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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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新当主

1557年夏

 美濃をほぼ無血で手中に収めた今川家の勢威は、日ノ本の中心を揺るがすほどに巨大なものとなっていた。駿府へ帰還した義元は、勝利の喧騒が冷めやらぬ中、嫡男・氏真を城の奥深く、静寂が支配する茶室へと招いた。


 そこには、戦場での猛々しい総大将の姿ではなく、一人の父としての義元が座していた。


 義元は、自ら点てた茶を氏真に差し出すと、ふっと遠くを見つめるような目をした。


「…五郎よ。美濃での立ち回り、見事であった。織田や明智を使いこなし、三人衆の心を銭と清潔でへし折ったあの手口…もはや余の知る軍法ではない。だが、あれこそがこれからの理なのだと、この老いた肌でも理解できたぞ」


 氏真は、茶を一口すすり、静かに答えた。


「父上。私はただ、無残に失われる兵の命を減らし、城の修繕費を削り、持てる手札で版図を広げたに過ぎません。そのための土台は、父上が築かれた今川の威光があってこそのものです」


 義元は愉快そうに、しかしどこか寂しげな苦笑を浮かべた。


「謙遜するな。以前の余はな、数年後に自分が隠居し、無理やりにでも権力を譲ることで其方を支えようと考えていた。だが、それは余の傲慢であったな。…今の其方には、余が手を貸す必要などない。むしろ、其方が描く未来という巨大な盤面において、余は一介の駒として動く方が、今川のため、ひいては天下のためになると確信した」


 義元は懐から一通の宣旨を取り出し、氏真の前に置いた。


「これは土産だ。京の朝廷に働きかけ、其方を『従五位下・治部大輔』に任ずる許しを得てきた。…今日この時をもって、余は参議となり、今川の家督を退く。これより今川の当主は、治部大輔…其方だ」


 氏真は驚き、義元の顔を見た。史実よりも早い家督継承。しかし、義元の瞳には、全幅の信頼と、そして自分を追い越していった息子への、言いようのない誇らしさが宿っていた。



「父上、しかし…」


「案ずるな。外交の交渉、あるいは戦場での武威が必要ならば、いつでもこの義元を使い倒すが良い。余は今川の盾となり、刀となり、其方の指し示す先へ突き進もう。…其方がどんな平和を作るのか、余は一番近くで、一番の理解者として、その様を見させてもらうぞ」


 義元の手が、氏真の肩に置かれた。その厚く逞しい掌から伝わる熱は、かつての幼い頃に感じた無敵の父のままであった。しかし今は、その熱が自分を後ろから押し出す風のように感じられた。


「…承知いたしました。父上。この治部大輔氏真、今川の家督、謹んでお引き受けいたします」


 氏真は深く頭を下げた。現代の感覚で言えば、カリスマ創業者が、急拡大を成し遂げた二代目に代表取締役の座を譲り、自らは現場の最高顧問に徹することを決めた瞬間であった。



 家督を継いだ氏真が、当主としての最初の公務に選んだのは、刀を振ることではなく、筆を執ること―全国の大名へ向けた戦略的外交であった。


 氏真は、美濃平定の正当性を理路整然と説いた書状をしたためると共に、今川が誇る最新の文明の利器を詰め合わせた進物セットを用意させた。中には蜂蜜菓子、澄み酒、石鹸。どれも氏真が領内で作らせた一級品である。


「これを各地の大名へ届けよ。戦を売るのではない。我らの豊かさを売り込むのだ」


 氏真は、一通一通に相手に合わせた言葉を添えた。


 これらは単なる挨拶ではない。今川のルールに従えば、これほど豊かな生活が手に入るという、無言の圧力を伴った招待状であった。


 新当主・今川治部大輔氏真。その就任は、日ノ本の戦国大名たちに、これまでの奪い合いの時代が終わり、競争と共生の時代が始まったことを予感させるに十分な出来事であった。



 春日山城の長尾弾正少弼景虎は、届けられた今川石鹸の、その清廉な香りにしばし言葉を失った。


「…宰相殿が隠居し、治部大輔殿が継いだか。それも、このような奇妙な理を携えて」


 景虎にとって、戦とは義のために戦うものであり、富を誇るものではなかった。しかし、石鹸で手を洗い、今川の澄み酒を口にした時、そのあまりの雑味のなさに、自らの領内の遅れを突きつけられた気がした。特に一向宗への対処を共に行おうという提案は、宗教勢力に悩まされる彼にとって、喉から手が出るほど魅力的な実利であった。


「今川治部大輔氏真…この男、仏教が説く清浄を、銭と技術で現世に作り出そうというのか。面白い。この書状、捨て置くにはあまりに重いぞ」



 躑躅ヶ崎館の武田大膳大夫晴信は、今川の蜂蜜菓子を一口かじり、その濃密な甘さに目を細めた。


「甘い。あまりに甘いが、これは毒だぞ」


 晴信は、その一口に込められた経済の暴力を見抜いていた。これほど質の高い菓子や石鹸を安価にばら撒ける今川の生産力。それに対し、山に囲まれた甲斐は、いまだに塩一升を確保するのにも苦労している。


「『内政に注力するから手伝えることがあれば言え』だと? クハッ、よくもぬけぬけと。我らが今川の富を頼らねば生きていけぬように仕向け、戦わずして甲斐を飲み込むつもりか。治部大輔…宰相を隠居させ、駒として使うとは。恐るべき二代目よ」


 晴信は、美濃を奪われ西への道を塞がれた焦燥を、その甘い菓子と共に飲み下した。



 小田原城の北条相模守氏康は、届けられた品々を前に、嫡男・氏政と共に感嘆していた。


「治部大輔、ついに動いたか。宰相殿が自ら退くとは、よほど息子の器量に惚れ込んだと見える」


 氏康は、石鹸の泡立ちを眺めながら、今川が目指す戦なき世の輪郭を掴みかけていた。城を築き、領地を守る。その古い武士の矜持を、氏真は物流と衛生という新しい武器で上書きしようとしている。


「よく見ておけ。これからは刀の数よりも、どれだけ多くの民を清潔に、そして腹いっぱいにさせられるかが、大名の器を決める。今川のやり方は、我ら北条が目指した禄寿応穏の、そのさらに先を行っているぞ」



 親たちが警戒と分析を深める中、若き後継者たちは純粋に、氏真の新しさに惹かれていた。


「父上たちは偉大すぎて大変だ…か。治部大輔殿は、我らの苦悩をよく分かっておいでだ」


 武田太郎義信は、父・晴信の冷徹な軍略に息苦しさを感じていた。そんな彼にとって、氏真の豊かさで世を治めるという発想は、救いのように聞こえた。


 北条新九郎氏政もまた、氏真が送ってきた次世代の集いの誘いに、未知の興奮を覚えていた。親の背中を追うだけでなく、自分たちの代で新しい日ノ本を作る。その旗振りを、今川の新当主が務めようとしているのだ。


 二人は密かに、氏真への返書に「いつか駿府の街をこの目で見たい」と書き添えた。



 京の都では、氏真からの献上品が公家たちの間で旋風を巻き起こしていた。


「今川殿は、天女の衣のような和紙を贈り、病を払う香しき石鹸を贈ってこられた。これぞまさに、帝を支えるに相応しき忠臣ではないか」


 朝廷の支持は、今や完全に今川へ傾いていた。 一方で、京を実質的に支配する三好筑前守長慶は、眉間に皺を寄せた。


「美濃を平定し、次は上洛を伺っているか。今川のやり方は恐ろしい。武力ではなく物で京の民の心を奪おうとしている。これは三好に対する、最もたちの悪い嫌がらせのようだ」



 また、近江の六角左京大夫義賢は、今川の物流網が自国の枝銭を脅かすことを直感し、家臣たちと緊急の会議を開いた。


「今川の街道整備は、我らの中間搾取を許さぬという構えだ。…美濃を食った今川は、もはや東国の田舎大名ではない。我ら近江の喉元に、銭の刃を突きつける巨大な怪物だ」



早川殿:当主の妻として

 お義父様が、五郎様に家督を譲られ、五郎様が正式に殿になられました。


 私は今までどことなく、嫁として扱われていましたが、これからは奥の差配をする存在として、多くのことを学ばなければなりません。


 家臣の皆様の奥方や姫君とお話をしたり、今川館に訪れる様々な方との顔見せ。それから殿に教えていただいた複式簿記を女中たちに広め、奥の金を管理する。


 領土は広く、家は大きいのです。侍女だけでも数十人はおります。仕事の指示から、縁談まで…。身体がいくつあっても足りません。


 ですが、お義母様もお義父様も健在で、助けてくださるので、今のところ問題無く過ごせています。殿から様々なことを教えていただいて良かった。心の底からそう思いました。


 今川家は文化を重んじています。寺社への寄進や参拝、季節の節句や儀式の準備。家格に相応しき振る舞いを身につけなければなりません。


 私に粗相があれば、殿にご迷惑がかかります。殿が安心して政に専念出来るよう、私が奥を守らないといけません。


「ほう…」


 一息ついたら家臣の皆様の奥方に、ご挨拶の文を認めましょう。



 氏真の初仕事は、全国の大名に今川経済を強く意識させることに成功した。 ある者はその利便性に酔い、ある者はその依存性に怯え、ある者はその美しさに憧れた。


 当主・今川氏真。彼が弾く算盤の音は、もはや駿府の街だけではなく、日ノ本全土の経済と政治を動かす鼓動へと変わりつつあった。


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