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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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尾張のうつけ

1554年夏

 内政の改革に着手する一方で、氏真にはどうしても放置できない懸念があった。西の隣国、尾張である。今川家にとって、尾張は名門斯波氏が凋落し、織田という下克上の徒が跳梁跋扈する蛮地に過ぎない。義元もまた、いずれ圧倒的な大軍で平らげるべき小国としか見ていない。


 だが、氏真は知っている。そこには、常識という枠を破壊し、天をも恐れぬ魔王が育ちつつあることを。深夜、氏真は人目を避け、今川家に仕える隠密の頭目を呼び出した。


「尾張の様子はどうだ」


 暗がりに跪く男は、気配を殺したまま淡々と報告を始めた。


「織田備後守信秀が没した後、家督を継いだ三郎は相も変わらずうつけを演じております。父の葬儀では香木を位牌に投げつけたとか。重臣たちの間でも離反が相次ぎ、尾張は内紛の泥沼にございます」


(…やはり、史実通りか)


 だが、その報告の中に、氏真は見過ごせない違和感を嗅ぎ取った。


「そのうつけ、本当にただのうつけか? 領内の農民に奇妙な長槍を持たせて訓練させているという噂はないか。あるいは、商人を集めて情報を買い漁っている様子は?」


 隠密の男が一瞬、たじろいだ。


「…確かに、農閑期にも関わらず、村の若者を借り出して奇妙な陣形を組ませているとの報告がございます。また、熱田や津島の商人から多額の献金を受け、鉄砲なる南蛮の武器を集めているとの噂も」


「それだ」


 氏真は拳を強く握りしめた。信長は、既存の武士道など端から信じていない。彼もまた、経済の重要性を理解し、それを破壊的な武力に変換しようとしているのだ。


「これより、尾張の調査をさらに密にせよ。信長の動向だけでなく、その側近、あるいは彼に冷遇されている不満分子の名をすべて洗え。力でねじ伏せる前に、まずは彼らの足場を揺さぶる調略を仕掛ける必要がある」


「承知いたしました。…若、まるで別人のような眼光にございますな」


 隠密が消えた後、氏真は窓の外に広がる月夜を見上げた。庭では、早川殿が手入れをしているという花々が、夜露に濡れて輝いている。平和な駿府の景色。これを守るためには、いずれあの尾張の怪物を、正面からではなく、もっと狡猾な、あるいはもっと巨大なシステムで封じ込めねばならない。


(桶狭間まで、あと数年。信長が尾張を統一する前に、斯波氏の保護を名目にこちらから手を打つ…。そのためには、今川の富を爆発的に増やさねばならん)


 氏真は、机上の地図に手を置いた。物流改革によって得られる莫大な利益を、そのまま兵の訓練と、尾張への大規模な情報工作に注ぎ込む。暗君と呼ばれた男の、逆襲の青写真が描かれ始めていた。



1554年秋

 駿河の夜は、驚くほどに深い。現代の東京であれば、深夜でも街灯やネオンが空を白ませ、完全な闇が訪れることはなかった。しかし、この戦国の世では、行灯の火が消えればそこはもう、一寸先も見えぬ深淵である。


 その闇の中で、隣に座る早川殿の白い横顔だけが、月光に照らされておぼろげに浮き上がっていた。彼女はまだ幼い。氏真より七つほど年下、数えで言えばまだ十代に足を踏み入れたばかりの少女だ。現代ならば、姪っ子とそう変わらない年頃だろう。そんな彼女が、政略という荒波に揉まれ、見知らぬ駿府の地へ嫁いできたのだ。


「…五郎様、何か考え事でしょうか」


 彼女が伏せていた瞳を上げた。その仕草一つにも、北条の家訓たる礼と、育ちの良さが滲み出ている。


「いや、少しな。この駿府の穏やかさが、いつまでも続けば良いと思案していたのだ」


 氏真は嘘ではない本心を口にした。前世の私は、三十歳の独身サラリーマンだった。守るべき家族といえば、たまに会う姪っ子くらいのもの。だが今、氏真の目の前には、運命を共にすると誓ったひとりの女性がいる。六年後、この国を襲う嵐―桶狭間の戦い。それを回避できなければ、このいたいけな少女は落人となり、苦難の道を歩むことになる。


(死なせるわけにはいかない。この穏やかな沈黙を、戦火の怒号に変えさせはしない)


 氏真は無意識に、彼女の細い手に触れていた。彼女は一瞬驚いたように肩を揺らしたが、拒むことはしなかった。それどころか、震える指先で私の手を握り返してくる。


「私は、北条の娘として参りました。されど今は、今川の妻にございます。五郎様がどのような道を歩まれようとも、私はその影となり、土となり、お支えいたします」


 その言葉には、現代の価値観では測りきれない、武家の女としての苛烈なまでの覚悟が宿っていた。氏真は胸の奥が熱くなるのを感じた。


「御前、約束しよう。私は武力で名を馳せる名将にはならぬかもしれぬ。されど、御前と、これから産まれるであろう我が子らが、一生腹を空かせず、怯えずに暮らせる国を創る。暗君と呼ばれようが、泥を啜ろうが、私は豊かさをもってこの国を統治してみせる」


 月明かりの下、彼女は静かに微笑んだ。その微笑みを守ることこそが、現代から来た男の、この世界における真の仕事なのだと確信した。



早川殿:たち消えた不安

 箱根の山を越え、駿河の地へ輿入れした時、私の心は不安という霧に包まれておりました。今川の嫡男・五郎様。お噂では和歌や蹴鞠をこよなく愛する、優雅ではあるが些か覇気に欠けるお方だと伺っておりました。父も、同盟のためとはいえ、私を預けることに一抹の懸念を抱いていたようでございます。


 けれど、祝言の儀の最中、五郎様がお顔を上げられたその瞬間。私は、息が止まるような衝撃を受けました。


(…お噂と、違う)


 そこにいらしたのは、安逸に浸る公家かぶれの若様ではございませんでした。その瞳の奥には、すべてを射抜くような鋭い知性と、何か巨大な運命と戦っておられるような、悲壮なまでの決意が宿っていたのです。


 あの日を境に、五郎様は変わられました。いえ、まるで別のお方が宿ったかのように、そのお振る舞いには迷いがなくなりました。領内の市を巡っては商人の言葉に耳を傾け、家臣たちには難解な銭の流れを説いておられます。時折、ふとした瞬間に遠い空を見つめ、ひどく寂しげな表情をなさるのが気にかかりますが、私と目が合うと、すぐに慈しむような、陽だまりのような温かい眼差しを向けてくださるのです。


 今宵も、五郎様は私の手を握り、力強く仰ってくださいました。戦ではなく、豊かさで国を守ると。それは、力こそが正義とされるこの乱世において、あまりに危うく、けれど何よりも尊い志に思えました。


「五郎様…私は、お慕いしております」


 不意に口を突いて出た言葉に、私自身が驚き、顔を赤らめました。五郎様は少し驚いたような顔をなさいましたが、すぐに優しく私の頭を撫でてくださいました。その手の温かさは、厳格だった父のものとも、慈悲深い母のものとも違う、私をひとりの女として尊重してくださる、不思議な安心感に満ちておりました。


 このお方の描く豊かなる国を、私は共に見てみたい。たとえ世のすべてが五郎様を嘲笑おうとも、私はこのお方の選んだ道を信じ、最期まで歩みを共にする。駿府の夜風に揺れる花のように、私はただ、このお方の傍らで強く咲き続けようと心に誓うのでした。



今川治部大輔義元

 庭の奥、静まり返った離れから戻る氏真と早川殿の姿を、今川義元は高殿から静かに見下ろしていた。手には、氏真が先日提出した物流改革の覚書がある。


(…化けたな)


 義元は、口元に微かな笑みを浮かべた。 かつての氏真は、確かに教養豊かであったが、それは守りの教養に過ぎなかった。名門・今川の名を汚さぬよう、型に嵌まった生き方をなぞっていたに過ぎない。だが今の氏真はどうだ。その言葉には、泥臭いまでの現実味と、天下の理を根底から覆しかねぬ新しき風が吹いている。


「雪斎、見ておるか。あやつ、もはや蹴鞠の型など気にしておらぬ。むしろ、この日ノ本という巨大な盤面を、銭という鞠で操ろうとしておるわ」


 背後の闇から、太原雪斎が静かに応じる。


「左様にございますな。御屋形様、次代への憂いが一つ消えましたな」


 義元は満足げに頷き、深々と酒を煽った。嫡男が凡庸であれば、自らがすべてを背負って戦い続けねばならない。だが、内政を、この国を富ませる術を氏真に任せられるのであれば、義元は心置きなく、西へと―尾張、そして京へと、今川の旗を押し進めることができる。


「五郎よ。そなたが理を築くというのなら、父がそのための土壌を切り拓いてやろう。この海道一の弓取り、最後にひと仕事、大いなる道を作ってやるのも悪くない」


 息子への信頼は、義元の野心にさらなる火をつけた。桶狭間へと至る運命の歯車は、氏真の変貌という未知の重りを乗せ、史実とは異なる軋みを上げながら回り始めていた。



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