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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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結束

1557年冬

 今川館の一室。氏真は、今川の諜報部門を担う御器屋衆の頭領である甚八と対峙していた。普段は農民や商人に扮し、影なる耳として機能している。


「若様、甲斐の武田が動いておりますな」


 差し出した報せは、不穏なものであった。武田晴信が放った三ツ者と呼ばれる忍びたちが、今川領の沿岸部―特に港湾施設の警備体制や、物資の集積状況を執拗に探っているという。


「武田は海を欲しております。それも、ただの海ではございませぬ。若様が作り上げた、この黄金を産む港を欲しているのです」


 氏真は算盤を置き、窓の外を見つめた。甲相駿三国の同盟は健在だ。しかし、隣の家が突如として莫大な富を築き、清潔で豊かな暮らしを始めれば、飢えた虎が涎を垂らすのは自明の理。武田にとって、今川の豊かさは軍事的な脅威以上に、自国の民の心を揺さぶる毒薬になりつつあった。


 さらに、声を潜めて続けた。


「…それだけではございませぬ。武田は今川の旧臣たちに、同情を装った調略を仕掛けておりますぞ」


 武田の手の者は、今川を古くから支えてきた重臣たちの屋敷に、密かに接触を図っていた。 その言い草はこうだ。


「今川の嫡男は、織田の降将を重用し、官僚などという得体の知れぬ役職に就けている。古くから今川を支えた貴殿らが、なぜ彼らの下に甘んじねばならぬのか。武田へ来れば、相応の土地と、古き良き武士としての誇りを保証しよう」


 これは、組織の新旧交代に必ず生じる歪みを突く、狡猾な揺さぶりであった。氏真が進める経済政策や官僚制は、土地に執着する古い武士にとっては既得権益の剥奪と映りかねない。その報告を聞き、氏真の胸にわずかな不安がよぎった。


(果たして、彼らは私を信じてくれているだろうか。私がやっていることは、彼らの誇りを傷つけていないだろうか…)



 その数日後のことである。 三浦駿河守正俊、岡部丹後守元信、鵜殿藤太郎長照といった、今川家を支える骨とも言うべき旧臣たちが、連名で氏真への謁見を求めてきた。


 氏真は、最悪の事態―集団離反や、抗議の直訴を覚悟して彼らを迎えた。広間に居並ぶ屈強な将たちの顔は、冬の寒さも相まって、ひどく険しく見える。


「若様。殿にはすでにお伝えさせていただきましたが、若様にも折り入ってお耳に入れたきことがございます」


 筆頭の三浦正俊が、重々しく口を開いた。


「此度、武田の使いと称する者が、我らの元を訪れました。今川を去り、甲斐へ来ぬかと。若様が織田の家臣を重んじ、我らを軽んじていると…斯様に申しておりましたな」


 氏真は息を呑んだ。


「…それで、皆はなんと答えたのだ」


 正俊は一度、傍らの元信や長照と視線を交わした。そして、ふっと表情を緩め、膝を打った。


「笑い飛ばしてやりましたわ! 若様のやり方は、正直に申せば、我らのような古い武骨者には分かりにくいことも多い。官僚だの、複式簿記だの、石鹸だの…最初は若様が正気を失われたかと疑ったこともございます」


 他の将たちからも、微かな笑いが漏れる。


「されど、若様。我らの給金は倍になり、領内の道は平坦になり、何より…戦で無為に部下を失うことがなくなりました。雪斎殿や殿が、若様の才を認め、すべてを託された。ならば、我らに疑う余地など万に一つもございませぬ。我らは、若様が作る清潔で豊かな今川の一部であることを、誇りに思っております」


 正俊は深く、畳に額を擦りつけた。


「武田の調略など、今川の石鹸で洗い流してやりました。我ら今川旧臣一同、この命、改めて若様に預けさせていただきます。織田の連中には負けませぬぞ。政務は奴らがやるなら、我らは今川の土を、この命で守り抜く次第でございます」


 氏真の視界が、不意に滲んだ。現代のサラリーマン時代、これほどまでに真っ直ぐな信頼を寄せられたことがあっただろうか。数値と効率だけで動かそうとしていた自分の未熟さを、彼らの無骨な忠義が洗い流していくようだった。


「…そうか、そう思ってくれていたか」


 氏真は立ち上がり、正俊の肩を強く掴んだ。


「感極まった。そなたらがいたから、今の今川があるのだ。私が描くどんな理想も、そなたらという根がなければ、ただの絵空事だ。これからも、そなたらがいなければ、この豊かな今川は守れない。頼むぞ。共に、誰も見たことのない国を作ろう」


「ははっ!」


 広間に響く、旧臣たちの力強い唱和。それは、信長や光秀といった異才がもたらした刺激と、古参の安定が、一つの意志として溶け合った瞬間であった。 武田の調略は、皮肉にも今川の結束をダイヤモンドよりも硬く鍛え上げることとなったのである。



 冬の終わり、美濃へと続く街道では、丹羽長秀が率いる工兵集団が、凍土を砕く音を響かせていた。


「冬のうちに、美濃への血管を通すのだ」


 長秀は、氏真から授けられた設計図を手に、寸分の狂いもなく道を拡げていく。雪が溶ける頃、そこを通るのは破壊の軍勢ではない。氏真の理と富を運ぶ、圧倒的な文明の奔流である。


 内側の壁を盤石にした今川家。 春の訪れと共に、彼らはついに、美濃のマムシの跡目を巡る動乱へと、その巨大な歩みを進めることになる。

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