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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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選択肢

1556年春

 駿府へ連行された信長を特異な客人として軟禁する一方で、氏真は即座に尾張の戦後処理に着手した。


「これより尾張は、今川領となる。今川が定めた、今川の領土の管理者として、鵜殿藤太郎長照を『領管』として定め、その補佐に織田勘十郎信勝を置いて統治させる。国司として斯波兵部大輔義銀様を据える。朝廷に国司の任命を依頼するが、まずは自称していただきたい。…すなわち」


 氏真は、降伏した織田の家臣たちを前に、冷徹な一線を引いた。


「政の真髄は、今川の法にあり。尾張の徴税、司法、そして街道の管理は、すべて駿府より派遣する我が官僚組織が司る」


 それは、実質的な直轄領化であった。名門・斯波氏の復権という大義名分の皮を被せ、織田信勝という扱いやすい当主を据える。しかし、その内実を支えるのは、氏真が手塩にかけて育てた複式簿記と衛生管理を叩き込まれた今川の官僚たちである。


「武士が土地を私有し、勝手に年貢を決める時代は終わった。これからは、今川の法の下で、適正な税を納め、適正な分配を受けるのだ」


 この尾張仕置により、織田家臣団は驚くべき再編を遂げることとなる。氏真の提示したポストは、現代的な機能別組織であった。


 林秀貞は駿府の政務・勘定部門の要職へ。


 柴田勝家は直轄軍の大将格へ。


 丹羽長秀はその緻密な実務能力を見込まれ、街道整備と城郭修繕を司る建築・兵站長官へ。


 彼らは最初、戸惑い、憤った。だが、氏真が整備した駿府の清潔な街並み、蜂蜜がもたらす富、そして石鹸がもたらす清浄な生活を目の当たりにし、その先進性に抗う術を失っていった。信長の破壊ではなく、氏真の構築に、彼らの才は吸い寄せられていったのである。


 信長を捕縛した最大の功労者、松平次郎三郎元信。氏真は、元服して間もないこの若き麒麟を、自身の執務室に呼んだ。


「次郎三郎よ。此度の働き、実に見事であった。父上も、そして私も、そなたの才を高く評価しておる」


 氏真は、一枚の書状を元康の前に置いた。


「賞罰は明確にせねばならぬ。そなたに二つの選択肢を与えよう。一つは、三河の旧領の一部を返還し、独立した国衆としての地位を強めること。もう一つは、三河の領地はそのままに、今川家内での地位をさらに上げ、私の右腕として、この巨大な経済圏の運営に深く参画することだ」


 元信は絶句した。これまでの戦国大名であれば、迷わず土地を選んだだろう。三河の武士にとって、先祖伝来の土を奪還することこそが唯一無二の悲願であるからだ。


 だが、元信は氏真の元で学んでしまった。土地というものが、単なる土ではなく資本であることを。そして、今川という巨大なシステムの中枢にいることが、単なる一国を治めるよりも遥かに強大な力を手にすることを。


 元信の瞳に、激しい葛藤の炎が揺れる。氏真に教育された合理主義者としての自分と、三河武士の血を引く当主としての自分が、激しく衝突しているように見えた。


「…若様。あまりに重き問いにございます。数日、考えをまとめるお時間をいただけませぬか」


「構わぬ。そなたの選ぶ道が、未来の松平、そして今川の形を決めるのだからな」


 氏真は、元信がすぐに土地と言わなかったことに、かすかな満足感を覚えた。彼もまた、中世の呪縛から脱しようとしているのだ。



 今川の、戦わずして尾張を呑み込むという異常な事態に、三国同盟の当主たちは敏感に反応した。



今川治部大輔義元

「…五郎め。もはや、私の教えることなど何もないかもしれんな」


 今川館の奥座敷で、義元は優雅に茶を啜りながら独りごちた。尾張を法と銭で縛り上げた氏真の手腕は、義元の想像を遥かに超えていた。かつては公家趣味の軟弱な息子と案じていたが、今やその文化を経済という最強の武器に昇華させている。


「これで西の憂いは消えた。京の都が、いよいよ近く見えるわ。五郎が築く豊かなる道を通り、私は天下一の弓取りとして入洛を果たす。さすれば、今川の栄華は千歳に渡るであろう」


 義元の瞳には、父としての自負と、盟主としてのさらなる野心が燃えていた。



武田大膳大夫晴信

「…今川の小倅、ただの文化人ではなかったか」


 甲斐の館。晴信は、隠密からもたらされた石鹸と複式簿記の写しを前に、眉間に深い皺を寄せていた。武田の騎馬隊は最強を自負している。


 しかし、氏真がやっているのは、戦の土俵そのものを変える行為だ。


「銭を回し、民を病から救い、敵の将を役人として取り込む…。これでは、戦う前に我らの兵も民も、今川の甘い蜜に毒されてしまうではないか。北条も今川も、もはや武力だけでは測れぬ化物になった。…真田に伝えよ、駿府の理をすべて盗み出せとな」


 晴信は、今川という存在が軍事同盟から経済的脅威に変質したことを悟り、戦慄していた。



北条相模守氏康

「娘の眼力は正しかったか。五郎殿、真に化け物に育ったものだ」


 小田原城にて、氏康は快哉を叫んだ。愛娘・早川殿を今川へ送った際、氏真が暗君に終わることを誰よりも恐れていたのは彼だった。しかし、届く知らせは尾張接収。一滴の血も流さず、尾張という難敵を今川の市場に変えてしまったのだ。


「戦わずに領地を広げ、民を肥やす。我ら北条が理想とした『四公六民』の先を行く統治だ。これで御前の将来も安泰よ。武田や長尾がどう動こうと、今川と組んでいる限り、北条は沈まぬ。…さて、祝いに駿河の蜂蜜でも取り寄せるとするか」


 氏康は、舅としての誇らしさを隠しきれず、新たな時代を拓く婿の背中を、頼もしげに見つめていた。


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