私の宇宙を、あなたへ
一.
大好きなアニメがある。
タイトルを口にするだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。まるで冬の夜に、両手でマグカップを包み込んだときのような、あの感覚だ。
しかし私は、そのアニメをリアルタイムで視聴することができなかった。
作品が完結し、十年以上の歳月が流れた頃、私はようやくその世界に足を踏み入れた。放送当時、バイト先の先輩から何度も何度も勧められていたにもかかわらず。
試聴したのは、まったく何気なく、だった。
夜、仕事から帰り、湯船に浸かり、ぼんやりとスマートフォンを眺めていた。動画視聴のサブスクリプションに加入したばかりで、何を観ようかとスクロールしていたとき、そのサムネイルが目に留まった。見覚えのある、独特の絵柄。そして瞬間的に、記憶の底に沈んでいた声が蘇ってきた。
「これ、絶対好きになれますよ。田中さんは絶対」
バイト先の先輩──渡辺さんだ。居酒屋のカウンターで、まかない飯を食べながら、興奮気味に語っていた。どれほど面白く、どれほど世界観が凝っているか。その目が、どれほど輝いていたか。
今の私には、それがわかる。
第一話を再生した瞬間から、私は画面に釘付けになった。気がつけば深夜の二時を回っていて、気がつけば泣いていた。布団に入っても眠れなくて、結局その夜は最終話まで観てしまった。
当時の私は、男性向けのアニメだろうと決めつけて、観る気にもなれなかった。渡辺さんが画面を見せてくれたとき、独特の絵柄も受け付けなかった。「ふうん、面白いんですね」と、曖昧に笑ってやり過ごしていた。
そんな当時の自分を殴りたい。
時間を巻き戻せるなら、渡辺さんともっと語り合いたかった。あの作品の何が好きか、どのキャラクターに感情移入したか、あのラストシーンをどう受け取ったか。渡辺さんが見せてくれていた、あの輝いた目を、正面から受け止めたかった。
渡辺さんは今、どこで何をしているのだろう。バイトを辞めてから一度も会っていない。連絡先も知らない。
それもまた、後悔のひとつだ。
二.
私の人生は、後悔と共にある。
もっと別の道があったのではないか、と思うことがある。選ばなかった道の先に、別の自分がいる気がしてならない。早く就職しなければと焦って、大学進学を諦めなければ。あのとき転職していれば。泣き続けながら日付が変わるまでサービス残業をした。渡辺さんにきちんと向き合っていれば。
やり残したことも、数えきれないほどある。
まだ遅くない、やり直せる、と簡単に言う人もいるかもしれない。実際、そういう言葉が書かれた自己啓発本を、何冊か手に取ったこともある。明るい表紙の、背筋の伸びるような言葉たちを、私はいつも途中で閉じてしまった。
だがもう私は、アラフォーだ。
今からできることは、限られている。身体は正直だ。徹夜すれば翌日が丸ごと潰れる。無理をすれば膝が痛む。二十代のときのように、勢いだけで何かを始めることができない。
だから私は決めた。
これからは後悔しないよう、やりたいことはやりたい時に、すべてやり尽くす。そう決めた。
時間は有限だ。
いつかやろう。そう思いながら日々をやり過ごしているうちに、あっという間にアラフォーになった。気がつけば同僚の多くが年下で、気がつけば流行の音楽を知らなくなっていた。
子どもの頃、時間はもっとゆっくりと流れていくものだった。夏休みは永遠のように感じられたし、一年が果てしなく長かった。私にはまだ無限に時間が残されているのだと、そう思い込んでいた。
誰もが、そう思い込んでいる。
テレビをつけるたびに、悲惨なニュースが流れてくる。事故、病気、突然の別れ。画面の向こうで誰かが嘆いている。他人事ではない、といつも思う。私も、いつ死んでもおかしくない。今日の夜、帰り道に車に撥ねられるかもしれない。明日、検査で取り返しのつかない何かが見つかるかもしれない。先日、何気なく受けた検査で見つかった子宮筋腫のように。
怖い、と思う。
だが同時に、だからこそ、とも思う。
三.
漫画を描く。
小説を書く。
それが、私のやり残したことだった。
物心ついた頃から、私の頭の中には世界が広がっていた。授業中も、仕事中も、誰かと話しながらも、頭の片隅でいつも物語が動いていた。キャラクターたちが息をして、笑って、泣いて、誰かを愛して、誰かに裏切られていた。
私の頭の中は、宇宙のようだ。いくつもの銀河が、いくつもの星が、瞬いている。
それを、この世に残したい。
ずっとそう思っていた。だが描けなかった。書けなかった。絵が上手くなければ、文章が巧みでなければ、誰かに読んでもらえなければ、意味がないと思っていた。完璧でなければ始められないと、そう思い込んでいた。
アラフォーになったある夜、私はパソコンを開いた。
特に理由はなかった。ただ、あのアニメの最終話を観終えて、胸がいっぱいで眠れなくて、この気持ちを何かにぶつけなければならなかった。
書き始めると、止まらなかった。
下手でも構わなかった。誰かに読んでもらえなくても、構わなかった。私の宇宙を、私の手でひとつひとつ形にしていく。それだけで、胸の奥から何かが溢れてくるような気がした。
Webサイトに投稿した。
ビューカウンターはずっと0のままだった。それでも私は満足だった。誰かに届けるために書いているのではなく、私の中の宇宙を、この世界のどこかに存在させるために書いているのだから。
私の宇宙をひとつ形にするたびに、私は満たされていった。
漫画も描いた。絵は上手くなかった。線はぶれて、顔のバランスは崩れていた。それでも、頭の中にいたキャラクターが、画面の上で息をし始めた瞬間の、あの震えるような感覚は、何にも代えがたかった。
ある朝、通知が届いた。
見知らぬ誰かからのコメントだった。たった一行だった。
「続きが読みたいです」
私は、しばらくその画面を見つめていた。通勤電車の中で、人々の喧騒に包まれながら、私はひとり泣いていた。声を殺して、マスクの内側で。
これが、私の生きた証なのだと思った。
いつでも死ねる、と思いたい。後悔のない日々を積み重ねて、今日死んでも構わないと思える夜を、ひとつでも多く作りたい。
パソコンを開く。
頭の中の宇宙が、また瞬いている。
今夜も、私はひとつの星を、この世界に産み落とす。
四.
あれから半年が経った。
フォロワーは三十七人になった。大きな数字ではない。世の中には何万人というフォロワーを抱えるクリエイターが無数にいる。それでも私にとって、三十七という数字は途方もなく大きかった。
その事実が、信じられなかった。
ある日、メッセージが届いた。ハンドルネームは「yuki_1987」。私と同い年らしかった。
「田中さんの小説を読んでいます。田中さんの書く世界に救われています。私も何かを作りたいと思っていたのに、年齢を理由に諦めていました。でも田中さんを見ていたら、やってみようと思えました」
私は何度もその文章を読み返した。
救われている、と書いてあった。私の書いたものに、誰かが救われている。
しばらく考えてから、返信を書いた。
「私もずっと諦めていました。でも、いつでも死ねると思えるくらい、悔いなく生きたくて。始めるのに、遅すぎることなんてないと、今は思っています。一緒に作りましょう」
送信ボタンを押してから、ふと渡辺さんのことを思い出した。
あの人も、きっとこんなふうに誰かの背中を押してきたのだろう。興奮気味にアニメを語りながら、自分では気づかないまま、誰かの何かを変えてきたのだろう。
渡辺さん。
あなたが語ってくれた世界が、十数年の時を超えて、私の中で花開きました。あなたが気づかせてくれた宇宙が、今、誰かの夜を照らしています。
どうかどこかで、元気でいてください。
私はまだ、書き続けます。
今夜もまた、ひとつ星が瞬いている。
──完──




