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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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算盤

1554年冬

 駿府城の一角、静謐な書院にて、氏真は一人の少年と向き合っていた。松平竹千代。後に徳川家康として天下を統べる男は、いまだ今川家の人質という危うい立場にありながら、その瞳には決して折れぬ芯の強さを宿している。


「竹千代よ。そなたは、この乱世を終わらせるために最も必要なものは何だと考える」


 氏真の問いに、竹千代は背筋を伸ばし、淀みなく答えた。


「それは、武勇に優れた兵と、彼らを率いる揺るぎなき義にございます」


 模範的な答えだ。戦国時代の教育を受ければ、誰もがそう答えるだろう。氏真はわずかに苦笑し、手元の白紙に円を描いた。


「それは手段であって目的ではない。竹千代、組織…いや、家というものは一つの巨大な商いなのだ」


「あきない…にございますか?」


「左様。武力とは、言わば経費だ。兵を動かせば米が減り、人が死ねば労働力が失われる。家督を継ぐ者が考えるべきは、いかにして最小の経費で最大の利益を生み出すか。勝ち戦であっても、得た領地から上がる収穫よりも、戦に費やした銭が上回れば、それは損失…即ち負けに等しい」


 竹千代の利発な瞳が、戸惑いとともに揺れる。氏真が説いているのは、この時代の武士が忌避する損得勘定であった。だが、氏真は容赦なく現代の組織論を叩き込んでいく。


「人を動かすのは、義や恩情だけではない。それは共通の利益だ。三河の地に戻った際、そなたが家臣に示さねばならぬのは、竹千代に従えば、今日より明日の方が腹が膨れるという確信だ。そのためには、まずそなた自身が領地の富の源泉を把握せねばならぬ。土地の強みは何か、弱みは何か。他国にはない独自の価値をいかに生み出すか…この四つの軸を持ち考えるのだ」


 氏真は、困惑する竹千代に対し、さらに相互利益の概念を噛み砕いて説明した。


「調略とは、相手を騙すことではない。相手に今川と組むことが、自らだけで戦うより利益が大きいと納得させるのだ。戦わずして勝つとは、相手を自分の経済圏に取り込むことに他ならぬ。竹千代、そなたには三河の武士を率いるだけではなく、三河という国を経営する主の心構えを持ってもらいたい」


 竹千代は沈黙した。その小さな頭脳の中で、これまでの常識が音を立てて崩れ、全く新しい支配の理が構築されていく。


「…若様のお言葉、胸に刻みまする。武力はあくまで、理を通すための最後の一手。真の勝負は、戦が始まる前の、日々の積み重ねにあるのですね」


 少年の瞳に、深い理解の光が宿る。氏真は、未来の天下人が経済の重要性をこれほど早く理解したことに、言い知れぬ期待と、そしてわずかな恐怖を感じていた。



1555年冬

 広大な三国に跨る今川領は、氏真が考えたことを素早く実行するには広く、複雑な指示経路となっていた。


 現在の今川家の重臣は、当主の今川義元、筆頭家老に朝比奈丹波守泰能、家老に三浦駿河守正俊、鵜殿藤太郎長持、関口刑部小輔氏純の3人。相談役として、太原雪斎と寿桂尼を据えた面々である。


 そのうえで、遠江と三河に領土の管理人として、今川が定めた地域の顔、現代風に言えば支店長を置くこととした。これは家ではなく、個人に与えられる役職であり、長男かどうか、家長かどうかは関係なく、適任であれば良しとする。数年後に異動の可能性もある、今川官僚を指示し、当主の意見を滞りなく遂行するための新たな役職である。



 氏真の改革は、書院の中だけでは終わらない。 彼は若手の家臣たちを集め、奇妙な講義を行っていた。それは、現代の会計知識を戦国時代風にアレンジした今川流・新式帳簿の伝達である。


「よいか、これまでの単式帳簿では、いくら入って、いくら出たかしか分からぬ。それでは金の正体が見えん」


 氏真は、左右に分かれた帳簿を黒板代わりに示した。


「右側には金の出どころ、左側には金の姿を書く。これを常に一致させるのだ。米が蔵にあるのか、商人に貸しているのか、あるいは武器に変わったのか。これを見れば、今川家という家の現在地が一目でわかる」


 若手家臣たちは、慣れない計算に唸り声を上げ、筆を走らせる。


「左様、貸借は常に釣り合う。これを『複式簿記』という。これができれば、役人の着服は一掃され、どこに資材を投じるべきかが明確になる。これからは、刀を振るうのと同じ速さで、算盤を弾ける者が重用される時代だ」


「ああ、それと頼みたいことがある。民から竈の灰を買い上げてくれ。捨てる予定の分だけで構わない」


 かつて蹴鞠に耽溺していた嫡男が、今は若手たちを財務官僚へと変えようとしている。駿府の役所からは、戦の雄叫びではなく、氏真がまだこの時代の計算機である算木の代わりに作らせた算盤を弾く乾いた音が響き渡るようになった。


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