げた今川官僚たちは、ただ悲しみに暮れるだけではなかった。雪斎の葬儀の後、松平元信や朝比奈康朝など若手家臣や多くの官僚ら、氏真の下に集った若き才能たちは、雪斎の墓前で一つの誓いを立てた。


「師が守り抜いたこの今川を、今度は我らが法と理によって、誰もが病に怯えず、腹を満たせる世へと変えてみせる」


 それは、雨降って地固まる、という言葉そのものの光景であった。 偉大なる師の死は、氏真のやり方に疑問符があった一部の家臣たちの心を、氏真の掲げる新秩序の下で一つに束ねる決定的な契機となったのである。


 雪斎が生きた最後の一年は、単なる寿命の延長ではない。彼が氏真の変革を正解であると認め、後継者たちにその正当性を説くための、神から与えられた猶予期間であった。


 氏真は、雪斎の亡骸に静かに手を合わせながら、心の中で算盤の音を響かせた。


(師よ、貴方が残したこの優秀な官僚たちこそ、私が欲した最大の遺産だ。彼らと共に、私はこの時代を、誰も見たことのない文明の頂へと導いてみせる)


 巨星は落ちた。しかし、その残光は、駿府の街を照らす数多の灯火へと形を変え、消えることなく輝き続けていた。



早川殿:戦の準備という女の戦場

 五郎様から、来年の春頃には美濃攻めをする予定だとお話がありました。秋、収穫が終わり、市場に米が出回る時期は、戦に向けて買い付けをするには最も良い時期です。


 今はまだお義母様の差配に従い、私は指示を受け動くだけですが、いつか私が奥の指揮を取り、準備を進めなくてはなりません。今のうち、皆様がお元気なうちに学ぶべきことは多々あります。


「北条とは、何もかもが違いますね」


 私はともに準備に励む、実家に居たときからともに過ごす侍女に向かい、話しました。北条でも幾度か戦の準備はいたしましたし、母が差配する姿も見てきたつもりでした。ですが、これだけの米、塩、そして銭が動く姿は、到底及びもつかないほどでした。


(これが今川の、五郎様の戦なのですね)


 いつか私がこのような準備の差配をし、指揮を取る日が来るのかと思うと、とても自分に務まるとは思えません。それに此度の戦は短い日数で終わらせると仰っておりました。それでこれだけの準備がかかるのです。長期にわたる戦となると…。今はまだ想像してないでおきましょう。


 まずは目の前のできることに集中いたしましょう。いつか、おそらく、私も成長していると信じて。




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