表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/16

降伏

1556年冬

「織田三郎信長、清洲城を自ら焼き払い、手勢わずか三百余名で駿府へ向けて一気に駆けております!」


 それは、理と銭で世界を塗り替えようとしていた氏真にとって、最大の計算外であった。



「…何だと? 城を捨てただと?」


 氏真は、執務室で算盤を弾く手を止めた。氏真の計算では、経済封鎖と内部工作に追い詰められた信長は、弟の信勝に家督を譲って隠居するか、あるいは領土防衛のために泥沼の籠城戦を選ぶと踏んでいた。


 だが、信長はそのどちらも選ばなかった。彼は、氏真が丹精込めて整備した東海道の物流網を、文字通り氏真の首を獲るための最短路として逆用したのである。


「今川の嫡男よ。貴様が作ったこの平坦な道、馬を走らせるには最高だぞ!」


 信長の声が聞こえてくるようだった。信長という男は、仕組みを構築する男ではない。仕組みに綻びを見つけ、そこから全てを破壊する男なのだ。三百の精鋭のみを引き連れた死に物狂いの強襲。これは軍事行動ではなく、国家という器を狙った暗殺であった。


 だが、氏真にはこの一年、英才教育を施してきた右腕がいた。



「…若様、お案じ召されますな。この次郎三郎が、うつけの火を消して参ります」


 そう告げて出陣したのは、元服したばかり、初陣も済ましていない元信であった。彼は氏真から授かった直轄軍の機動力と、街道沿いに張り巡らされた情報伝達網を最大限に活用した。信長が駿河の国境を越えた瞬間、元信はすでに予測地点に伏兵を配置していたのである。


 信長の突撃は凄まじかった。だが、元信が率いる兵たちは、氏真の衛生管理と今川兵糧丸によって、疲労を知らぬ鉄の規律を保っていた。さらに、元信は氏真から教わった兵站の重要性を実戦に応用した。信長の進路にある宿場から食糧をすべて隠し、彼らを疲弊させたのだ。


 ついに富士の裾野を望む原野で、元信は信長を包囲した。


「織田殿。貴殿の戦は、ここで行き止まりにございます」


 元信の冷徹な宣告。三百余名の織田勢は、一人の死者も出さぬほど鮮やかな包囲網の前に、武器を置くしかなかった。



 今川館の広間。引き立てられた織田信長は、白装束に身を包んでいた。死を覚悟した姿でありながら、その眼光は少しも衰えていない。むしろ、檻に閉じ込められた猛虎のような、凶暴なまでの好奇心を湛えていた。


 氏真は、上座から静かに見下ろした。二人の間には、氏真が開発した石鹸と、今川特製の蜂蜜菓子が置かれている。


 義元はというと、「今回の戦は五郎に任せたものである。終わりまで自分で責任を取るがよい」と言い残し、早々に奥に下がっていた。


「…貴様」


 信長が、低く、這いずるような声で笑った。


「貴様、何を見ている。和歌や蹴鞠のついでに、この日ノ本を銭の箱にでも閉じ込めるつもりか」


「私は、無益な死を数えるのをやめたいだけだ、三郎殿」


 氏真の答えは静かだった。前世で、姪っ子の笑顔を守りたいと願っていたサラリーマンの心が、戦国大名の言葉として紡がれる。


「大名の命令一つで、農民が槍を握らされ、泥にまみれて死ぬ。それが正しい世だというのなら、私はその常識を破壊したい。誰もが他人の苦しみに目を向け、腹を満たし、清浄な肌で眠れる世。武力ではなく、理と富によって結ばれる新たな秩序だ」


 信長は一瞬、呆然と氏真を見つめた。これまで多くの大名に出会ってきたが、これほどまでに美しく、かつ傲慢な綺麗事を本気で語る男は初めてだった。


「クハッ…ハハハハハ!」


 突如、信長が大笑いした。白装束の肩を震わせ、腹を抱えて笑い転げる。居並ぶ今川の重臣たちが色めき立つが、氏真は手でそれを制した。


「ハハハ…痛快よ! 貴様、俺と同じ狂人かと思えば、俺以上のうつけではないか! 武士から刀を取り上げ、石鹸と砂糖で天下を飾ろうというのか」


 信長は、笑い涙を拭うと、不敵に氏真を睨みつけた。


「いいだろう。こんな綺麗事に、俺の尾張は負けたのか。ならば、その綺麗な世とやらを俺にも見せてみろ。五郎、俺を捕らえたからには、皆が驚愕するほどに使い倒してみせよ。貴様の理想という名の檻の中で、俺が最強の牙となってやる」



 信長の降伏。それは、史実における桶狭間の戦いが完全に消滅した瞬間であった。白装束のまま、誰よりも偉そうに、誰よりも不遜に笑う信長。氏真は、その姿に頭を抱えたい衝動を必死に抑え、苦笑いを浮かべた。


「…使い倒せ、か。随分と高くつく傭兵を雇ってしまったものだ」


 だが、氏真の瞳には確信があった。信長の破壊衝動を、新世界の構築というエネルギーに変換できれば、この国の平定は十年前倒しになるだろう。


「次郎三郎、三郎殿に客間を用意せよ。それと…最高級の石鹸をな。まずは尾張の煤を洗い流してもらわねばならん」


 元信は、氏真と信長の間に流れる奇妙な共鳴を感じ取りながら、深く頭を下げた。


「はっ。承知いたしました」


 外では、早川殿が慈しむ庭の花々が、春の陽光を浴びて輝いている。かつて暗君と呼ばれ、滅びる運命にあった男。 桶狭間の戦いの阻止は彼の運命を変えただけではなく、父である義元が存在する世界へと進みだしたこととなる。彼が始めた静かなる革命は、今、戦国最大の異端児を飲み込み、未知なる地平へと漕ぎ出したのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ