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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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1555年秋

 今川館、義元の奥座敷。氏真は、忍びからもたらされた一報を父の前に差し出した。


「父上、尾張の織田三郎信長…三河との国境付近にいくつもの城砦を築き始めております。これは明らかに、我が領内を伺う牙にございます」


 義元は目を細め、その鋭い眼光を地図に落とした。


「うつけが、図に乗ったか。力で踏み潰すは容易いが、五郎、其方の考えは別にあるのであろう?」


 氏真は静かに頷いた。


「武力で潰せば、尾張は荒れ、我らが手にするのは焦土のみにございます。今こそ、名門・斯波氏の保護を大義名分に掲げ、尾張の不当な秩序を正すべきかと。三郎は守護である斯波兵部大輔様を軽んじ、私欲のために尾張を荒らしております。これを討つは、今川という公儀の務めにございます」


 義元は微かに口角を上げた。氏真の口から出た公儀という言葉が、名門・今川の自尊心を心地よく擽ったのだ。


「よかろう。其方の理と銭、存分に振るってみせよ」



 尾張、末森城。 織田信長の弟、勘十郎信勝のもとに、今川家からの密使が届けられた。信勝は、兄・信長の奔放な振る舞いに常に危機感を抱き、織田家の行く末に不安を覚えていた。そこへ届けられたのは、氏真自らが筆を執った、流麗かつ理知的な書状である。


「織田家の血脈を絶やすは、日ノ本の損失にございます。三郎殿の暴挙は、斯波氏を、ひいては朝廷をも軽んじるもの。貴殿が今川の忠実な臣として立つならば、今川は織田家の存続を保証しましょう」


 さらに密使は、駿府から持ち込んだ蜂蜜をふんだんに使った菓子と香りの良い石鹸を献上した。それらは単なる贈り物ではない。今川と組めば、これほどまでの富と文明が手に入るという、目に見える力の誇示であった。


 信勝の心は揺れた。兄と戦って勝ち目があるのか。だが、背後に今川という巨人が控え、自らの地位と家名の存続を約束してくれるのであれば、話は別だ。



 氏真の調略は、信勝個人に留まらない。その両翼を担う重臣、柴田権六勝家と林新五郎秀貞。彼らに対しても、氏真は驚くべき未来のポストを用意して揺さぶりをかけた。


 まず、武勇を誇る柴田勝家には、こう説いた。


「柴田殿。そなたの武、尾張という狭い地で朽ちさせるにはあまりに惜しい。今川はこれより、領内の治安を盤石にするため、従来の武士の枠を超えた『直轄軍』を新設する。そなたにはその分隊長として、国境の要衝を預けたい。それは単なる守備役ではない。最新の鉄砲隊を統率し、今川の盾となる重職だ」


 勝家のような純粋な武人にとって、自らの武勇が正当に評価され、かつ組織化された強大な軍団を率いる立場は、何よりも魅力的に映った。


 一方、事務能力に長けた林秀貞には、さらに現代的な提案を行った。


「林殿。今川は今、銭と物資の流れを管理する新たな官僚組織を構築しておる。貴殿のこれまでの政務の経験、ぜひ我が勘定官僚として振るっていただきたい。戦に明け暮れる尾張では、貴殿の才は半分も活かされぬ。駿府の洗練された政の場で、真の統治を共に行おうではないか」


 彼らにとって、信長はいつ爆発するか分からぬ火薬庫のような主君であった。対して氏真の提示した条件は、明確な役割と、何より圧倒的な安定を約束していた。



 そして氏真は、信長を支持し続ける他の家臣たちや、尾張の商人たちに向けて、最後通告とも言える書状を放った。


「織田家が斯波氏への忠義を全うし、今川と協調するならば、家名の存続は認めよう。されど、このまま三郎殿の暴挙を見過ごすのであれば、今川は尾張への一切の物資流入を遮断する。塩、蜂蜜、そして今や今川が独占する清浄なる石鹸も、一つたりとも尾張の土を踏むことはない。尾張の民が飢え、汚れにまみれることを望むか」


 これは単なる脅しではなかった。すでに今川は三河を抑え、物流の要所を管理下に置いている。今川がその気になれば、尾張の物流は止まるのだ。



1555年冬

 氏真は早川殿と共に、雪化粧を始めた駿河の山々を眺めていた。手元には、尾張の調略が着々と進行していることを示す、隠密からの報告書が積み重なっている。


(歴史は、桶狭間の戦いに向かって流れていた。だが、俺がここにいる以上、その流れはもう存在しない)


 かつての氏真は、父が死んだ後に瓦解する家を必死に守ろうとした。だが、今の自分は違う。父・義元が存命のうちに、今川の圧倒的な経済力と、現代的な組織論を駆使して、信長の足場そのものを消し去ろうとしている。


「五郎様…尾張の方は、まだお忙しいのでしょうか」


 早川殿が、少し寂しげに、けれど信頼を込めた瞳で問いかけてくる。


「いや、もうすぐ一段落する。冬が終わる頃には、戦わずして勝つということがどういうことか、皆が知ることになるだろう」


 氏真は彼女の肩を抱き寄せた。彼の指先には、常に算盤を弾き、筆を動かしてきた者の確かな力が宿っていた。武力で人を殺すのではない。システムで人を動かし、利益で人を縛る。暗君と呼ばれた男による、史上最も知的で平和的な尾張侵攻が、音もなく幕を閉じようとしていた。



林佐渡守秀貞

「勘定官僚、か…」


 秀貞は、氏真から届いた極秘の書状を、行灯の火で何度も読み返していた。信長のうつけは、時に天賦の才を見せるが、それは常に破壊を伴う。対して、氏真が提示した駿府の姿は計算された安定であった。複式簿記、楽市楽座、そして公衆衛生。それらは事務方として尾張を支えてきた秀貞にとって、まさに理想の統治機構に思えた。


「今川の五郎殿は、人の欲を銭で縛る術を心得ておいでだ。三郎様の破壊を支え続けるか、五郎殿の構築する新しき理の一部となるか…」


 秀貞の指先は、すでに計算を終えていた。彼にとっての正義は、主君への忠義以上に国家という器の平穏にあるのだ。



柴田権六勝家

 勝家は、届けられた今川兵糧丸を口にし、その凄まじい活力が全身に回るのを感じていた。


「直轄軍分隊長。鉄砲を主軸とした、常備の軍団か」


 勝家は武骨な指で顎を擦る。彼が求めているのは、旧態依然とした土地争いではない。武士として、最強の軍を率い、その武を遺憾なく発揮できる戦場だ。氏真の提案には、武士を土地に縛られた農民の延長から脱却させ、専門的な職能集団へと昇華させる響きがあった。


「三郎様の狂気は、確かに戦に勝つやもしれぬ。されど、五郎殿は負けぬ仕組みを作ろうとしておる。武人として、どちらに身を預けるべきか。織田の血筋を守るという名目がある今、その秤は大きく傾きつつある」



織田家家臣

「塩が、蜂蜜が、石鹸が…届かぬようになるというのか」


 信長に付き従う若手から古参まで、家臣団の間に走った動揺は、武力による脅しよりも遥かに深刻であった。今川が三河を完全に掌握し、流通を握った今、尾張は喉元を絞められたも同然である。


「斯波様を奉じる今川に逆らえば、我らは逆賊となり、かつ飢え死ぬことになる。一方で、今川に下れば、織田の家名は残り、駿府の豊かな文明を享受できる」


 彼らにとって、氏真が提供する清浄と甘味は、もはや生活の一部になりつつあった。不潔な戦場に戻ることを、彼らの身体そのものが拒絶し始めている。氏真の狙い通り、尾張の士気は剣を抜く前に、経済という見えない霧に包まれて霧散しかけていた。



織田三郎信長

 信長は、清洲城の天守から駿河の方角を睨みつけていた。


「…今川め。あの鞠に狂った男が、これほどの罠を仕掛けてくるとはな」


 信長は吐き捨てた。彼は、氏真が自分と同じ種類の人間―既存の価値観を信じない合理主義者であることを察知していた。だが、氏真の方がより狡猾で、より巨大な資本を背景に持っている。


「俺の家臣どもを、銭と石鹸で買い叩くか。面白い。俺が力で秩序を壊そうとする間に、貴様は富で俺の足元を腐らせようというのだな」


 信長の瞳に、憤怒と、同時にこれまでにない高揚が宿る。世界で自分一人だけが孤独に戦っていると思っていた戦場に、突如として理を武器にする最強の敵が現れたのだ。



松平次郎三郎元信

 今川館。その一室で行われた元服の儀は、列席した重臣たちの目にも異様なものに映っていた。


 氏真が、人質である松平竹千代の烏帽子親を自ら務めると申し出たのである。主君の嫡男が、属国の少年の烏帽子を自ら結ぶ。それは異例を通り越した、破格の厚遇であった。


「竹千代、動くなよ」


 氏真が立ち上がり、竹千代の前に歩み寄った。その瞬間、竹千代の鼻をくすぐったのは、氏真が今川領内に広めている石鹸の香りであった。


 それは、これまでの戦場や古寺で染み付いた血や泥、埃の匂いとは対極にある、洗練された文明の芳香。竹千代にとってその香りは、優雅でありながらも、一度捕らえられたら二度と逃れられぬ支配の鎖が放つ匂いのように感じられた。


 氏真の白い指先が、少年の頭上に烏帽子を載せる。紐を結ぶ際、氏真の顔が竹千代の耳元にまで近づいた。周囲の者には決して聞こえぬ低い、しかし背筋を凍らせるほど澄んだ声が、少年の鼓膜を揺らした。


「竹千代よ。そなたは私の右腕となれ。土地に縛られ、泥を啜る古い武士の生き方はもう捨てよ。私と共に、算盤と法でこの日ノ本を塗り替えるのだ」


 少年の心臓が大きく跳ねた。それは主君としての命令ではない。新しき世界の設計図を共有せんとする、共犯者への誘いであった。


(この御方は、三河の土を、松平の誇りを、この清潔な帝国の一部として飲み込もうとしている…!)


 竹千代の驚愕を見透かすように、氏真の手がその肩を軽く叩いた。その手の重みは、三河の家臣たちが背負わせる期待よりも遥かに重く、そして抗いがたい魅力に満ちていた。


「これよりそなたは、松平次郎三郎元信だ。父上の一字を賜ったその名に恥じぬ働きを期待しているぞ」


 氏真が晴れやかに宣言すると、周囲から祝辞の声が上がった。


 しかし、平伏する元信の胸中は激しく波打っていた。氏真から授けられた組織論、財務の理、そして兵農分離という新しき概念を知ってしまった今の彼には、もはやただ戦って領地を守るという旧来の生き方は不可能になっていたのだ。


 元信は畳に額を押し付けながら、自分自身に誓った。氏真に従えば、三河の民は飢えず、家臣たちも無為に命を散らすことはないだろう。だが、三河の土の匂いを、この洗練された石鹸の香りがする箱庭に閉じ込めたままにはしておけない。


(この御方の知恵を、思想を、組織の作り方をすべて吸収し、凌駕せねばならない。そうでなければ、三河は一生、今川の美しい経済の鎖から逃れられぬ)


「…若様。この次郎三郎、貴方様の烏帽子子として、その大いなる策の一端を担う覚悟にございます」


 元信の声は、本人も驚くほど冷静に響いた。それは、元信が氏真という巨大な壁に対し、初めて突き立てた静かなる宣戦布告であった。


 顔を上げた元信に対し、氏真はすべてを見透かしたように、満足げな微笑を浮かべていた。その微笑みさえも、元信にとっては超えるべき高い壁に見えた。


 石鹸の香る帝国。その最前線に、松平次郎三郎元信という一人の男が立ち上がった。彼が三河の土の匂いと洗練された理を融合させ、独自の国を築こうとする戦いは、この静かな一室から始まっていたのである。



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