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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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日向

1564年冬

 冬の寒気が河内平野を覆い、吐く息が白く染まる季節。 飯盛山城の一室は、張り詰めた緊張感に支配されていた。 部屋の隅には、鷹のような鋭い視線を投げかける織田信長が座し、上座には氏真が静かに構えている。その正面、平伏しているのは、甲賀五十三家を束ねる実力者、甲賀二十一家筆頭の山中大和守俊定であった。


 本来ならば、大名と忍びの頭領がこうして膝を突き合わせることなどあり得ない。忍びは影であり、主君の命を受け、使い捨てられる道具に過ぎないからだ。だが、氏真は違った。彼は影を日向へと引きずり出そうとしていた。


「面を上げよ、大和守殿」


 氏真の穏やかな声に、俊定はゆっくりと顔を上げた。表情は能面の如く動かない。感情を殺す訓練を受けた忍びの顔だ。だが、その瞳の奥には、困惑と警戒の色が見て取れた。


「まずは、詫びねばならぬな。貴殿らの配下を、勝手に引き抜いてしまったこと、許せ」


 氏真がいきなり頭を下げたことに、俊定は目を見開いた。


「と、殿、そのような…!」


「いや、彼らは実に優秀だ。さぞ困っているだろう。あのような腕利きを奪われたのだからな」


 氏真は微笑むと、身を乗り出した。


「彼らの働きぶりを見て、確信したのだ。甲賀の力は、もっと大きなことに使えると」


 俊定は押し黙ったまま、次の言葉を待った。


「聞くところによると、甲賀の者は測量や掘削、土木に通じているそうだな」


「は…。城攻めの際の隧道掘削や、水の手を切るための工事などを得意としております」


「その技術だ。それを、城を落とすためではなく、国を富ませるために使ってはくれぬか」


 氏真は、懐から一枚の絵図を取り出し、畳の上に広げた。そこには、近江から京、そして石山へと続く一本の太い線が描かれていた。


「私は今、東海道から畿内、そして海へと続く大動脈を作ろうとしている。ただの道ではない。荷馬車がすれ違え、雨でもぬかるまぬ、舗装された街道だ」


 氏真の指が、地図の上を滑る。


「さらに東の領内でも、常に街道整備は行っている。道を通すだけではない。拡幅し、橋を架け、維持管理をする。これには、地形を読み、土を知り、正確な測量を行う技術が不可欠なのだ」


 氏真は俊定の目を真っ直ぐに見据えた。


「ついては、だ。甲賀の者を、今川専属の土木技術集団として、一族丸ごと雇い上げたい」


「…土木技術集団、でございますか」


「そうだ。無論、そなたらだけに泥にまみれろというわけではない。今川にはすでに整備を担う者もいるし、畿内の浪人らも大量に雇い入れている。そなたらには、彼らを指揮し、技術を指導する先導役を担ってほしいのだ」


 俊定の喉が鳴った。忍びの仕事は、いつだって死と隣り合わせだ。薄暗い穴を掘り、敵の城に潜り込み、見つかればなぶり殺しにされる。だが、目の前の男が提示したのは、日の当たる場所での仕事だった。


「持ちうる技術を、陰のことだけに使うのは惜しい。日向で輝いてはもらえぬか? その技術があれば、何万という民の往来を支え、物流を変えることができるのだ」


 俊定の鉄の仮面が崩れた。頬が紅潮し、口元が微かに震える。それは、忍びとして生きてきて初めて触れる承認への喜びであった。


「…甲賀は、合議の里にございます。惣の寄合にて決めねば、拙者の一存では…」


「わかっている。だが、悪い話ではないはずだ」


「はい。…まさに、渡りに船。すぐにでも里に戻り、協議させていただきまする」


 俊定は深く頭を下げた。だが、すぐに顔を上げ、意を決したように口を開いた。


「恐れながら、ご提案をお一つ、よろしゅうございましょうか」


「うむ。なんだ。申してみよ」


「かたじけのうございます。我らの里には、男手のみならず、女どもも多くおります。女らは薬草の知識が深く、また商売のための計算や帳簿付けを得意とする者もおります」


 俊定の言葉に、氏真は目を輝かせた。


「ほう、薬と算術か」


「はい。聞き及べば、今川様は施薬院なる医療所を設け、また多くの官僚を用いて政を行っているとか。実用に耐えうるとご判断いただけましたら、そちらでも働かせてもらえないでしょうか」


 氏真は膝を打った。


「素晴らしい。一族雇うと言ったのだ、それも道理だ。施薬院では常に人手が足りぬし、物資の流通が増えれば計算ができる者は喉から手が出るほど欲しい」


 氏真は即答した。


「全員が今川の求める水準かはわからぬが、満たぬ場合は教えれば良い。教育の仕組みも整えつつある。まとめて召し抱えよう」


 俊定の目から、一筋の涙がこぼれた。


「重ね重ね、ありがとうございます。…拙者、本日は中将様のお命を狙った不始末で、この首を差し出す覚悟で参りました。まさか、かようなお話をいただけるとは…」


「それがそなたらの仕事だったのだ。危ぶみはすれど、恨みはせぬ。過ぎたことだ」


 氏真は茶を一口啜り、空気を変えた。


「それと、余計な世話かもしれぬが、もう二つ話がある。一つ目は、伊賀の者もできれば雇いたい。彼らも甲賀と同じく、食うに困っているのではないか? そちらの者にも、ここで話をする段取りをつけてもらいたい」


「承知いたしました。伊賀とは競い合う仲ではありますが、根は同じ。必ずや説得し、連れて参ります」


「そして二つ目だ。…六角親子のことだ」


 その名が出た瞬間、俊定の顔に苦渋の色が浮かんだ。


「そなたらも、あれに巻き込まれて飢えるのは本望ではなかろう。経済封鎖はこちらとしても心苦しいが、彼らがいる限り解くわけにはいかぬ」


「…仰せの通りでございます」


「今川に仕えるとなれば、彼らを追い出すほかあるまい。だが、ただ追い出せば、彼らは行き場を失い、野垂れ死ぬか、あるいはまた厄介な火種となる」


 氏真は懐から書状を取り出した。


「彼らには、こう伝えてくれ。『今川学問所の顧問として招聘したい』とな」


「顧問…でございますか?」


「六角は腐っても名門。佐々木源氏の嫡流であり、礼法や弓馬の故実に明るい。その知識を、今川の家臣たちに教える文化継承者として迎え入れたい。政治には一切口を出させぬが、文化人として敬い、十分な給金と屋敷を約束しよう」


 俊定は呆気にとられた。敵対する、しかも自分を暗殺しようとした黒幕を、客分として迎えるというのか。


「戦わずして勝つ、か。…いや、勝つどころか、取り込んでしまわれるとは」


「今川はいつでも待っていると言ってくれ。丁重に保護するとな。そうすれば、甲賀も義理を欠かずに彼らを送り出せるだろう?」


 俊定は震える声で答えた。


「…恐れ入りました。我ら甲賀衆、この御恩、決して忘れませぬ」


「では、良い返事を期待している」


 氏真は傍らに控える真田昌幸に声をかけた。


「源五郎、大和守殿に食料を持たせてやってくれ。里の子供らに分け与えると良い」


「はっ。たっぷりと用意してございます」


 俊定が退出した後、信長が鼻を鳴らして笑った。


「甘いな、中将。だが、あの忍びの顔…ありゃあ、一生裏切れん顔だわ」


 氏真は苦笑して肩を竦めた。


「甘くて結構。これで道ができれば、駿府まですぐに帰れるでしょう?」

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