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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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新法

1556年夏

明智十兵衛光秀

 尾張が静まると同時に、北の隣国・美濃で激震が走った。美濃のマムシと恐れられた斎藤山城守道三が、嫡男・新九郎義龍の謀反により、長良川の戦いにて露と消えたのである。義龍の放った軍勢は容赦なく、道三派の国衆を次々と血祭りにあげていった。その戦火を逃れ、一族の命脈を繋ごうと、山道を越え、あるいは伊勢の海を渡る者たちがいた。


 駿府。氏真が整備した、清潔で活気溢れる町。その城門を、一人の端正な武士が潜った。透き通るような白い肌に、理知的な瞳。明智十兵衛光秀である。


「…ここが、噂の駿府か」


 光秀の背後には、家を追われた明智一族が数名、疲れ果てた姿で立ち尽くしている。彼らが目にしたのは、路地に悪臭がなく、民が白い泡で手を洗い、市場には見たこともない菓子が並ぶ、京の都をも凌ぐほど洗練された異世界の光景であった。


 光秀らは、従兄妹にあたる帰蝶の伝手を頼り、今川家への仕官を願い出た。


「あの傲岸不遜な三郎様ですら、今川殿は殺さずに生かし、その才を用いていると聞く。ならば、我ら明智の知見も、この豊かなる国でこそ活かされるのではないか」


 その予感は、彼らを駿府へと導いたのであった。



 今川館の奥座敷にて、氏真は父・義元と共に、光秀との謁見を終えたばかりであった。光秀を別室へ下がらせた後、義元が扇を畳に置き、息子に問いかける。


「五郎よ。あの明智という男、なかなかに骨のある才覚と見た。美濃の事情にも明るい。…さて、其方はあの地をどう動かすつもりだ?」


 氏真は、懐から一通の書状を取り出した。それは、軟禁…もとい特別顧問として駿府に住まわせている信長から、つい先日手渡されたものだった。


「父上。三郎殿より、このようなものを託されております。長良川で散った山城守殿から、三郎殿へ宛てた美濃譲り状にございます」


 義元が眉を動かす。


「譲り状だと?」


「左様にございます。山城守殿は死に際し、新九郎を簒奪者と断じ、美濃一国を婿である三郎殿に譲ると遺したのです。『余もしものことがあれば、美濃は貴様に任せたかった』と」


 氏真の脳裏に、不敵に笑う信長の顔が浮かぶ。 現代の感覚で言えば、これは正当な企業買収の契約書である。義龍は、強引な手法でトップの座を奪った反逆者であり、法的には信長―そしてその主君たる今川に、美濃を統治する権利があるということだ。


「これは、千載一遇の好機にございます」


「父上、美濃は力で攻め落とす必要はございません。まずは正統性と実利の二本の矢で、美濃の国衆を切り崩します」


 氏真のプランは、極めて合理的かつ冷徹であった。


「第一の矢は、三郎殿と奥方殿です。美濃の有力者である西美濃三人衆…稲葉、安藤、氏家。彼らに、三郎殿と帰蝶殿の連名で密書を送ります。『新九郎は父を殺した逆賊であり、今川に下る道こそが、斎藤家と美濃の誇りを守る唯一の道である』と。さらに、『今川の経済力と、織田の武力、この二つを敵に回して勝ち目があると思うか』と、現実を突きつけるのです」


 義元は面白そうに頷く。


「奥は斎藤の娘、織田は後継者。これ以上の正統性はあるまいな」


「第二の矢は、先程の明智十兵衛です。彼は山城守殿の側近であり、美濃の国衆の機微を熟知している。彼を使い、地方の土豪たちに触れ回らせます。『今川に降れば、領地はそのまま安堵し、さらに駿府の豊かな物流網への参加を約束する』と。新九郎という不安定な独裁者に付き従うより、今川という巨大な資本に参加する方が、彼らの家は永らえる…。そう説くのです」


 氏真が説いているのは、武士の忠義ではなく生存戦略の転換であった。義龍に味方する者は、次第に自分の利益を損なっていると感じ始めるだろう。情報の力と経済の力。これこそが、氏真が現代から持ち込んだ最強の兵器であった。



 翌日。氏真は信長と光秀の二人を呼び出した。 信長は相変わらず不遜な態度で、氏真が用意した高級な椅子に踏んぞり返っている。一方、光秀は畳に跪き、緊張した面持ちで控えていた。


「三郎殿、そして十兵衛。貴殿ら二名を、今川家の美濃攻略隊長に任命する」


 氏真の言葉に、信長が鼻で笑う。


「ほう。余を檻から出すか、五郎」


「檻ではない、貴殿の現場を用意したのだ。三郎殿には、その圧倒的な武名と正統性をもって、西美濃の将たちを威圧していただく。それに兵站の管理は今川が行う。そして十兵衛、貴殿はその明晰な頭脳を使い、一人でも多くの将を、血を流さずこちら側へ引き込め」


 信長と光秀。史実では本能寺で衝突する二人が、ここでは氏真という奇妙なリーダーの下で、同じ目的のために並び立っていた。


「…承知いたしました。この明智十兵衛光秀、今川殿の仰る戦わずして勝つ理、美濃にて証明してみせましょう」


 光秀が深く頭を下げる。


 信長は椅子から立ち上がり、氏真の顔を覗き込んだ。


「面白い。貴様が描くその綺麗な地図とやら、俺が美濃の色で塗り替えてきてやる。精々、駿府で算盤でも弾いて待っていろ」


 氏真は、苦笑しながらも力強く頷いた。彼の手元には、まだ幼き早川殿が庭で摘んできたという、春を待つ花の蕾が活けられていた。その平穏な景色を守るために、彼は一人の天才と一人の麒麟を、戦国という盤面へ解き放ったのである。



「尾張のうつけが、今川の嫡男に算盤で屈服したそうな」


 京の雀たちが噂するのは、もはや戦の勝敗ではなかった。織田、斯波という名門を、さながら棚に飾る置物のように据え、その実、領内の隅々にまで今川の官僚を配して統治するという氏真の鮮やかなる仕置である。


 一部の公家や保守的な国衆の中には、「名門を傀儡にするとは言語道断」と苦言を呈する者もいた。しかし、その声は長くは続かない。なぜなら、京の経済はすでに今川抜きでは立ち行かなくなっていたからだ。


「この蜂蜜菓子、一度口にすれば、もはやこれまでの菓子は口にできぬ」


「今川殿の石鹸を使わずして、いかにして宮中へ参内できようか」


 氏真が送り出す特産品は、瞬く間に都の必需品となった。さらには、氏真の提案を受けた義元が、困窮する公家たちに対し、文化継承の支援と称して、膨大な寄進と交流を行っていたことも大きい。和歌や蹴鞠の勝負を通じて、今川は彼らの自尊心を傷つけることなく、実質的な支援者としての地位を確立したのである。



 駿府から京へ、義元の放った使者が到着した。目的は、斎藤義龍による簒奪を正し、美濃を安んずるための討伐宣言である。


「新九郎は父を殺し、家名を汚した逆賊。今川は、織田の正統なる権利を守るため、美濃を平定せんとする」


 御所での謁見において、今川の使者は毅然として放った。朝廷側には、今川に逆らう理由はどこにもなかった。すでに今川から贈られた清浄なる石鹸で体を清め、栄養満点の今川兵糧丸を蓄えとして受け取っている彼らにとって、今川は最も信頼に足る秩序の守護者であった。


「…勅命を出すには、いささか拙速なれど。今川の行動、咎めるに及ばず」


 正式な勅命という形こそ避けたものの、朝廷は今川の美濃侵攻を黙認した。これは、事実上の天下への通行証を手に入れたに等しい。義元は、氏真が築き上げた経済と文化の土壌を使い、かつてないほど美しい進軍を開始しようとしていた。



 今、改めて日ノ本中の知略家たちが注目しているのは、今川家の分国法『今川かな目録』、そして氏真がそこに加えた新しき理であった。


 かつて義元が整えた法は、武家の規律を厳格に定めたものであった。しかし、氏真が昇華させた今の今川法は、より現代的な社会契約に近い色を帯びていた。


一、公衆衛生の義務

 街路を清掃し、石鹸による洗浄を推奨することで、疫病の発生を抑える。


一、市場の平等

 楽市楽座をさらに徹底し、特権階級による独占を禁じ、誰もが適正な価格で商いを行える。寺社の門前など、人通りの多いところに優先的に市場を設置する。


一、司法の透明化

 複式簿記を用いた財務管理を徹底し、領管および役人による年貢の不当な徴収を根絶する。


 この法が、最も劇的な効果を発揮したのは、家督争いで疲弊していた尾張であった。 かつては毎日どこかで小競り合いが起き、泥にまみれていた尾張の民。彼らは今、舗装された美しい街道が日々延びていく様を見ながら、今川の平等な法の下で、略奪に怯えることなく眠っている。


「織田の殿様は怖かったが、今の役人は、我らの暮らしを豊かにしてくれる」


 牙を抜かれたのではない。彼らは清潔で、腹が膨れる暮らしという、戦国時代において最も贅沢な平穏に、自ら膝を折ったのだ。



 今川館の回廊。義元は、整備された庭園を眺めながら、隣に立つ氏真に声をかけた。


「五郎。そなたが作り上げたこの法、もはや分国法の域を超えておるな」


 義元の声には、驚きと深い感銘が混じっていた。自らが刀と調略で切り拓いた大地に、息子が文明という種を蒔き、これほどまでに見事な黄金の稲穂を実らせた。


「父上。戦は最後の手段にございます。民が笑い、商人が集まり、他国が今川に支配されたいと願うようになれば、天下は自然と我らの元へ転がり込んで参ります」


 氏真は、前世でのサラリーマン時代の顧客満足度を思い出しながら、不敵に、そして穏やかに微笑んだ。 暗君と嘲笑されるはずだった男は、今や文明の開拓者として、父の背を追い越し、新たな時代の地平を見つめていた。


「よし。美濃を獲る。三郎と十兵衛、五郎が認めた二人に、今川の富を預けてみようではないか」


 義元の号令が、早春の空に響き渡る。力による制覇ではなく、文明による同化。今川家の美濃侵攻は、もはや周辺諸国にとっても、単なる領土の奪い合いではなく、新しき時代を受け入れるか否かの選択を迫るものとなっていた。


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