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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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若狭

1564年秋

 若狭武田家当主・武田大膳大夫義統から、今川への従属を願い出る書状が届いた。


 だが、その実情は決して美しい主従の物語ではない。河内畠山家と同様、当主は今川の庇護を求めているが、その実権を握る家臣団は、当主を傀儡化し、あるいは排斥して自らが権力を握ろうと画策しているという、典型的な下克上の構図であった。


「…周辺は、そんなのばかりだな」


 氏真は、若狭からの報告書を読みながら、呆れたように呟いた。かつての名門が家臣に乗っ取られそうになり、藁をも掴む思いで今川に従属を申し入れる。


 尾張の斯波しかり、飛騨の姉小路しかり。室町幕府の権威が失墜したこの時代、古い権威だけで立っている名家は、内部から腐敗し、崩れ落ちる定めにあった。


 これまで若狭武田家は、隣国である越前の朝倉家を頼り、その武力を背景になんとか独立を保ってきた。だが、その頼みの綱である朝倉が、あろうことか戦わずして今川に従属してしまったのである。


 若狭の家臣団は動揺した。彼らは、今川が能登や伊勢、河内への侵攻に忙殺されている隙に、義統を消し、自分たちに都合の良い体制を作ろうと画策していたらしい。だが、今川の動きは彼らの予想よりも遥かに早く、そして巨大すぎた。


「ここも畠山同様、武力で潰してしまえば早いのだが…そうもいかぬ事情がある」


 義統の正室は、将軍・義輝の妹である。仮にも将軍家を支える執権を標榜する今川家が、将軍の妹を見殺しにしたとなれば、大義名分に傷がつく。義輝の顔を立てるためにも、荒療治は避けねばならなかった。


「全く乗り気はしないが…一度、兵を連れて国境へ出向くしかないな」


 氏真は、新たに編成された畿内直轄軍の一部と、越前で今川軍に編入された朝倉隊を率い、若狭国境へと出陣した。



 道中、氏真は朝倉式部大輔景鏡を馬側に呼び寄せ、言葉を交わした。景鏡は、朝倉義景の従兄弟でありながら、真っ先に今川への従属を支持した有力武将である。


「式部大輔殿。そなたらが左衛門督殿に、あれほど早く従属を進言した真意、改めて聞かせてもらえぬか」


 景鏡は少し躊躇った後、実直な口調で語り始めた。


「…正直に申せば、限界でございました。左衛門督様は文化を愛するあまり、外へ向かう覇気が希薄でございました。越前一国に閉じこもり、領土が増えぬとなれば、我ら家臣の加増も望めませぬ。誰かが出世すれば、誰かが減らされる。武士である以上、槍を振るい、当主から評価され、家を大きくすることこそが誉れ。それが叶わぬ閉塞感は、言葉にし難いものがございました」


「そうか…。朝倉太郎左衛門尉殿と共に数多の修羅場をくぐり抜けてきたそなたらが、停滞を憂うのは無理もないことだ」


 氏真は頷き、景鏡の目を見据えて告げた。


「だが、今川は違うぞ。我らは攻めることだけではなく、守ること、そして富ませることを正当に評価する仕組みがある。槍働きがなくとも、民を慈しみ、治水を行い、商いを盛んにすれば、それは首級を挙げる以上の功績として禄を増やす。…勤勉に励んでくれれば、たちまち民に慕われ、家も富むだろう。この日ノ本の、そして今川の安定のために、そなたらの豊かな経験を活かして欲しい。頼んだぞ」


「はっ! ありがたき幸せ。この命、今川の安寧のために捧げまする」


 景鏡の顔に、久しく忘れていた武人としての生気が宿った。 新しい主君は、自分たちの働き場所を正しく用意してくれている。その確信が、軍の士気を高めていた。



 若狭国境、小浜に近い平野部。今川軍の到着とともに、慌てふためいた若狭の家臣団が出迎えに現れた。彼らは口々に「我らに敵対する意思はない」「何事か」と叫んでいるが、その目は泳ぎ、恐怖に引きつっていた。


 氏真は馬上で彼らを見下ろし、冷徹な声で言い放った。


「騒ぐな。当主である大膳大夫殿から従属の申し出があったことは、そなたらも存じていよう。だが、今川は誰でも無条件に受け入れるわけではない。今川の法に従い、共に歩む資格があるか、これより検査を行う」


「け、検査…でございますか?」


「左様。小浜の港の入港記録、領内の市の取引帳簿、そして過去五年の年貢の取り立てに関する記録をすべて出せ。…今すぐにだ」


 家臣たちは顔面蒼白となった。まともな政など行わず、私腹を肥やすことに専念していた彼らに、正確な帳簿など存在するはずもない。 提出されたのは、改竄の跡だらけの紙切れや、計算の合わない書き付けばかりであった。


「…なんだ、これは」


 氏真は書類を地面に放り投げた。その場に呼び出された義統は、幽鬼のように痩せこけ、目の下に深い隈を作っていた。


「大膳大夫殿。…無残なものだな。これほど杜撰な管理では、今川はとても若狭を受け入れることなどできぬ」


「面目…次第もございませぬ…」


 義統が震える声で頭を下げる。家臣たちは「これは戦乱ゆえの混乱で!」と言い訳を叫ぶが、氏真は一喝して黙らせた。


「だが、そなたも家臣の突き上げに怯え、眠れぬ夜を過ごすのは苦しかろう。…うむ、そうだな。では、こうしたらどうだろうか」


 氏真は、まるで名案を思いついたかのように手を打った。


「まず、不正に関わり、この杜撰な帳簿を作った家臣ら。本来であれば、主君をないがしろにし、民を苦しめた罪で万死に値する。…しかし、自ら従属を望んできたことを考慮し、特別に再教育で勘弁してやろう」


「さ、再教育…?」


「今川には、身分を問わず学べる学問所と、政務を学ぶ官僚養成所がある。そなたらにはそこで、寝る間も惜しんで勉学に励んでもらう。算術、法度、治水、経済…学ぶことは山ほどあるぞ。必死に励めば、十年か二十年後には、若狭に戻り、港の差配をする優秀な小役人になれるやもしれぬな」


 実質的な追放と、終わりのない強制労働の宣告であった。だが、死罪を免れたという安堵からか、あるいは逆らう気力すら失ったか、家臣たちは力なく項垂れるしかなかった。


「そして、大膳大夫殿」


 氏真は声を和らげ、病的な顔色の当主に向き直った。


「そなたは若狭国司として、今川が丁重に迎えよう。…しかし、どうだ。あまりに顔色が優れぬ。これでは政務などままならぬだろう。幸い、そなたの義兄であられる公方様は、現在駿府におられる。一度顔を見せに、しばらく駿府に滞在してはいかがか」


「駿府へ…公方様の下へ…?」


「うむ。駿府は暖かく、食い物も美味い。公方様も、話し相手が増えれば喜ばれるであろう。妹御のことも、大膳大夫殿のご様子も、大変案じておられましたぞ。…留守の間は、今川にお任せくだされ。残った現場の者らと共に、私が代わってこの国をお守りいたそう」


 義統の目から、大粒の涙が零れ落ちた。それは、終わりの見えない恐怖と重圧から、ようやく解放された安堵の涙であった。


「…かたじけのうございます。…よろしく、お願いいたします」



 かくして、若狭からは当主も、それを牛耳っていた重臣たちもいなくなった。 血を一滴も流すことなく、若狭一国は空白となり、そこに今川の行政機構がそのままスライドして収まったのである。長らく続いた名門の内紛に疲弊していた若狭の民は、今川の公正な法と、直轄軍による治安維持を諸手を挙げて歓迎した。


 この併合の意味は、単なる領土拡大に留まらない。 小浜から熊川を経て京へと続く、いわゆる鯖街道を完全に手中に入れたことにより、京の食糧事情、特に海産物の供給は、完全に今川が握ることとなったのである。


 若狭湾で水揚げされた豊富な塩、鯖、鯛などの海産物は、今川が整備した街道を通って、生きたまま、あるいは新鮮な塩漬けとして翌日には京の都へ届く。京の台所は、今川なしには一日たりとも回らなくなった。


 さらに、若狭の海は山と近い。背後の山々から切り出される良質な木材は、そのまま小浜の港へ運ばれ、造船のための資材となる。


「南の紀伊と、北の若狭。この二拠点を今川の造船所とし、太平洋と日本海、双方に今川の船を往来させる」


 氏真の構想は、着々と形になりつつあった。


 現在進行中の能登攻めが完了すれば、日本海側の物流ルートは完全に繋がる。北は能登から若狭を経て京へ。南は駿河から紀伊を経て石山へ。 日ノ本の中央を、陸路も海路も、すべて今川が握るのだ。


「もはや、この国の経済は、今川を無くして動くことはない…」


 小浜の港で、水揚げされる大量の魚と、活気に満ちた人々の声を聞きながら、氏真は確信した。天下統一とは、すべての城を落とすことではない。すべての民の生活を握ることなのだと。

その時が、目前に迫っていた。

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