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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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目覚め

1554年春

 薫物の香りが、肺の奥深くまで重く沈殿していた。耳を打つのは、厳かな雅楽の調べ。篳篥の鋭い音が、霧がかかったような意識を無理やり現実へと繋ぎ止める。


(…ここは、どこだ?)


 三十歳の独身サラリーマンとして、昨日も遅くまで資料を作り、姪っ子の動画を眺めながら眠りについたはずだった。柔らかいベッドの感触、遮光カーテンから漏れる街灯の光、深夜の静寂。それらはすべて、遠い彼方の、あるいは前世の記憶のように霞んでいる。


 目を開ければ、そこには朱色の漆器、豪奢な金屏風、そして整然と居並ぶ直垂姿の男たちの群れがあった。自分の体を見下ろせば、重厚な正装に身を包んでいる。視界が極端に狭いのは、冠のせいだろうか。


「…五郎様、如何なされました」


 隣から、鈴の鳴るような、しかし凛とした声が響いた。ハッとして視線を向けると、そこには言葉を失うほどに美しい少女が座っていた。白粉を薄く引き、裳を引いたその姿は、まるで絵巻物から抜け出してきたかのようだ。彼女こそが、北条相模守氏康の娘、早川殿。そしてこの場は、1554年、今川と北条の同盟を確固たるものにするための婚儀の席であった。


(俺が…今川五郎氏真?あの、暗君と言われた蹴鞠馬鹿の?)


 頭の中に、濁流のごとく記憶が流れ込んでくる。蹴鞠と和歌に耽溺し、父の影で安逸を貪る青年。戦国という乱世において、後に『暗君』という不名誉なレッテルを貼られる男。その情けない末路を知っている自分にとって、この状況は喜劇を通り越して悪夢であった。


 正面に座る巨躯の男が、鋭い眼光をこちらへ向けた。今川治部大輔義元。海道一の弓取りと称され、今川家を全盛期へと導いた名将である。その風貌は、後世の創作で描かれるような公家かぶれの軟弱な男ではない。洗練された教養の裏に、獲物を狙う鷹のような冷徹な理知を秘めた、紛れもない統治者の顔だ。


「五郎、顔色が冴えぬな。緊張も良かろうが、今日からは北条の血を引く妻を娶るのだ。今川の次代としての自覚を持て」


 義元の声は低く、そして重い。氏真は、震える指先を膝の上で強く握りしめた。現代社会で中間管理職として揉まれてきた本能が、警鐘を鳴らしている。このまま史実通りに歩めば、わずか六年後、この威厳に満ちた父は桶狭間の露と消える。そして自分は、領国を失い、流浪の果てに歴史の傍白へと追いやられるのだ。


(死にたくない。そして、この少女を不幸にしたくない)


 隣に座る早川殿の、健気な横顔を見る。彼女はまだ幼いが、その瞳には名門・北条の娘としての覚悟が宿っていた。現代で慈しんできた姪っ子の面影が、一瞬だけ彼女と重なる。自分を慕い、頼ってくれる存在を、血塗られた戦火の中に放り出すわけにはいかない。


「…父上、恐れながら」


 氏真の口から出た声は、自分でも驚くほど冷静だった。


「これまでの私は、あまりに世間を、そしてこの乱世を、鞠を蹴るがごとく軽んじておりました。されど、此度の縁組を機に、真に今川の地を、民を、そして私の隣に座る者を守り抜く覚悟が定まりました」


 広間に沈黙が走った。義元は杯を運ぶ手を止め、わずかに眉を動かす。列席する家臣たちの間にも、どよめきがさざ波のように広がった。特に、末席に控えていた一人の少年―松平竹千代が、意外なものを見るかのように、その利発そうな瞳を大きく見開いていた。



 婚儀という名の長い儀式を終え、寝所に下がった氏真は、独り暗闇の中で思考を巡らせた。早川殿は緊張のあまり、早くも隣で静かな寝息を立てている。その無垢な寝顔を見守りながら、彼は脳内のデータベースをフル稼働させた。


(今が1554年。桶狭間の戦いは1560年。…あと、たった六年しかない)


 六年。現代のビジネス感覚で言えば、大規模な新規プロジェクトを立ち上げ、軌道に乗せるには十分だが、中世の封建社会を根底から作り替えるには、あまりにも短い。


 尾張の織田信長は、着々と牙を研いでいるはずだ。今川家が安定を享受している間に、時代の潮流は武力による制圧から経済と情報による支配へと変わりつつある。


 戦は、割に合わない。


 それが、サラリーマンとして生きてきた男の結論だった。兵を養うための食糧、武器、そして失われる人命。それらすべては莫大なコストであり、損失だ。もし、戦わずして勝つ、あるいは戦う必要のない状況を作り出せれば、それが最大の利益となる。


「…やるべきことが多すぎるな」


 氏真は、月の光に照らされた己の手を見つめた。まずは、駿府の経済を回さねばならない。楽市楽座の先取り、兵農分離による直轄軍の確保。そして何より、父・義元に尾張への安易な出陣を思いとどまらせるか、あるいは出陣しても負けない盤石な体制を構築する必要がある。


 駿河、遠江、三河。この豊かな東海道を、血で汚される場所にしてはならない。寺社勢力との折り合い、不透明な徴税システムの刷新、そして外交という名の情報戦。


(俺は暗君などと呼ばせない。この世界で、家族を守り抜き、豊かさを築く。それが俺の第二の人生だ)


 隣で早川殿が、ふとした拍子に氏真の袖を掴んだ。その小さな手の温もりが、彼の決意をさらに硬くさせた。


 しかし、時間は残酷なまでに刻一刻と過ぎていく。闇の向こうから、運命の足音が聞こえるようだった。尾張で頭角を現しつつあるうつけ者と、その背後に潜む時代のうねり。 桶狭間まで、あと二千二百日余り。


 氏真は、暗闇の中で鋭い眼光を放った。文化人としての仮面を被りつつ、その内側にリアリストとしての冷徹な計略を秘めて。 今川氏真の、死に物狂いの生存戦略が、今ここから始まったのである。



 駿府の朝は、雅な静寂とともに明ける。婚儀から数日が過ぎた。今川氏真として生きる覚悟を決めた男は、愛妻・早川殿の柔らかな寝顔を一度だけ見つめ、静かに寝所を辞した。かつての氏真であれば、この時間はまだ夢の中、あるいは和歌の一首でも捻り出そうと筆を舐めていた頃だろう。だが、今の彼を突き動かしているのは、優雅な余韻ではなく、喉元に突きつけられた六年の猶予という鋭い刃であった。


(まずは、父上と雪斎を説得せねばならん)


 今川家の実権は依然として父・義元にあり、その傍らには黒衣の宰相と恐れられる怪僧・太原雪斎が控えている。彼らを納得させ、今川という巨大な組織を動かすには、単なる精神論ではない、圧倒的な利の提示が必要であった。



「物流改革、でございますか」


 広間に集った重臣たちの間に、困惑の声が広がった。中央に座す義元は、扇を弄びながら息子を見つめる。その隣、目を細めて数珠を操る雪斎の視線が、氏真の魂の奥底まで見透かそうとするかのように鋭い。


 氏真は用意していた書状を広げた。そこには、駿河から遠江、三河へと至る街道の図解と、いくつかの奇妙な数字が並んでいる。


「父上。戦は兵糧と銭で決まります。されど、その銭を生み出すのは領民の汗。そして、その汗を価値に変えるのは流れにございます。現在、領内には至る所に関所が設けられ、商人が行き交うたびに過分な津料を徴収しております。これが、国の血管を詰まらせているのです」


「関所を廃せと申すか? それは貴重な現金収入を捨てるに等しい」


 義元の声に、氏真は首を振った。


「目先の端金を惜しんで、万金の利を逃しております。関所を廃し、街道の幅を広げ、整備いたします。商人が安心して、かつ素早く動けるようになれば、商いの回数は十倍にもなりましょう。関所での徴収をやめる代わりに、市場での取引に一定の税を課す『楽市』を推し進めるのです。そのためには特定の商人が独占販売をする座の解体。『楽座』と合わせて進める必要がございます。流転する銭が多ければ多いほど、今川の蔵は勝手に膨らみます。」


 氏真の説く理論は、現代の経済学における流通の効率化によるGDPの拡大に近い。彼は畳み掛けるように、新たな産業についても言及した。


「また、産業を特化させます。駿河の茶、富士の裾野で産じる紙、そして三河の塩。さらに菜種を育て、油を取りましょう。これらをただ売るのではなく、朝廷や公家への献上品として名産品化し、京の都における付加価値を高めるのです。公家の方々と仲良くさせていただくのは、単なる趣味ではございませぬ。彼らはこの時代の威光を広める者。彼らが今川の品は格別と一言発せば、それは天下の宝となります」


 雪斎が、わずかに口角を上げた。


「…面白い。若は、武力ではなく銭で天下の形を整えようと仰るか」


「左様にございます。戦わずして富み、富を背景に理を説く。戦を避けるための武装であり、支配でございます」


 義元はしばし沈黙した後、手元に置かれた蹴鞠の鞠を、自らの手で遠くへ押しやった。


「…よいだろう。五郎、その方の申す内政、まずはこの駿府の町で試してみせよ。雪斎、手を貸してやれ」


第一関門を突破した。氏真は背中に流れる冷や汗を拭い、深く平伏した。


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