降伏
1556年冬
「織田三郎信長、清洲城を自ら焼き払い、手勢わずか三百余名で駿府へ向けて一気に駆けております!」
それは、理と銭で世界を塗り替えようとしていた氏真にとって、最大の計算外であった。
「…何だと? 城を捨てただと?」
氏真は、執務室で算盤を弾く手を止めた。氏真の計算では、経済封鎖と内部工作に追い詰められた信長は、弟の信勝に家督を譲って隠居するか、あるいは領土防衛のために泥沼の籠城戦を選ぶと踏んでいた。
だが、信長はそのどちらも選ばなかった。彼は、氏真が丹精込めて整備した東海道の物流網を、文字通り氏真の首を獲るための最短路として逆用したのである。
「今川の嫡男よ。貴様が作ったこの平坦な道、馬を走らせるには最高だぞ!」
信長の声が聞こえてくるようだった。信長という男は、仕組みを構築する男ではない。仕組みに綻びを見つけ、そこから全てを破壊する男なのだ。三百の精鋭のみを引き連れた死に物狂いの強襲。これは軍事行動ではなく、国家という器を狙った暗殺であった。
だが、氏真にはこの一年、英才教育を施してきた右腕がいた。
「…若様、お案じ召されますな。この次郎三郎が、うつけの火を消して参ります」
そう告げて出陣したのは、元服したばかり、初陣も済ましていない元信であった。彼は氏真から授かった直轄軍の機動力と、街道沿いに張り巡らされた情報伝達網を最大限に活用した。信長が駿河の国境を越えた瞬間、元信はすでに予測地点に伏兵を配置していたのである。
信長の突撃は凄まじかった。だが、元信が率いる兵たちは、氏真の衛生管理と今川兵糧丸によって、疲労を知らぬ鉄の規律を保っていた。さらに、元信は氏真から教わった兵站の重要性を実戦に応用した。信長の進路にある宿場から食糧をすべて隠し、彼らを疲弊させたのだ。
ついに富士の裾野を望む原野で、元信は信長を包囲した。
「織田殿。貴殿の戦は、ここで行き止まりにございます」
元信の冷徹な宣告。三百余名の織田勢は、一人の死者も出さぬほど鮮やかな包囲網の前に、武器を置くしかなかった。
今川館の広間。引き立てられた織田信長は、白装束に身を包んでいた。死を覚悟した姿でありながら、その眼光は少しも衰えていない。むしろ、檻に閉じ込められた猛虎のような、凶暴なまでの好奇心を湛えていた。
氏真は、上座から静かに見下ろした。二人の間には、氏真が開発した石鹸と、今川特製の蜂蜜菓子が置かれている。
義元はというと、「今回の戦は五郎に任せたものである。終わりまで自分で責任を取るがよい」と言い残し、早々に奥に下がっていた。
「…貴様」
信長が、低く、這いずるような声で笑った。
「貴様、何を見ている。和歌や蹴鞠のついでに、この日ノ本を銭の箱にでも閉じ込めるつもりか」
「私は、無益な死を数えるのをやめたいだけだ、三郎殿」
氏真の答えは静かだった。前世で、姪っ子の笑顔を守りたいと願っていたサラリーマンの心が、戦国大名の言葉として紡がれる。
「大名の命令一つで、農民が槍を握らされ、泥にまみれて死ぬ。それが正しい世だというのなら、私はその常識を破壊したい。誰もが他人の苦しみに目を向け、腹を満たし、清浄な肌で眠れる世。武力ではなく、理と富によって結ばれる新たな秩序だ」
信長は一瞬、呆然と氏真を見つめた。これまで多くの大名に出会ってきたが、これほどまでに美しく、かつ傲慢な綺麗事を本気で語る男は初めてだった。
「クハッ…ハハハハハ!」
突如、信長が大笑いした。白装束の肩を震わせ、腹を抱えて笑い転げる。居並ぶ今川の重臣たちが色めき立つが、氏真は手でそれを制した。
「ハハハ…痛快よ! 貴様、俺と同じ狂人かと思えば、俺以上のうつけではないか! 武士から刀を取り上げ、石鹸と砂糖で天下を飾ろうというのか」
信長は、笑い涙を拭うと、不敵に氏真を睨みつけた。
「いいだろう。こんな綺麗事に、俺の尾張は負けたのか。ならば、その綺麗な世とやらを俺にも見せてみろ。五郎、俺を捕らえたからには、皆が驚愕するほどに使い倒してみせよ。貴様の理想という名の檻の中で、俺が最強の牙となってやる」
信長の降伏。それは、史実における桶狭間の戦いが完全に消滅した瞬間であった。白装束のまま、誰よりも偉そうに、誰よりも不遜に笑う信長。氏真は、その姿に頭を抱えたい衝動を必死に抑え、苦笑いを浮かべた。
「…使い倒せ、か。随分と高くつく傭兵を雇ってしまったものだ」
だが、氏真の瞳には確信があった。信長の破壊衝動を、新世界の構築というエネルギーに変換できれば、この国の平定は十年前倒しになるだろう。
「次郎三郎、三郎殿に客間を用意せよ。それと…最高級の石鹸をな。まずは尾張の煤を洗い流してもらわねばならん」
元信は、氏真と信長の間に流れる奇妙な共鳴を感じ取りながら、深く頭を下げた。
「はっ。承知いたしました」
外では、早川殿が慈しむ庭の花々が、春の陽光を浴びて輝いている。かつて暗君と呼ばれ、滅びる運命にあった男。 桶狭間の戦いの阻止は彼の運命を変えただけではなく、父である義元が存在する世界へと進みだしたこととなる。彼が始めた静かなる革命は、今、戦国最大の異端児を飲み込み、未知なる地平へと漕ぎ出したのである。




