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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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13/19

美濃攻略開始

1557年春

 まず動いたのは、織田信長であった。彼は尾張と美濃の国境に検問所を設けたが、それは敵の侵入を防ぐためではない。計量規格の強制のためであった。


「今日より、今川の定めた今川升以外の升を用いた商人は、尾張への入国を禁ずる。また、美濃の商人が持ち込む米や塩も、今川の規格で再計量し、端数は手数料として没収する」


 信長の布告は、美濃の商流を根底から狂わせた。美濃は内陸国であり、塩や海産物、そして対馬や堺から入る物資の多くを尾張・伊勢経由に頼っている。信長が「今川のルールに従わない貨物は通さない」と宣言したことで、美濃の市場からは一夜にして塩と油が消え、わずかに残った食料の値は三倍に跳ね上がった。


 物価高騰に喘ぐ美濃三人衆の元へ、明智光秀が氏真の使者として現れた。彼は武装もせず、ただ一冊の帳簿を携えていた。


「稲葉殿、安藤殿。このまま新九郎公に従い、今川と戦えばどうなるか。算盤を弾いてみました」


 光秀が提示したのは、戦の勝敗予測ではない。今川傘下に入った場合の収支と抵抗した場合の破産予測であった。


「これは戦ではございませぬ。今川という巨大な店に、美濃が飲み込まれるか、それとも外で飢え死にするか。その選択にございます」


 光秀の静かな声は、三人の心に、どんな刃よりも深く突き刺さった。


 さらに決定打となったのは、氏真が仕掛けた衛生による暴力であった。その冬、美濃の一部で小規模な疫病が流行した。義龍の支配下にある美濃では、加持祈祷に頼るしかなかったが、隣の尾張では、今川から供給された石鹸と清浄な水、そして高栄養の兵糧によって、民も兵も驚くほど健康に過ごしていた。

国境の川を挟んで、美濃の兵たちは目撃したのだ。


 泥にまみれ、咳き込む自分たちに対し、対岸の今川・織田軍は、真っ白な湯気を上げる風呂に入り、石鹸の香りを漂わせ、魚の入った汁を喰らい、笑っている。


「…あちら側に行けば、死なずに済む。あちら側に行けば、腹いっぱい食える」


 この噂は瞬く間に美濃中に広まった。義龍がいくら「今川は敵だ」と叫んでも、兵たちの心は、清潔で豊かな今川の生活にすでに降伏していた。三人衆が動員をかけても、兵たちは今川の石鹸が欲しいと公然と口にする始末であった。


 三人衆が秘密裏に集まった際、筆頭の安藤対馬守守就は、光秀から贈られた一個の石鹸を手に取り、深くその香りを吸い込んだ。


「新九郎殿には、武士の意地がある。だが、我らには領民を食わせる義務がある。…今川は、刀で我らを殺そうとはしておらぬ。この香りと銭で、我らを骨抜きにしようとしているのだ」


 守就は、その石鹸を握りつぶさんばかりに力を込めた。

「戦う前に、すでに我らの負けだ。兵は戦う理由を失い、商人は今川の銭を求めて逃げ、民は今川の法を求めている。この状況で戦うのは、武士の誉れではなく、ただの愚行よ」


 彼らは悟った。氏真の狙いは美濃の土地ではなく、美濃の市場と民なのだと。そして、それに逆らうことは、もはや文明そのものに逆らうことに等しいのだと。



 「武田め、よほど海と銭が欲しいと見える。…ならば、奴が西へ向かう道を、今のうちに塞いでやろうではないか」


 義元は、公家顔負けの優雅な微笑みを浮かべながらも、その瞳には冷徹な覇者の光を宿していた。 冬の間に雇用した滝川彦右衛門一益が報告した武田の調略活動に対し、義元は激怒していた。同盟を盾にこちらの喉元を弄ぶような真似は、今川の誇りが許さない。 義元が出した答えは、美濃の即時平定による武田の西進封じであった。


 四月。義元を総大将とする二万の大軍が駿府を発った。 だが、それはこれまでの戦の常識を根底から覆す光景であった。


 氏真が長秀に命じて冬の間に整備させた街道は、二万の軍勢が四列横隊で進めるほどに拡幅され、平坦に整えられていた。兵たちは、氏真が開発した今川兵糧丸を口にし、疲労知らぬ足取りで進む。さらに、陣中には定期的に洗浄所が設けられ、石鹸で体と衣服を清潔に保つことが義務付けられた。


「戦場において最も恐るべきは、敵の刃よりも疫病だ」


 氏真のこの教えにより、今川軍からは一人の落伍者も、病人も出なかった。二万の軍勢が、まるで都のパレードのように整然と、そして恐ろしい速度で美濃へと迫っていた。



 美濃・稲葉山城の斎藤義龍は、文字通り絶望の淵に立たされていた。 信長、帰蝶、そして光秀。この三人が放った調略の矢は、義龍の足元を完璧に腐らせていた。


「今川に降れば、土地は安堵され、駿府の富が約束される。逆らえば、織田の火縄と今川の二万が、貴殿の家を灰にする。選ぶのは…今だ」


 帰蝶の名による説得と、光秀による具体的な戦後利得の提示。そして信長の徹底した封鎖。西美濃三人衆をはじめとする有力国衆たちは、義元本隊が国境を越える前に、すでに不戦を誓っていた。彼らにとって、もはや義龍という親殺しの反逆者に付き従う理由は、義理も利益も存在しなかったのだ。


「皆、動かなくてよい。ただ、我が今川の力を見ているがよい」


 義元は、裏切りを約束した国衆たちにそう伝え、二千の兵と共に孤立した義龍の籠城する稲葉山城を、二万の軍勢で包囲した。


 城を囲む今川軍の陣営は、これまた異様であった。殺気立った怒号はなく、陣中からは石鹸の清々しい香りが漂い、兵たちは氏真が差し入れた甘い菓子を頬張りながら、談笑すらしている。圧倒的な豊かさという名の暴力。城内の飢えと不潔に喘ぐ義龍の兵たちにとって、それは刃を突きつけられるよりも遥かに残酷なデモンストレーションであった。


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