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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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武士の鑑

1557年春

 包囲からわずか数日。 義龍は、城壁の上から眼下に広がる白い陣幕と、整然とした今川の軍列を眺め、力なく笑った。


「…今川よ。貴様らは戦をしておらぬな。ただ理を押し付けているだけだ。せめて最後は綺麗に散ってみせよう」


 もはや戦う意味すら見出せなかった。義龍は、家臣たちを巻き添えにすることをよしとせず、潔く開城を決定。城内にて静かに腹を切った。ここに、長年周辺を悩ませてきた美濃の動乱は、驚くほど呆気なく、そしてほぼ無犠牲のまま完結したのである。


 開城の儀。義元は、信長と光秀を従え、稲葉山城の門を潜った。


「五郎の言った通りだ。戦わずして勝つ…これほど心地よいものはないな」


 義元の言葉に、信長は不敵に笑い、光秀は深く首を垂れた。美濃を手に入れたことで、今川の領土は駿河、遠江、三河、尾張、美濃と、東海道から中部を貫く巨大な帝国へと膨れ上がった。そしてその中心には、常に算盤を叩き、冷徹に平和な未来を計算し続ける男、氏真がいた。



 広間へ続く回廊は塵一つなく磨かれ、空気には微かに沈香と、氏真が好む石鹸の清廉な香りが混じっていた。謁見の場に現れた今川義元は、極上の絹に身を包み、公家のような優雅な所作で扇を置いた。その隣には、若き文明の開拓者氏真が、静かな、しかしすべてを見透かすような瞳で座している。


「…此度、美濃の安寧のために尽力したこと、大義であった」


 義元の第一声は、威圧ではなく包容であった。 稲葉彦六一鉄ら美濃の将たちは、平伏しながらも、内心では親殺しの義龍に与した自分たちがどう裁かれるか、生きた心地がしていなかった。しかし、氏真が口を開くと、その不安は驚きへと変わった。


「新九郎殿の最期、見事であったと聞き及んでいる。自らの命をもって美濃の民と将を守ったその覚悟、真に武士の鑑と言えよう」


 氏真の言葉は、単なる社交辞令ではなかった。彼は現代の組織管理の要諦を知っている。前経営者を貶めることは、その下で働いてきた国衆の矜持を傷つけ、反感を買い、統合後の生産性を下げるだけだ。


「我らは、新九郎殿が守りたかった美濃を、さらに豊かに受け継ぐつもりだ。皆も、その力を今川のために…いや、美濃の民のために貸してほしい」


 この言葉に、皆は深く頭を下げた。自分たちの誇りが守られたことで、彼らの心は一気に今川へと傾いた。


 そんな折、氏真は列席していた竹中善左衛門重元に目を留めた。


「竹中殿。貴殿の嫡男が、類稀なる智謀の持ち主であると聞いている。もし叶うなら、私の小姓として駿府へ預けてはもらえぬか。私の傍らで、新しき世の算盤を学ばせたいのだ」


 それは、将来の天才軍師に対する、氏真流の青田買いであった。重元は、今川の嫡男自らの指名に驚愕しつつも、息子に開かれる輝かしい未来を予感し、快諾した。


 謁見の後、美濃の国衆たちは城下を案内され、さらに絶句することになる。整備された水道、疫病を防ぐための衛生習慣、そして何より、商人が笑い、銭が奔流のように動く楽市の活気。


「…我らは、とんでもない相手と戦っていたのだな」


 一鉄の呟きは、美濃武士全員の心の声であった。



 美濃の仕置と並行して、氏真は尾張の統治構造の最終的な整理に着手した。 特に懸案だったのは、名目上の当主である信勝と、その兄・信長の関係である。


 氏真は、駿府に招いた信勝と膝を突き合わせて相談した。


「勘十郎殿。貴殿が望むなら、尾張の重役としての地位を保証し続けることもできる。だが、どうだ。本音を聞かせてくれ」


 信勝は、力なく、しかし晴れやかな顔で答えた。


「若様…正直に申せば、私はもう疲れ果てました。家臣は皆、兄上か今川様に心酔し、斯波様も復権された。この戦国の荒波で、主としての重責を担い続けるのは、私には荷が重すぎます」


 信勝にとって、最強のカリスマである兄・信長が今川の軍事指南役として君臨している現状は、恐怖でしかなかった。例え味方であっても、同じ空気を吸うだけで寿命が縮む思いなのだ。


「もし許されるなら…この美しい駿府で、穏やかに暮らしたいのです。和歌や茶を楽しみ、若様が作るこの平和な街の住人として、余生を過ごせれば、これ以上の幸せはございません」


 それは、戦国武士としては異例の早期退職の願いであった。氏真はこれを快諾した。現代のサラリーマンとしても、ブラック企業の社長を無理に続けさせられる苦痛は理解できる。


「承知した。勘十郎殿には、駿府にて相応の屋敷と扶持を約束しよう。文化人としての貴殿を遇しよう。…三郎殿」


 氏真は、傍らで不敵な笑みを浮かべていた信長を見た。


「貴殿には、山城守殿の遺言に従い、美濃の領管を命じる。領管補佐として、朝比奈備中守泰朝をつける。今川の官僚らとともに美濃の国衆をまとめ上げ、私が定めた今川法と楽市楽座を徹底させ、あの地を東海道一の里へと作り変えてもらいたい。…できるか?」


「クハッ。算盤の次は、土いじりか。いいだろう、五郎。俺が美濃を、貴様の理想という名の戦場に仕立て上げてやる」


 これにより、尾張は名門・斯波氏を今川の代理人として置く直轄領となり、美濃は信長という最強の実務家が運営する特区となった。 二つの国は、刀ではなく、氏真という総大将が支配する巨大な組織と再編されたのである。



 数日後。京の都、御所。今川義元からの遣いとして、美濃の平定を報じる使者が到着した。


「今川家、賊徒・斎藤新九郎義龍を討ち、美濃一国を安んじましてございます。これはその証として…」


 差し出された献上品に、公家たちは目を剥いた。 美濃の名産である美濃和紙、さらに、尾張の瀬戸焼や、三河の木綿、そして氏真考案の香る石鹸。


「これほどまでの品々…今川の治める地は、もはや極楽浄土か」


 義元は朝廷に対し、この偉業を成し遂げた嫡男・氏真への官位授与を直訴した。 朝廷に不満があるはずもない。今川からの莫大な献金と、生活を劇的に変える物資の数々。彼らにとって、氏真はもはや一地方の武士ではなく、失われた文明を再興する、天からの遣いのようにすら見えていた。


「今川五郎氏真、その功績、真に殊勝なり。従五位下…いや、さらに上の官位を検討せねばなるまいな」


 公家たちの間では、氏真という若き天才をいかにして京へ招き、その知恵を自分たちの生活に活かすかという相談が、和歌の会よりも真剣に行われ始めていた。


 氏真の算盤が弾き出した音は、ついに御所の奥深くにまで響き渡り、新しき時代の幕開けを、雅やかな旋律と共に奏でていた。

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