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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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三河武士

1557年春

 一人の青年が立っていた。松平元信。かつて竹千代と呼ばれ、泥を啜るような人質生活を送っていた青年は、今、眩いばかりの純白の直垂に身を包んでいる。それは氏真が自ら選び、贈ったものだ。


「…次郎三郎。似合っているではないか」


 傍らから声をかけた氏真の顔には、主君としての威厳以上に、弟の門出を祝う兄のような、心からの喜びが溢れていた。


 元信の隣には、義元の姪であり、駿府一の美姫と謳われる瀬名が並ぶ。彼女の纏う打掛は、今川領内で新たに開発された絹織物と、京の職人の技が融合した、文字通り文明の結晶であった。


 元信は、隣に立つ瀬名の横顔を盗み見た。彼女の瞳には、かつての人質に注がれるような憐憫の色など微塵もない。そこにあるのは、今川の重鎮として、そして一人の男として、元信という麒麟に向けられた真っ直ぐな信頼であった。


 元信の胸中に、かつての卑屈な想いはなかった。 氏真の傍らで過ごしたこの数年、彼は国家というものの見方を根本から変えられた。土地とは、ただ守るべき泥ではない。そこから富を生み出し、民を潤すための資本なのだ。氏真が提唱する経済圏、衛生管理、そして法による統治。それらを知ってしまった今、元信には、かつてのように三河の国境に籠もり、隣国と小競り合いを繰り返す武士の姿が、いかにも矮小なものに思えていた。


「次郎三郎、頭を上げよ。そなたは今日から、名実ともに我が今川の家族だ。親族衆として、私と共にこの日ノ本の未来を算盤で弾こうではないか」


 氏真のその言葉は、元信の魂に最後の一押しを与えた。三河を捨てるのではない。三河という愛すべき故郷を、今川という巨大な繁栄のプラットフォームの中に組み込み、東海道最強の工業地帯へと昇華させる。それが、自分の、そして松平の家臣たちの生きる道なのだと、彼は確信した。


「…ははっ。この松平次郎三郎元信、今川の家族として、その一翼を担う覚悟にございます」


 深く頭を下げた元信の瞳には、もはや迷いはなかった。土地への執着という古い武士の殻を脱ぎ捨て、彼は今、今川という巨大な組織の経営陣の一員として、本当の意味での仲間になったのである。



 婚儀の儀が滞りなく進む中、拝殿の控室には、三河から駆けつけた松平の重臣たちが並んでいた。 石川助四郎数正、酒井小五郎忠次、鳥居彦右衛門元忠…。彼らは、主君の晴れ舞台を喜びつつも、心のどこかで「自分たちは今川に飲み込まれてしまうのではないか」という不安を拭いきれずにいた。


 そこへ、氏真が一人でふらりと現れた。 護衛も付けず、ただ一人の親族として。


「助四郎、小五郎、彦右衛門。久しいな。元信をこれほど立派な青年に育て上げたのは、そなたら三河衆の辛抱強い忠義があったればこそだ。私からも礼を言うぞ」


 氏真は、武骨な三河武士たちの前に座り、一人一人の目を見て語りかけた。


「…若様。我ら三河の者は、土地こそが命。されど、今の駿府を見れば、我らの考えがいかに古かったか、思い知らされるばかりにございます」


 数正が苦渋を滲ませて答えた。すると氏真は、愉快そうに笑って首を振った。


「土地を愛するのは良いことだ。だが、これからはその土地で何を成すかが重要になる。助四郎、三河の土はな、鉄を作り、木綿を織り、今川の富を支える宝の山になるのだ。そなたらは、ただの番人ではない。今川と松平、手を取り合って、共に大きく、豊かになろうではないか。私は次郎三郎を信じているように、そなたら三河衆の腕も信じている」


 氏真の手が、数正の、そして忠次の肩を力強く叩いた。 その手の温かさと、氏真から漂う石鹸の清廉な香り。三河の家臣たちは、自分たちが征服された敗残者ではなく、新しい時代を作るための不可欠な存在として望まれていることを悟った。


「…若様。我ら三河衆、そのお言葉に、全霊をもってお応えいたす所存!」


 数正の声は震えていた。彼らの忠義は、三河という狭い土地への執着を超え、氏真という男が描く豊かな未来へと、その矛先を向け始めたのである。



 祝宴が始まり、駿府の街中に酒と食の香りが広がる中、氏真は父・義元と共に神社の回廊に立っていた。 ひらひらと舞い落ちる桜の花弁が、二人の肩に止まる。


「五郎よ。次郎三郎を親族に引き入れたこと、そして三河衆の心をこれほどまでに掴んだこと…見事だ」


 義元の声には、嫡男への全幅の信頼が宿っていた。かつてはうつけと評されたこともあった息子が、今や今川の血を薄めることなく、むしろ新しい血を取り込むことで、家をより強固な、有機的な組織へと変えようとしている。


「父上。婚姻は単なる約束に過ぎません。ですが、共に富み、共に笑う体験こそが、裏切りようのない絆を作ります。…さあ、内が固まりました」


 氏真の視線は、桜の向こう、北西に広がる濃尾平野の境界へと向けられた。そこには、信長と光秀が待つ美濃がある。


「蝮の遺した美濃を、我らの庭にいたしましょう。戦わず、民を傷つけず、ただ今川の方が得であるという真理を突きつけるだけで。…三郎殿には、そのための動の役割を、次郎三郎には静の守りを任せます」


「面白い。行くか、五郎。そなたが弾く算盤の音が、日ノ本の隅々まで響く様を、私はこの目で見守ろう」


 桜の香りに包まれた婚儀は、今川が単なる武力の集団から、一つの巨大な価値観を共有する家族へと変質したことを天下に知らしめた。天下布武ではなく、天下布富。氏真の野心は、春の風に乗って、美濃、そしてその先にある京の都へと、静かに、しかし確実に広がっていった。



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