内政
1556年冬
「三河で培った知見を、尾張の沃野に解き放つ」
氏真が着手したのは、衣類の革命であった。当時、庶民の衣類は麻が主流であったが、三河の一部で試験的に奨励していた木綿の栽培を、尾張全域へと拡大させたのである。木綿は吸水性に優れ、肌触りが良く、そして何より戦場での防寒・衛生維持に役立つ。
「麻の時代を終わらせ、綿の時代を作る。これは単なる服の話ではない。物流の分量を変える戦いだ」
さらに、氏真は副業を領民に推奨した。養蚕である。
桑の葉を育て、蚕を飼う。一見、単なる絹糸作りに見えるが、現代の知識を持つ氏真の狙いはその先にあった。蚕の糞や、蚕を飼う棚の下の土には、将来的に鉄砲の火薬に不可欠な硝石を生成するための成分が含まれている。養蚕を奨励することは、絹という高級輸出分を手に入れつつ、同時に国防の要である硝石の自給自足への布石を打つことに他ならなかった。
領民たちは、農閑期の副業としてこれを受け入れた。氏真が提示したのは今川が全量を適正価格で買い取るという保証。民にとっては現金収入の道が開け、今川にとっては戦略物資の貯蔵庫が領内各地に誕生することとなった。
次に氏真が目をつけたのは、尾張の東部に位置する瀬戸の地であった。古くから陶器作りが盛んなこの地を、彼は今川名産品の拠点へと作り変える。
「瀬戸の器を、ただの雑器で終わらせるな。京の公家が、そして堺の商人が、喉から手が出るほど欲しがる『瀬戸焼』へと昇華させよ」
氏真は瀬戸の職人たちに、今川の法による保護と、最高品質の原料の優先供給を約束した。その代わり、出来上がった器の底には今川の証を刻ませ、品質を厳格に管理させた。
そして、これらの産品を全国へ瞬時に行き渡らせるため、氏真は歴史的な大号令を下す。今川領内における全関所の撤廃と、全域の楽市化。二つの大きな方向性を打ち立てた。今までは大浜や府中などの試験的な導入をしていたが、成功の兆しを感じ、ついに全域に普及させるため、本格的に舵を取った。
「道を通るたびに銭を毟り取るのは、小人の発想だ。商人を呼び込み、物の流れを十倍にすれば、市場の取引税だけで関所税の百倍が手に入る」
駿河から尾張まで、今川の領内を貫く街道から見えない壁を消したい。商人は今川の通行証さえあれば、どこまでも安全に、そして無税で荷を運べる。自由商売の魅力は、近隣諸国の商人を磁石のように駿府や尾張へと引き寄せることとなる。
尾張の経済の心臓部である津島と熱田。この強大な自治権を持つ門前町に対し、氏真は現代的なプラットフォーム戦略を仕掛けた。
彼は、捕らえ、今や軍事顧問のようになっている織田信長の進言を容れた。信長は、南蛮から入ってきた鉄砲の有用性を誰よりも説き、熱田の鍛冶職人たちの腕に目をつけていた。
「三郎殿、貴殿の言う通りだな。熱田の火縄は、日ノ本一の牙となるだろう」
氏真は熱田の職人たちを召喚し、南蛮から仕入れた最新の鉄砲を解体させ、その模倣と量産を命じた。しかし、ただ命じるのではない。彼は津島や熱田の商頭たちに対し、不敵な笑みを浮かべて交渉の席に臨んだ。
「貴殿らの自治は認めよう。だが、条件が三つある。一つ、今川が整備した道のみを使うこと。二つ、我らの敵対国に武器や戦略物資を一切売らぬこと。三つ、計量に用いる升を、すべて今川が定める規格に、つまり今川印のついた升に統一することだ」
当然、商人は渋った。自由こそが彼らの生命線だからだ。そこで、氏真は脅しではなく市場の原理を突きつけた。
「…現在、今川直轄の大浜や府中では、すでに通行税は一切取っておらぬ。このまま貴殿らが旧来の商売を続ければ、あちらの品に価格で勝てず、いずれ客は一人も来なくなるぞ? 今川の流れに参加し、安全と利益を最大化するか、それとも孤立して緩やかに死を待つか。選ぶのは貴殿らだ」
商人は算盤に強い。氏真の提示した条件が、長期的には独占的な利益をもたらすことを彼らは瞬時に理解した。これにて、大浜、府中、そして熱田、津島を結ぶ今川物流網が完成した。それは、刀で斬り伏せるよりも遥かに強固な、利害という名の鎖で繋がれた帝国であった。
産業の基盤が整い、領内に銭が溢れ始めた頃、氏真は次なる標的を見据えた。
美濃。そこには、信長と光秀という二人の天才が、獲物を狙う鷹のような目で出陣の時を待っている。
「五郎左、冬のうちに済ませておくべき仕事がある」
氏真は、土木と兵站の達人である丹羽五郎左長秀を呼び寄せた。
「冬の凍てつく空の下、尾張から美濃へと続く街道を、可能な限り拡幅し、平坦にせよ。雪が溶け、春の風が吹くと同時に、我が今川の軍勢が散歩でもするかのような速度で美濃へなだれ込めるようにな」
長秀はその深い知略の瞳を輝かせ、短く応じた。
「御意に。道こそが、最強の武器であることを証明してみせましょう」
氏真は、窓の外で降り始めた雪を見つめた。雪斎がいない冬。だが、彼の教え子たちは、氏真が描く未来の設計図を現実のものとするべく、冷たい土を掘り、石を運び、着々と新世界の礎を築いていた。
「…さあ、春になったら、蝮の庭を掃除しに行こうか」
氏真の独り言は、暖炉の爆ぜる音と共に、静かに闇へ溶けていった。




