表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も知らない午前四時の証言  作者: 二条理|アコンプリス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/1

タイトル未定2025/12/01 12:57

第一章 午前四時の教室

 午前四時の学校で、人に会うとは思っていなかった。

 まして、その人が一時間後に殺人未遂の容疑者になるとは、考えもしなかった。

 成瀬悠真は、職員玄関の前で一度立ち止まった。空はまだ夜の底に沈んでいる。校舎の輪郭だけが、薄く白んだ空気の中に黒く浮かんでいた。五月の終わりとはいえ、夜明け前の風は冷たい。制服の上に羽織ったパーカーの前を合わせると、指先にじっとりとした汗がにじんでいることに気づいた。

 何をしているのだろう、と自分でも思う。

 午前四時に学校へ来る高校生など、まともではない。少なくとも、誰かに見つかったらそう思われる。言い訳はある。今日の一時間目の前に提出しなければならない進路希望調査票と、小論文模試の下書きが入ったファイルを、昨日の放課後、教室の机に入れたまま帰ってしまったのだ。

 担任の坂上からは、今日の朝までに必ず出せと言われている。提出が遅れれば、来月の推薦面談に響く。推薦という言葉は、成瀬にとって軽いものではなかった。父は二年前に家を出て、母は朝から夜まで働いている。塾に行かせてほしいと言える家ではない。少しでも条件のいい進学先に行くには、学校推薦を取るしかなかった。

 昨日の夜、ファイルが鞄にないことに気づいた時、成瀬はしばらく動けなかった。時計は午後十一時を過ぎていた。学校へ行くには遅すぎる。朝になってからでは、教師や生徒に見られる。自分が忘れ物を取りに来ただけだと説明すれば済むかもしれないが、なぜそこまでして、と余計な目を向けられるのが嫌だった。

 結局、誰にも見つからない時間を選んだ。母が早朝の仕事に出ていった直後、成瀬は家を抜け出した。鍵は、以前から知っていた。職員玄関の横にある古い配電盤の裏に、緊急用の合鍵が隠されている。誰が最初に見つけたのかは知らない。学校中の生徒が知っているわけではないが、知られていないわけでもない。成瀬はその鍵の存在を、一年生の夏、放送委員の先輩から聞いたことがあった。

 まさか使う日が来るとは思わなかった。

 配電盤の裏に指を差し入れる。冷たい金属に触れた。鍵はそこにあった。成瀬は周囲を見回した。住宅街はまだ眠っている。道路の向こうにあるコンビニの看板だけが、不自然に明るい。誰もこちらを見ていない。

 鍵穴に差し込むと、古い扉は小さく鳴った。思ったより大きな音に聞こえ、成瀬は息を止めた。しばらく待ったが、何も起こらなかった。扉を押し開ける。暗い廊下から、ワックスと埃の匂いが流れ出てきた。

 校舎の中は、昼間とは別の建物のようだった。

 同じ廊下。同じ掲示板。同じ傘立て。同じ靴箱。それなのに、人の気配が消えただけで、見慣れたものが少しずつ違って見える。壁に貼られた進路説明会のポスターは、こちらを見張っているようだった。廊下の奥に並ぶ窓は黒い鏡になり、成瀬の姿を細長く映している。

 スマホのライトをつけようとして、やめた。光は目立つ。非常灯の緑色だけを頼りに、二階へ上がった。

 二年三組の教室は、東階段から三つ目だった。成瀬は階段の踊り場に差しかかったところで、妙な音を聞いた。

 短いチャイムのような音だった。

 長くはない。耳の奥に針で触れられたような、一秒にも満たない音。聞き間違いかと思った。校内放送が入る時間ではない。そもそも、この時間に学校の放送設備が動いているはずがない。

 成瀬は手すりに触れたまま、しばらく動かなかった。

 廊下の奥は暗い。窓の外はまだ夜で、校庭の隅にある外灯だけが、白くぼやけている。音はもうしなかった。

 気のせいだ。

 そう決めるしかなかった。今ならまだ引き返せる。だが、ここまで来て何も取らずに帰る方が馬鹿らしい。成瀬は自分に言い聞かせ、二階の廊下を進んだ。

 二年三組の前で足を止める。

 教室の引き戸は閉まっていた。鍵はかかっていない。学校という場所は、意外なほど無防備だ。成瀬は指先で取っ手に触れた。ほんの少しだけ開けるつもりだった。音を立てないように、ゆっくりと引く。

 その時、教室の中で何かが動いた。

 成瀬は反射的に手を離した。扉が小さく揺れ、かすかな音を立てた。

 中に誰かいる。

 全身の血が、一瞬で冷えた。警備員か、教師か。いや、この学校に夜間警備員はいない。教師なら、こんな時間に教室で何をしているのか。成瀬は逃げようとした。だが足が動かなかった。

 扉の隙間から、低い声がした。

「誰」

 女の声だった。

 成瀬は喉が詰まった。何か答えなければと思ったが、声にならない。

 教室の中で椅子が引かれる音がした。次に、窓際の机の間から人影が現れた。非常灯の緑色が廊下から薄く差し込み、その横顔だけを浮かび上がらせた。

 三木さつきだった。

 成瀬は思わず名前を呼びそうになった。だが、声は途中で消えた。三木も同じように、成瀬を見ていた。驚いている。だが、驚き方が普通ではなかった。見つかってはいけないものを見つかった人間の顔だった。

「成瀬くん」

 三木が先に名前を呼んだ。

「何してるの」

 問い詰めるような口調ではなかった。むしろ、時間を稼ぐような言い方だった。成瀬は唇を舐めた。乾いていた。

「忘れ物。提出物を取りに来た」

「こんな時間に?」

「君こそ」

 言ってから、成瀬は少し後悔した。問い返すには、三木の顔が白すぎた。

 三木さつきは、同じクラスではあるが、親しいわけではない。席は窓際の前から二番目。成瀬の席は廊下側の後ろから三番目。距離でいえば近くない。会話らしい会話をした記憶も、ほとんどなかった。

 ただ、印象に残る生徒ではあった。

 授業中に指名されると、三木は短く正確に答える。教師の機嫌を取るような笑顔は見せない。休み時間は本を読んでいるか、藤村莉子と小さな声で話している。派手なグループに入るわけでも、孤立しているわけでもない。クラスの中で、必要以上に目立たない場所を選んでいるように見えた。

 その三木が、午前四時の教室にいる。

 異常だった。

「佐伯くんに呼ばれたの」

 三木は言った。

 佐伯涼。

 その名前を聞いた瞬間、成瀬の中で別の種類の違和感が生まれた。

 佐伯はクラスの中心にいる男子生徒だった。バスケットボール部。成績も悪くない。教師に対する態度もよく、女子にも男子にもそれなりに好かれている。少なくとも、表向きはそういう生徒だった。

 成瀬は、佐伯が三木を午前四時に呼び出す場面を想像できなかった。想像できないからこそ、何か嫌なものを感じた。

「佐伯が? 何のために」

「知らない」

 三木はすぐに答えた。

 早すぎる返事だった。

「知らないのに来たのか」

「来ないといけなかった」

 三木はそう言って、成瀬から目をそらした。彼女の靴先が、廊下から差す淡い光の中に見えた。濡れている。雨は降っていない。ここへ来る途中、濡れるような場所があっただろうか。成瀬は聞こうとしたが、三木の右手が小さく震えていることに気づき、口を閉じた。

 彼女は何かを隠している。

 それは明らかだった。

 だが、その時の成瀬には、踏み込む勇気がなかった。自分だって、胸を張ってここにいるわけではない。不法侵入とまでは言われないかもしれないが、少なくとも褒められた行動ではなかった。

「佐伯は」

 成瀬は教室の奥を見た。

「ここにいたのか」

 三木は首を振った。

「来てない」

「連絡は」

「ない」

「じゃあ、どうして教室に」

 三木は答えなかった。

 その沈黙が、答えのようだった。

 成瀬は自分の机に向かおうとした。こんな状況に関わるべきではない。ファイルを取って帰る。それが一番いい。そう思った。

 だが、足を踏み出した瞬間、床に小さな紙片が落ちていることに気づいた。

 教室の中央、三木の立っていた場所から少し離れたところだった。成瀬は反射的に拾った。ノートの端を破ったような紙。そこに、細い字で短く書かれていた。

 四時

 東階段

 ひとりで

 成瀬は顔を上げた。

 三木がこちらを見ていた。

「それ、何」

「落ちてた」

「見せて」

 三木の声が硬くなった。

 成瀬は紙片を差し出そうとして、やめた。なぜか、渡してはいけない気がした。三木は一歩近づいた。成瀬は紙片を手の中に握り込んだ。

「佐伯に呼ばれたって、これのことか」

「返して」

「佐伯が書いたのか」

「返して」

 三木の声が震えた。怯えだけではない。怒りも混じっていた。成瀬は紙片を見下ろした。誰の字かは分からない。佐伯の字を知っているわけでもない。ただ、呼び出しの文面としては奇妙だった。名前がない。理由もない。命令だけがある。

 その時だった。

 廊下の奥で、鈍い音がした。

 何か重いものが金属にぶつかったような音だった。乾いた音ではない。人が床を蹴った音でもない。校舎全体が一瞬だけ息を詰めたように、音は廊下を伝ってきた。

 三木がびくりと肩を震わせた。

 成瀬も動けなかった。教室の中の空気が急に薄くなった気がした。耳を澄ます。次の音はない。

「今の」

 三木がつぶやいた。

「東階段の方だ」

 成瀬はそう言った。言ってから、自分の声が思ったより低くなっていることに気づいた。

 三木は走り出した。成瀬も遅れて追った。

 廊下に出ると、空気がさっきより冷たく感じた。足音がやけに大きい。非常灯の緑が、二人の影を床に伸ばしている。東階段は廊下の突き当たりにあった。近づくにつれ、成瀬の胸の鼓動が速くなった。

 踊り場に着いた時、最初に見えたのは、階段の下に転がる白いスニーカーだった。

 次に、人の腕。

 その次に、佐伯涼の顔が見えた。

 佐伯は階段の一番下で倒れていた。身体が不自然な角度に曲がり、制服の肩がめくれている。額の横に血がにじんでいた。血はまだ多くない。だが、床に広がる赤色は、暗い校舎の中でひどく鮮やかに見えた。

 三木が息を呑んだ。

「佐伯くん」

 声はかすれていた。

 成瀬は階段を駆け下りた。佐伯のそばに膝をつく。何をすればいいのか分からなかった。テレビや授業で聞いたことはある。意識の確認。呼吸の確認。救急通報。だが実際に人が倒れていると、頭の中の知識はばらばらに散ってしまう。

「佐伯」

 成瀬は呼びかけた。

 返事はなかった。

「佐伯、聞こえるか」

 肩を揺すろうとして、やめた。動かしてはいけない気がした。顔を近づけると、浅い呼吸がある。生きている。成瀬はそのことに少しだけ安堵し、すぐに自分を恥じた。安堵できる状態ではなかった。

「救急車」

 三木が言った。

「呼んで」

 成瀬はスマホを取り出そうとした。その時、佐伯の右手の近くに別のスマホが落ちていることに気づいた。黒いケース。画面にひびが入っているが、まだ光っている。ロックはかかっていなかった。メッセージアプリの入力画面が開いている。

 成瀬は見るつもりはなかった。

 だが、目に入ってしまった。

 三木に呼び出された

 あいつ俺を

 そこで文字は途切れていた。

 句点も読点もない。変換途中のような、あるいは手が止まったような文だった。

 成瀬はゆっくりと顔を上げた。

 三木は階段の途中に立っていた。青ざめた顔で、佐伯ではなく、そのスマホを見ている。

「違う」

 三木が言った。

 成瀬は何も聞いていなかった。三木はもう一度言った。

「違う。私じゃない」

 その言葉は早すぎた。

 成瀬は救急車を呼んだ。声が震えないように注意しながら、学校名と場所を伝えた。階段から生徒が落ちたこと、意識がないこと、呼吸はあること。電話の向こうの声は落ち着いていた。落ち着いていることが、かえって現実味を増した。

 通話を終えると、三木はまだ同じ場所に立っていた。手すりを握る指が白い。

「三木」

 成瀬は呼んだ。

 三木は答えない。

「何があった」

「知らない」

「さっきの音の前に、佐伯と会ったのか」

「会ってない」

「本当に?」

 三木は成瀬を見た。その目に、怒りが浮かんだ。だがすぐに消えた。残ったのは、もっと深い恐怖だった。

「私、教室にいたでしょ」

 成瀬は言葉に詰まった。

 確かに、三木は教室にいた。成瀬はそれを見ている。だが、ずっと見ていたわけではない。自分が教室に入る前、三木がどこにいたのかは知らない。三木が教室に現れた時刻も正確には分からない。

 午前四時。

 紙片にはそう書かれていた。

 佐伯が倒れていた。

 佐伯のスマホには、三木の名前があった。

 成瀬の手の中には、呼び出しの紙片がある。

 考えれば考えるほど、三木が関係していないとは言い切れなかった。

 遠くからサイレンの音が聞こえた。

 最初は小さく、やがて近づいてきた。校舎の外に赤い光が反射した。成瀬は急に、自分たちが取り返しのつかない場所に立っていることを理解した。

 救急隊員が到着するまでの時間は、実際には数分だったはずだ。だが、成瀬にはそれが妙に長く感じられた。三木は一度も佐伯に近づかなかった。成瀬も、それを責めることができなかった。

 救急隊員とともに、最初に駆け込んできた教師は高嶺先生だった。

 生活指導担当の高嶺先生は、いつも姿勢がよかった。白髪交じりの短い髪をきちんと整え、制服の乱れや遅刻に厳しい。廊下を歩くだけで生徒の背筋が伸びるような教師だった。

 その高嶺先生が、階段下に倒れている佐伯を見るなり、顔色を変えた。

「佐伯」

 低い声だった。

 救急隊員が成瀬たちを下がらせた。高嶺先生はすぐに指示を出した。校門を開けること、担任に連絡すること、保護者へ連絡すること。驚くほど冷静だった。

 成瀬は壁際に立ち、三木はその少し離れたところにいた。

 高嶺先生がこちらを見た。

「君たちは、なぜここにいる」

 成瀬は答えようとした。忘れ物を取りに来た。ただそれだけだ。だが、言葉が出る前に、三木が言った。

「佐伯くんに呼ばれました」

 成瀬は三木を見た。

 高嶺先生の眉がわずかに動いた。

「佐伯に?」

 三木はうなずいた。

「はい」

「何時に」

「四時です」

「どこへ」

「教室に」

 成瀬の手の中で、紙片がくしゃりと音を立てた。

 違う。紙には東階段と書かれていた。三木は嘘をついた。なぜ嘘をつくのか。佐伯を突き落としていないのなら、正直に言えばいい。だが、三木はまっすぐ高嶺先生を見ていた。その横顔は青ざめているのに、奇妙なほど硬かった。

 高嶺先生は成瀬に目を移した。

「成瀬。君は」

「忘れ物を取りに来ました」

「午前四時にか」

「はい」

「鍵は」

 成瀬は答えられなかった。

 高嶺先生はそれ以上追及しなかった。救急隊員が佐伯を担架に乗せている。階段下が慌ただしくなる。高嶺先生は一度そちらへ視線を向け、それから再び成瀬たちを見た。

「二人とも、職員室で待ちなさい。勝手に帰るな」

 その声には、命令以上のものがあった。

 成瀬はうなずいた。三木も小さくうなずいた。

 佐伯が運び出される時、彼の右手が担架の端から少し落ちた。指先が動いたように見えた。成瀬は思わず近づきかけたが、救急隊員に止められた。

 その時、床に白い粉のようなものが落ちていることに気づいた。

 階段の踊り場の隅。手すりの近く。非常灯の光ではほとんど見えない。チョークの粉のようにも見えた。成瀬はそれを見つめた。なぜそんなものが階段に落ちているのか、すぐには分からなかった。

 ふと視線を感じた。

 高嶺先生が、成瀬を見ていた。

 成瀬は慌てて目をそらした。

 職員室へ向かう廊下で、三木は一言も話さなかった。成瀬も話しかけなかった。話しかければ、聞かなければならないことが山ほどある。なぜ佐伯に呼ばれたと言ったのか。なぜ紙片の内容と違う場所を答えたのか。なぜ靴が濡れていたのか。なぜ、佐伯のスマホを見た瞬間に「違う」と言ったのか。

 だが、どれも聞けなかった。

 職員室の明かりがついた。蛍光灯の白さが、夜の校舎には不自然だった。成瀬と三木は来客用の椅子に座らされた。高嶺先生は電話をかけ、別の教師が慌てて出勤してきた。やがて担任の坂上も現れた。寝癖の残った髪を手で押さえながら、成瀬たちを見るなり、何か言いかけて黙った。

 成瀬は窓の外を見た。

 空が少しずつ明るくなっていた。さっきまで黒かった校庭が、灰色になっている。朝が来ようとしている。日常が戻ってくる。そのはずだった。

 だが、成瀬には分かっていた。

 戻ってくる日常は、昨日までのものとは違う。

 三木は膝の上で両手を握っていた。爪が皮膚に食い込むほど強く。成瀬はその手元を見て、彼女がまだ何かを守ろうとしているのだと思った。

 守る。

 その言葉が正しいのかは分からない。人は嘘をつく時、自分のためだと言われるのを嫌がる。誰かのためだったと言えば、少しだけ許される気がする。成瀬自身にも覚えがあった。母に心配をかけないため、と言いながら、本当は自分の弱さを見られたくないだけだったことが何度もある。

 三木の嘘は、誰のためのものなのか。

 成瀬はポケットの中に手を入れた。握りしめていた紙片が、汗で柔らかくなっている。取り出してもう一度見る勇気はなかった。

 四時。東階段。ひとりで。

 その三つの言葉だけが、頭の中で何度も並び替えられた。

 職員室の奥で、電話を終えた高嶺先生が低い声で言った。

「佐伯は意識不明だそうです」

 坂上が短く息を吐いた。

「命は」

「今のところ分からない」

 三木の肩が震えた。

 成瀬は彼女を見た。三木は泣いていなかった。泣いていないことが、かえって苦しそうだった。

 高嶺先生がこちらに歩いてきた。

「成瀬、三木。もう一度確認する」

 その声は静かだった。静かすぎて、職員室の蛍光灯の音まで聞こえた。

「君たちは、佐伯が倒れる前、どこにいた」

 三木は答えた。

「教室です」

 高嶺先生は成瀬を見た。

「成瀬。君も同じか」

 成瀬はうなずきかけた。

 その瞬間、佐伯のスマホの画面が脳裏に浮かんだ。

 三木に呼び出された。あいつ俺を。

 もし三木が本当に佐伯を呼び出していたら。もし成瀬が見ていない数分の間に何かが起きていたら。もし、自分の証言が誰かを救うのではなく、間違った方向へ押し出すものだったら。

 証言というものは、簡単に人を傷つける。

 成瀬は初めてそのことを怖いと思った。

「僕が教室に入った時、三木はいました」

 慎重に言った。

 高嶺先生の目が細くなった。

「何時何分だ」

 成瀬は答えられなかった。

 腕時計はしていない。スマホの時刻を確認した記憶もない。学校へ入る前に見た時刻は、たしか三時五十分過ぎだった。だが、教室に着いた時刻は分からない。

「分かりません」

「四時より前か、後か」

「たぶん、四時を少し過ぎていました」

「少しとは」

 成瀬は唇を噛んだ。

「分かりません」

 高嶺先生は何も言わなかった。その沈黙が、成瀬の答えの弱さを示していた。

 三木は成瀬を見なかった。

 やがて外が明るくなり始めた。教師たちが増え、警察も来た。廊下には足音と話し声が満ちた。午前四時の静寂は、まるで最初から存在しなかったかのように押し流されていった。

 だが、成瀬の中には残っていた。

 暗い教室。非常灯の緑。濡れた靴先。震える右手。床に落ちていた紙片。遠くで鳴った短いチャイム。鈍い音。階段下の佐伯。未送信のメッセージ。

 そして、三木さつきの声。

 違う。私じゃない。

 あの言葉は、何に対する否定だったのか。

 佐伯を突き落としたことか。

 佐伯を呼び出したことか。

 それとも、もっと別の何かか。

 成瀬にはまだ分からなかった。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。

 午前四時の学校で、三木さつきは嘘をついた。

 そして成瀬悠真は、その嘘を見逃した。


第二章 未送信メッセージ

 朝は、何事もなかったように来た。

 空が白み、校舎の窓に薄い光が差し込み始めると、さっきまでこの場所に満ちていた異常な空気は、少しずつ日常の形に押し戻されていった。職員室の蛍光灯の白さも、廊下を走る教師の足音も、電話の呼び出し音も、すべてが学校という場所に似合う音になっていく。

 だが、成瀬悠真の中では何も戻っていなかった。

 東階段の下に倒れていた佐伯涼の姿が、まぶたの裏に焼きついている。額の横に滲んだ血。担架に乗せられる時、力なく落ちた指先。画面にひびの入ったスマホ。そこに残されていた、未送信の文。

 三木に呼び出された

 あいつ俺を

 たったそれだけの文字が、職員室の空気を変えていた。

 最初にその画面を見たのは成瀬だった。だが、その後、高嶺先生も見た。救急隊員が佐伯を運び出したあと、現場の確認に来た警察官が、佐伯のスマホを透明な袋に入れた。その時、近くにいた教師たちは表情を変えた。

 誰も口にしなかった。

 けれど全員が、同じ名前を意識していた。

 三木さつき。

 彼女は職員室の端の椅子に座らされていた。両手を膝の上で重ね、背筋を伸ばしている。泣いてはいない。騒いでもいない。むしろ、あまりに静かだった。その静けさが、周囲の人間には不気味に映ったのかもしれない。

 成瀬は隣の椅子に座りながら、何度も言おうとした。

 三木は教室にいた。

 少なくとも、自分が教室に入った時、彼女はそこにいた。佐伯が倒れる音らしきものを聞いた時も、二人は教室にいた。だから、三木が佐伯を突き落としたはずがない。

 それを言えばいい。

 簡単なはずだった。

 しかし高嶺先生の一言が、成瀬の喉に引っかかっていた。

 何時何分だ。

 成瀬は答えられなかった。三木を見た時刻も、鈍い音を聞いた時刻も、正確には分からない。自分が覚えているのは、暗い廊下、非常灯の緑、三木の濡れた靴先、床に落ちていた紙片。それだけだった。

 証言というものは、曖昧な記憶を言葉にした瞬間、事実の顔をする。

 それが怖かった。

「成瀬」

 名前を呼ばれて顔を上げると、担任の坂上が立っていた。目の下に薄い隈ができている。寝起きの顔に無理やり教師の表情を貼りつけたようだった。

「少し話を聞かせてくれ」

 成瀬はうなずいた。

 連れていかれたのは、職員室の隣にある面談室だった。進路相談や保護者面談に使われる小さな部屋で、丸いテーブルと椅子が四脚置かれている。壁には大学進学率のグラフと、就職希望者向けの求人票が貼られていた。今の成瀬には、そのどちらも遠いものに見えた。

 坂上のほかに、高嶺先生も入ってきた。

 成瀬は一瞬、肩に力が入った。

 高嶺先生は向かいに座ると、手帳を開いた。警察官ではないのに、取り調べを受けているような気分になった。

「確認するだけだ。落ち着いて答えなさい」

 高嶺先生の声は静かだった。

「君は今朝、何時ごろ学校に来た」

「三時五十分過ぎです」

「時計を見たのか」

「学校に着く少し前に、スマホで見ました」

「職員玄関から入った?」

「はい」

「鍵はどうした」

 成瀬は少し黙った。

 坂上が困ったように眉を寄せた。高嶺先生は表情を変えない。

「配電盤の裏にある鍵を使いました」

 言ってしまうと、胸の奥が少し軽くなった。だがすぐに、別の重さが来た。自分は不正に校舎へ入ったのだ。忘れ物を取りに来ただけだとしても、言い訳としては弱い。

 高嶺先生は手帳に何かを書いた。

「その鍵の存在を、誰から聞いた」

「一年の時、放送委員の先輩からです」

「名前は」

「覚えていません」

「本当に?」

「はい」

 高嶺先生はしばらく成瀬を見た。嘘を見つけようとしている目だった。成瀬は視線を逸らさないようにした。嘘はついていない。ただし、全部を言っているわけでもない。

 ポケットの中には、まだあの紙片が入っている。

 四時。東階段。ひとりで。

 それを出すべきなのか、成瀬は迷っていた。出せば、三木が「教室に呼ばれた」と言った嘘がすぐに分かる。だが、なぜその紙を自分が持っているのかも問われる。三木に返さなかった理由も聞かれる。

 そして何より、三木が何を隠そうとしているのか分からないまま、それを差し出すことに抵抗があった。

「教室に着いたのは何時ごろだ」

 高嶺先生が続けた。

「正確には分かりません」

「だいたいでいい」

「四時を少し過ぎていたと思います」

「なぜそう思う」

「学校に着いてから、職員玄関を開けて、階段を上がったので」

「途中で何か見たか」

「いいえ」

 言いかけて、成瀬は止まった。

 短いチャイムのような音。

 あれを言うべきか迷った。聞き間違いかもしれない。校内放送が鳴ったなどと言えば、変に思われるだけではないか。

「何か思い出したのか」

 高嶺先生が言った。

「いえ」

 成瀬は首を振った。

「教室に入った時、三木はいたんだな」

「はい」

「どこに」

「窓際の机の近くです」

「何をしていた」

「分かりません」

「何か持っていたか」

「見ていません」

「君を見るなり、何と言った」

「何してるの、と」

「君は?」

「忘れ物を取りに来た、と答えました」

「そのあと、彼女はなぜ学校にいると言った」

 成瀬は小さく息を吸った。

「佐伯に呼ばれた、と」

 坂上が視線を落とした。高嶺先生のペンが止まる。

「場所は」

「教室だと」

「その時、そう言ったのか」

 成瀬は答えに詰まった。

 三木は、教室だとは言わなかった。佐伯に呼ばれたとしか言っていない。教室に呼ばれたと口にしたのは、高嶺先生に聞かれた時だった。

「僕が聞いた時は、場所までは言いませんでした」

 高嶺先生は成瀬をじっと見た。

「つまり、彼女は君には場所を言わなかった」

「はい」

「それで、佐伯が倒れているのを見つけた」

「はい」

「鈍い音を聞いたんだったな」

「はい」

「その音は、どこから聞こえた」

「東階段の方です」

「それは転落音だと思ったか」

 成瀬は言葉に詰まった。

 転落音。

 そう言われると、確信が持てなかった。あれは、人が階段から落ちる音だったのか。何かがぶつかった音ではあった。だが、人間の身体が階段を落ちる音を、成瀬はそれまで聞いたことがない。

「分かりません。ただ、何か重いものがぶつかったような音でした」

「その直後に東階段へ向かった」

「はい」

「三木と一緒に」

「はい」

「東階段に着いた時、佐伯はすでに倒れていた」

「はい」

「三木は佐伯に近づいたか」

「いいえ」

「なぜだと思う」

 成瀬は高嶺先生を見た。

「分かりません」

「怖かったからか。それとも、近づけなかったからか」

「分かりません」

「成瀬」

 高嶺先生は、そこで少し声を低くした。

「君は三木をかばっているのか」

 坂上が顔を上げた。

「高嶺先生、それは」

「確認しているだけです」

 高嶺先生は成瀬から目を離さなかった。

「どうなんだ」

「かばっていません」

「では、見たことを全部話しているな」

 成瀬の指が、膝の上でわずかに動いた。

 紙片のことを話していない。

 三木の靴が濡れていたことも、まだ話していない。

 短いチャイムのような音も。

 全部話しているとは言えなかった。

「覚えていることは話しています」

 自分でも卑怯な答えだと思った。

 高嶺先生はそれを見抜いたように、ゆっくりと手帳を閉じた。

「いいだろう。いったん戻りなさい。ただし、今日は勝手に帰れない。警察からも話を聞かれる」

「はい」

 成瀬は立ち上がった。

 面談室を出る直前、高嶺先生が言った。

「成瀬」

 振り返る。

「曖昧な親切は、時に人を傷つける。覚えておきなさい」

 その言葉の意味を、成瀬はすぐには理解できなかった。

 職員室に戻ると、三木はいなかった。代わりに、廊下の向こうの面談室に連れていかれる彼女の背中が見えた。成瀬と入れ替わりだったらしい。三木は一度もこちらを見なかった。

 学校はすでに、普通の朝を迎えようとしていた。

 部活動の朝練に来た生徒たちが、校門の前で足止めされている。教師たちは「今日は朝練中止」「教室で待機」と指示を出しているが、説明は曖昧だった。救急車が来たことを見た生徒もいる。噂は、止めようとして止まるものではない。

 七時を過ぎるころには、佐伯が階段から落ちたことは学校中に広まっていた。

 そして八時前には、三木の名前も一緒に広まっていた。

 成瀬がそれを知ったのは、廊下で倉橋に声をかけられた時だった。

 倉橋光太は新聞部だった。丸い眼鏡をかけ、いつもスマホを手にしている。人当たりは悪くないが、他人の秘密を見つけた時だけ目が妙に光る。本人は「記者魂」と言っているが、クラスの大半は「野次馬根性」だと思っていた。

「成瀬、お前、今朝いたんだろ」

 倉橋は声をひそめた。だが、その表情には抑えきれない興奮があった。

「何の話」

「とぼけんなよ。佐伯が落ちた時、三木と一緒にいたって聞いたぞ」

「誰から聞いた」

「いろいろ」

 そう言って倉橋は肩をすくめた。こういう時の「いろいろ」は、ほとんど何も意味しない。誰かが聞いた話を別の誰かが膨らませ、それをさらに別の誰かが面白がって流しただけだ。

「三木がやったって本当か」

 成瀬は倉橋を睨んだ。

「本気で言ってるのか」

「いや、俺が言ってるんじゃない。みんな言ってる」

「みんなって誰だよ」

「だから、いろいろだって。佐伯のスマホに三木の名前があったって」

 成瀬は息を止めた。

 その情報は、まだ生徒が知っているはずのものではない。教師か警察関係者から漏れたのか。あるいは、現場にいた誰かが見たのか。

「誰から聞いた」

 今度は強い声になった。

 倉橋は少し怯んだ。

「そんな怒るなよ。俺だって詳しくは知らない。ただ、佐伯がメッセージ残してたって話が回ってる。三木に呼び出された、とか何とか」

 成瀬の胸が沈んだ。

 噂はもう始まっている。

 一度名前が結びつけられれば、それをほどくのは難しい。佐伯が被害者で、三木が現場近くにいた。佐伯のスマホに三木の名前があった。それだけで、物語は完成してしまう。人は空白を嫌う。分からない部分があれば、自分たちにとって分かりやすい形で埋める。

 その時、廊下の向こうから声が上がった。

 三木が面談室から出てきたところだった。

 数人の生徒が、距離を置いて彼女を見ている。誰も近づかない。だが、目だけは離さない。三木はその視線を受けながら、職員室の前を通り過ぎようとした。

「三木さん」

 誰かが呼んだ。

 声の主は分からなかった。呼ばれた三木は足を止めなかった。

「佐伯くん、どうなったの」

 別の声。

 三木は答えない。

「何があったの」

「呼び出したって本当?」

 言葉は一つずつ小さかった。だが、小さいからこそ卑怯だった。誰か一人が責任を取るほど大きな声ではない。集まると、逃げ場をなくす程度には重い。

 成瀬は足を踏み出しかけた。

 その前に、高嶺先生の声が廊下に響いた。

「教室へ戻りなさい」

 生徒たちは一斉に黙った。

「今、根拠のない話をすることは許しません。各自、教室で待機」

 厳しい口調だった。生徒たちは不満そうにしながらも散っていった。

 三木はその間も、ずっと俯いていた。

 成瀬は彼女に近づいた。

「三木」

 彼女は足を止めたが、顔は上げなかった。

「大丈夫か」

「大丈夫に見える?」

 返ってきた声は、思ったより冷たかった。

 成瀬は何も言えなかった。

「成瀬くん、何を話したの」

「見たことを話した」

「全部?」

 成瀬は答えられなかった。

 三木が顔を上げた。目は赤くなっていない。だが、その奥に、眠っていない人間特有の濁りがあった。

「紙、持ってるよね」

 成瀬の心臓が跳ねた。

「何のこと」

「とぼけないで。教室で拾った紙」

 声は小さかったが、鋭かった。

「あれ、先生に渡した?」

「まだ」

 三木の表情がわずかに変わった。安堵か、恐怖か、成瀬には判別できなかった。

「返して」

「その前に教えてくれ。あれは何だ」

「関係ない」

「関係ないわけないだろ。東階段って書いてあった。君は高嶺先生に、教室に呼ばれたって言った」

「返して」

「なぜ嘘をついた」

 三木は唇を噛んだ。

「成瀬くんには関係ない」

「もう関係なくなった。僕も現場にいた」

「だから何」

「君が犯人扱いされてる」

「知ってる」

「なら、本当のことを」

「本当のことを言えば、誰かが助かると思ってるの?」

 成瀬は黙った。

 三木の声が震えていた。怒りではない。押し殺したものが、少しだけ漏れたような震えだった。

「本当のことを言ったら、全部よくなるなんて、そんな簡単じゃない」

「でも、嘘をついたらもっと悪くなる」

「分かってる」

 三木はそう言って、視線を落とした。

「分かってるよ」

 廊下の窓から朝の光が入っていた。三木の横顔が白く照らされる。教室で見た時より、ずっと幼く見えた。

「佐伯に呼び出されたんじゃないのか」

 成瀬は聞いた。

 三木は答えない。

「君は何をしに学校へ来た」

「言えない」

「佐伯と会うつもりだった?」

「違う」

 即答だった。

「じゃあ、誰と」

 三木は目を閉じた。

「成瀬くん、お願い。あの紙は、まだ誰にも渡さないで」

「なぜ」

「今は言えない」

「それじゃ信用できない」

「信用しなくていい」

 三木はそう言った。

「でも、渡さないで」

 身勝手な頼みだった。

 成瀬はそう思った。自分だけが秘密を抱え、成瀬には理由を言わず、ただ黙っていろという。そんな頼みを聞く義理はない。

 それなのに、成瀬は断れなかった。

 彼女の声に、嘘とは別のものが混じっていたからだ。切羽詰まった人間の声だった。自分が助かりたいだけなら、もっと上手く取り繕える。三木は違った。自分が疑われている状況で、なお何かを守ろうとしている。

 それが何なのか、成瀬には分からない。

「昼休み」

 成瀬は言った。

「話してくれ。誰にも聞かれない場所で」

 三木は少しだけ顔を上げた。

「話せる範囲でいい。でも、何も言わないなら、僕は紙を出す」

 三木はしばらく成瀬を見ていた。

 やがて、小さくうなずいた。

「屋上前の階段」

「分かった」

「誰にも言わないで」

「分かってる」

 三木はそれ以上何も言わず、教室へ向かった。

 成瀬はその背中を見送った。細い背中だった。だが、不思議と弱くは見えなかった。弱い人間なら、とっくに泣いている。三木は泣かない。その代わり、何かを抱え込んでいる。

 教室に戻ると、空気はすでに変わっていた。

 二年三組の生徒たちは、表向きは普段通りに席についていた。だが、誰も普段通りではなかった。会話は小さく、視線は頻繁に三木の席へ向かう。佐伯の席は空いていた。机の上には、昨日のままの教科書とノートが置かれている。その無人の席が、かえって事件の存在を強く示していた。

 成瀬が自分の席に座ると、前の席の男子が振り返った。

「佐伯、やばいらしいな」

 名前は森下だった。普段は佐伯とよくつるんでいる。

「知らない」

「お前、いたんだろ」

「警察に話すことは話した」

「三木がやったのか」

 成瀬は森下を見た。

「違うと思う」

「思うって何だよ」

「見てないから断言はできない。でも、そう簡単に決めつけることじゃない」

 森下は鼻で笑った。

「お前、三木のこと好きなの?」

 近くの席の生徒がちらりとこちらを見た。

 成瀬は無言で森下を見返した。森下は気まずそうに前を向いた。

 好きかどうか。

 そんな話ではなかった。少なくとも成瀬にとっては。

 だが、周囲から見れば違うのかもしれない。三木をかばうには理由がいる。理由がなければ、人は勝手に作る。好意、共犯、同情。どれも分かりやすい。分かりやすいものは、真実よりも早く広まる。

 ホームルームで坂上は、佐伯が事故で搬送されたことだけを伝えた。詳細は確認中で、憶測で話さないように。警察への協力が必要になる場合がある。今日の授業は通常通り行う。

 通常通り。

 その言葉に、教室の何人かが顔を上げた。

 通常通りにできるわけがない。誰もがそう思っていた。だが学校という場所は、時に異常を日常の中へ押し込める。授業が始まり、教師が黒板に文字を書き、生徒がノートを取る。それだけで、何かが処理されたような顔をする。

 一時間目の古典で、成瀬は黒板の文字を一つも頭に入れられなかった。

 ポケットの紙片が気になって仕方がない。何度も触れて、そこにあることを確認した。もしこれを出せば、何かが動く。三木の嘘は明らかになる。だが、その先で何が壊れるのか分からない。

 休み時間になるたび、教室の隅で小さな噂が生まれた。

「佐伯、まだ意識ないらしい」

「三木と揉めてたんだって」

「佐伯のスマホに名前があったって、本当?」

「成瀬も一緒にいたんでしょ」

「共犯?」

 言葉は壁をすり抜ける。聞こえないふりをしても、耳に入る。三木はずっと席に座っていた。藤村莉子は今日、学校に来ていない。空いた席がもう一つ、教室にあった。

 藤村の席を見た時、成瀬はなぜか胸騒ぎを覚えた。

 藤村莉子。

 三木とよく一緒にいる女子生徒。明るく、誰にでも合わせられる。佐伯とも普通に話していたはずだ。今日休んでいるのは偶然なのか。それとも、事件と関係があるのか。

 昼休みになると、三木は誰よりも早く教室を出た。

 成瀬は少し時間を置いて席を立った。倉橋がこちらを見ていたが、気づかないふりをした。

 屋上へ続く階段は、校舎の西端にある。屋上は施錠されていて普段は使えない。そのため、階段の最上階まで来る生徒はほとんどいない。踊り場には古い掃除用具入れが置かれ、窓からは校庭の端が見えた。

 三木はそこにいた。

 朝よりも顔色は少し戻っていたが、疲れは隠せなかった。成瀬を見ると、彼女はまず廊下の方を確認した。

「誰にも言ってない?」

「言ってない」

「紙は」

 成瀬はポケットから紙片を出した。汗で少し波打っている。

 三木はそれを受け取ろうと手を伸ばした。成瀬は渡さなかった。

「話が先だ」

 三木は手を止めた。

 しばらく沈黙があった。下の階から、生徒たちの笑い声が遠く聞こえる。その声が、ここだけ別の世界であることを際立たせていた。

「佐伯くんに呼ばれたんじゃない」

 三木はようやく言った。

 成瀬は黙って続きを待った。

「私は、佐伯くんに会いに行ったんじゃない」

「じゃあ、何をしに」

 三木は唇を結んだ。言うべきか迷っている顔だった。

「佐伯くんのスマホを見ようとした」

 成瀬は息を呑んだ。

「盗むつもりだったのか」

「違う。盗むんじゃない。中のデータを消したかった」

「何のデータ」

 三木は目を伏せた。

「藤村さんの」

 藤村莉子。

 成瀬の中で、空席のイメージがつながった。

「藤村がどうした」

「佐伯くんに、弱みを握られてた」

「弱み?」

「写真とか、メッセージとか、音声とか。詳しくは言えない。でも、本人が誰にも知られたくないもの」

 成瀬は言葉を失った。

 佐伯涼の顔が浮かぶ。明るく、人懐っこく、教師に好かれる男子生徒。その裏側に、三木の言うような姿があるとは、すぐには信じられなかった。だが、まったくありえないとも思えなかった。

 人は表向きの顔だけでできているわけではない。

「佐伯は、それで藤村を脅してたのか」

 三木は小さくうなずいた。

「いつから」

「分からない。でも、最近ずっと様子がおかしかった。笑ってるのに、目が笑ってなかった」

「藤村は誰かに相談したのか」

「できなかった」

「君には?」

「少しだけ」

 三木の声が沈んだ。

「昨日、藤村さんから連絡が来た。佐伯くんが今日の朝、朝練の前にスマホを教室に置くかもしれないって。佐伯くん、部活の時にスマホを机に入れていくことがあったから」

「それで午前四時に?」

「朝練より早く行けば、誰にも見られないと思った」

「でも、なぜ東階段なんだ」

 三木は紙片を見た。

「それは、藤村さんが私に渡した」

「藤村が?」

「佐伯くんの名前を使えば、私が来ると思ったんだと思う」

 成瀬は眉を寄せた。

「どういうことだ」

「私、最初は断った。佐伯くんのスマホを見るなんて無理だって。そしたら、昨日の放課後、机の中にこれが入ってた」

「藤村が書いたと分かってたのか」

「筆跡で、たぶん」

「ならなぜ、佐伯に呼ばれたなんて言った」

 三木は答えなかった。

 成瀬は一歩近づいた。

「君は佐伯を突き落としてないんだよな」

「突き落としてない」

「でも、佐伯のスマホには君の名前があった」

「知らない」

「本当に?」

 三木は成瀬を睨んだ。

「知らない。私は佐伯くんに会ってない」

「じゃあ、なぜあのメッセージが」

「私が聞きたい」

 声が大きくなった。三木はすぐに口を閉じ、階下を確認した。誰も上がってこない。

「教室に入った時、佐伯のスマホはあったのか」

「なかった」

「君は何をしていた」

 三木は視線を逸らした。

「探してた」

「机を?」

「佐伯くんの机と、ロッカー」

「それで?」

「見つからなかった。諦めようとした時、廊下で足音が聞こえた」

「佐伯?」

「分からない。怖くなって、教室に戻った。そしたら成瀬くんが来た」

 成瀬は記憶をたどった。自分が教室の扉を開けようとした時、中で何かが動いた。三木は窓際から現れた。あの時、彼女は隠れていたのかもしれない。

「靴が濡れていた」

 三木の顔が強張った。

「見てたの」

「雨は降ってなかった。どこで濡れた」

 三木は少し迷ってから答えた。

「体育館裏の水道」

「なぜ」

「手を洗った」

「何に触った」

「佐伯くんのロッカー」

「指紋を消そうとしたのか」

 三木は何も言わなかった。

 それが答えだった。

 成瀬は深く息を吐いた。

 三木は犯人ではない。少なくとも、本人はそう言っている。そして成瀬は、その言葉を信じたいと思っている。だが、彼女は無関係ではなかった。佐伯のスマホを探し、ロッカーに触れ、痕跡を消そうとした。警察が知れば、疑いはさらに強くなる。

「どうして最初から言わなかった」

「藤村さんのことが知られるから」

「でも、このままだと君が」

「分かってる」

「分かってない」

 成瀬の声が少し強くなった。

「佐伯が死ぬかもしれないんだぞ」

 三木の顔から血の気が引いた。

 成瀬は言いすぎたと思った。だが、言葉は戻せない。

「……分かってる」

 三木はかすれた声で言った。

「そんなこと、分かってる」

 その時、階段の下で足音がした。

 二人は同時に黙った。

 足音はゆっくりと近づいてきた。生徒の軽い足音ではない。大人の歩き方だった。成瀬は紙片をとっさにポケットへ戻した。三木は壁際に下がった。

 踊り場に現れたのは、高嶺先生だった。

「ここにいたのか」

 高嶺先生は、二人を見ても驚いた様子を見せなかった。

「昼休みに呼び出し合うほど、余裕がある状況ではないと思うが」

 三木は俯いた。

 成瀬は答えた。

「少し話していました」

「事件のことか」

「はい」

「警察に話す前に、口裏合わせをしていたわけではないな」

「違います」

 高嶺先生はゆっくりと成瀬を見た。

「そうか」

 それだけ言って、三木に視線を移す。

「三木。午後、警察がもう一度話を聞きたいそうだ」

 三木の指が小さく震えた。

「はい」

「成瀬もだ」

「分かりました」

「それから」

 高嶺先生は一歩近づいた。

「二人とも、隠し事はしない方がいい」

 成瀬の背中に冷たいものが走った。

「真実を隠せば、誰かを守れると思っているのかもしれない。だが、隠された事実は、たいてい別の誰かを傷つける」

 それは朝、成瀬に言った言葉と似ていた。

 曖昧な親切は、人を傷つける。

 高嶺先生は何かを知っているのか。成瀬はそう思った。三木のことか。佐伯のことか。藤村のことか。

 それとも、もっと別の何かか。

 高嶺先生はそれ以上言わず、踵を返した。足音が遠ざかるまで、二人は動かなかった。

 三木が小さく言った。

「今の、聞かれてた?」

「分からない」

「もし聞かれてたら」

「まだ何も断定できない」

 成瀬はそう言ったが、自分でも頼りないと思った。

 三木は壁にもたれた。初めて、力が抜けたように見えた。

「私、どうすればいいの」

 それは成瀬に向けた問いというより、彼女自身からこぼれた声だった。

 成瀬には答えられなかった。

 正しいことを言うのは簡単だ。本当のことを話せばいい。警察に任せればいい。嘘をつくな。隠すな。

 だが、その正しさが誰を守るのか、成瀬には分からなかった。

 藤村莉子が守ろうとしているもの。三木さつきが隠そうとしているもの。佐伯涼が残した未送信メッセージ。高嶺先生の静かな目。

 すべてが一本の線でつながっているようで、まだ形にならない。

「まず、藤村に会う」

 成瀬は言った。

 三木が顔を上げた。

「駄目」

「なぜ」

「巻き込まないで」

「もう巻き込まれてる。君が守ろうとしてるなら、なおさら話を聞く必要がある」

「成瀬くんには関係ない」

「その言葉、もう二回目だ」

 三木は黙った。

「関係ないなら、僕は今すぐ紙を先生に渡す」

 三木は成瀬を睨んだ。だが、すぐに目を伏せた。

「藤村さん、今日は学校に来てない」

「家は知ってる?」

「知らない。でも、駅前の図書館にいるかもしれない」

「図書館?」

「たまに、学校を休んだ日にそこへ行くって言ってた。家にいると親に色々聞かれるからって」

 成瀬はうなずいた。

「放課後、行ってみる」

「私も行く」

「君は目立つ」

「でも」

「三木が行けば、藤村は余計に話せないかもしれない」

 三木は反論しようとして、やめた。

「じゃあ、成瀬くんは何て言うの」

「三木は君を守ろうとしている、と」

 三木の表情が揺れた。

「そんなふうに言わないで」

「違うのか」

 三木は答えなかった。

 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。

 今度は本物のチャイムだった。成瀬はその音を聞きながら、午前四時に聞いた短い音を思い出していた。あの音は、やはりチャイムに似ていた。だが、今の音とは違う。もっと短く、途中で切れたような音だった。

 校内放送の試験音。

 そんな言葉が頭に浮かんだが、すぐに消えた。

 なぜ高嶺先生は、あのタイミングで屋上前の階段へ来たのか。偶然か。それとも、二人を探していたのか。

 成瀬は三木と並んで階段を下りた。

 教室に戻る途中、東階段の方から警察官が歩いてくるのが見えた。手には透明な袋を持っている。中に入っていたのは、佐伯のスマホではなかった。白い粉のようなものが付着した、小さな紙片か布片に見えた。

 警察官の後ろを、高嶺先生が歩いていた。

 成瀬は足を止めそうになった。

 高嶺先生は一瞬だけこちらを見た。表情はいつも通りだった。だが、成瀬にはその目が、何かを測っているように見えた。

 午後の授業は、午前中よりさらに長く感じた。

 警察からの事情聴取は放課後になった。成瀬は同じことを何度も聞かれた。何時に学校へ来たか。なぜ来たか。誰と会ったか。佐伯を見つけた時の状況。三木との関係。佐伯との関係。

 関係という言葉が、何度も出た。

 人は事件が起きると、関係を探す。誰と誰が近かったのか。誰と誰が揉めていたのか。誰が誰を好きだったのか。嫌っていたのか。恨んでいたのか。

 だが、本当に恐ろしい関係は、外からは見えないところにある。

 佐伯と藤村。

 三木と藤村。

 佐伯と高嶺先生。

 成瀬はまだ、その輪郭を掴めずにいた。

 警察から解放された時、空は夕方の色になっていた。校門の外には数人の生徒が残っていて、こちらを見ていた。成瀬は鞄を肩にかけ、駅前の図書館へ向かった。

 歩きながら、スマホで佐伯の容体を確認しようとした。もちろん、そんな情報が簡単に出るはずはない。クラスのグループチャットは通知で埋まっていた。

 佐伯、意識戻らないらしい。

 三木、警察に連れていかれる?

 成瀬もやばいって。

 未送信メッセージって何?

 誰かスクショ持ってないの?

 最後の文を見た時、成瀬は吐き気を覚えた。

 誰かが倒れている。意識が戻らない。なのに、彼らはスクショを欲しがっている。証拠ではなく、話題として。痛みではなく、消費するものとして。

 佐伯がどんな人間だったとしても、今その身体は病院のベッドにある。三木が何を隠していたとしても、彼女は今日一日、針のむしろの上にいた。

 それでも噂は回る。

 回るたびに、人を削る。

 図書館は駅前の複合施設の三階にあった。平日の夕方で、閲覧席には学生や老人がまばらに座っている。成瀬は奥の自習スペースを見て回った。

 藤村莉子は、窓際の席にいた。

 制服ではなく、白いパーカーを着ていた。髪を低い位置で結び、マスクをしている。最初、成瀬は気づかなかった。だが、彼女が顔を上げた時、目元で分かった。

 藤村は成瀬を見るなり、明らかに怯えた。

「藤村」

 成瀬は声を抑えた。

「少し話せる?」

 藤村は首を振った。

「無理」

「三木のことで来た」

 その名前を出した瞬間、藤村の目が揺れた。

「三木が、君を守ろうとしてる」

 藤村の指が、机の上で震えた。

「何のこと」

「佐伯のスマホのこと」

 藤村は立ち上がろうとした。成瀬は前に回り込んだ。

「逃げないでくれ。責めに来たんじゃない」

「知らない」

「三木が疑われてる」

「知らない」

「佐伯が意識不明だ」

「知らない!」

 声が少し大きくなり、近くの利用者がこちらを見た。藤村はすぐに口元を押さえた。目に涙が浮かんでいた。

 成瀬は一歩下がった。

「ごめん」

 藤村は椅子に座り直した。肩が小刻みに震えている。

「三木さん、言ったの」

「少しだけ」

「私のこと」

「詳しくは聞いてない」

 藤村は両手で顔を覆った。

「言わないでって言ったのに」

「三木は君を売ったわけじゃない」

「分かってる」

 藤村は泣きそうな声で言った。

「分かってるよ。だから余計に嫌なの」

 成瀬は何も言えなかった。

 藤村はしばらく黙っていた。やがて、鞄の中から小さなメモ帳を取り出した。ページの端が何枚か破られている。

「私が書いた」

 彼女は言った。

「何を」

「四時、東階段、ひとりでって」

 成瀬は息を呑んだ。

「やっぱり」

「佐伯くんの名前を使った。最低だよね」

「なぜそんなことを」

「三木さんに来てほしかった。でも、直接頼んだら断られると思った」

「佐伯のスマホを見てほしかったから?」

 藤村はうなずいた。

「もう、限界だった」

 その言葉には、説明よりも先に疲労があった。何日も眠っていない人間の声だった。

「佐伯に何をされた」

 藤村は首を振った。

「今は言えない」

「警察には」

「言えない」

「でも、三木が疑われてる」

「分かってる!」

 藤村はまた声を上げかけ、唇を噛んだ。

「分かってる。でも、怖いの。話したら、全部終わる。私だけじゃない。家族も、学校も、全部」

「佐伯は、他にも誰かを脅していたのか」

 藤村は答えなかった。

 それだけで十分だった。

 成瀬は背筋が冷たくなるのを感じた。これは、三木一人の問題でも、藤村一人の問題でもない。佐伯のスマホには、もっと大きな何かが入っている。

「藤村」

 成瀬は慎重に言った。

「今朝、学校にいた?」

 藤村の顔が固まった。

「なぜ」

「君はメモを書いた。なら、三木が来るかどうか確かめたくならなかった?」

 藤村は視線を逸らした。

「いたんだな」

「校門の外」

「中には入ってない?」

「入ってない」

「何か見た?」

 藤村は震える息を吐いた。

「東階段の窓」

「窓?」

「外から少し見えるの。踊り場のところ」

 成瀬は頭の中で校舎の配置を思い浮かべた。東階段の踊り場には縦長の窓がある。校庭側から角度を選べば、中の人影が見えるかもしれない。

「誰かいたのか」

 藤村はうなずいた。

「佐伯?」

「佐伯くんも、いたと思う。でも、もう一人」

 成瀬の鼓動が速くなった。

「誰」

 藤村はしばらく答えなかった。

 図書館の中で、誰かがページをめくる音がした。遠くで椅子を引く音がした。世界は静かだった。静かすぎて、藤村の声が落ちる前から、その答えが重いものだと分かった。

「先生」

 藤村は言った。

「先生がいた」

 成瀬は動けなかった。

「どの先生」

 藤村の目から、涙が一粒落ちた。

「高嶺先生」

 その名前を聞いた瞬間、成瀬の中で、午前四時の短いチャイムがもう一度鳴った。

 廊下に響いた鈍い音。

 階段の踊り場に残った白い粉。

 冷静すぎる到着。

 隠し事はしない方がいい、という言葉。

 そして、成瀬を見ていたあの目。

 何かが、少しだけ形を持ち始めていた。

 だが同時に、別の疑問が生まれた。

 高嶺先生がいたなら、なぜそれを言わなかったのか。

 なぜ佐伯のスマホには、三木の名前が残っていたのか。

 なぜ三木は、佐伯に会っていないと言いながら、手を洗い、嘘をついたのか。

 答えはまだ遠かった。

 藤村は机に顔を伏せ、声を殺して泣いていた。

 成瀬はポケットの中の紙片を握りしめた。

 未送信のメッセージは、まだ送られていない。

 けれど、その言葉はもう十分に人を傷つけていた。


彼女が隠したもの

 藤村莉子は、泣くのが下手だった。

 図書館の閲覧席で顔を伏せている彼女を見ながら、成瀬悠真はそんなことを思った。声を殺し、肩だけを小さく震わせている。泣いていることを周囲に知られたくないのだろう。だが、隠そうとすればするほど、その姿は痛々しく見えた。

 成瀬は、どう声をかければいいのか分からなかった。

 慰める資格が自分にあるとは思えない。事情をすべて知っているわけでもない。藤村が何を恐れているのかも、三木さつきが何を守ろうとしているのかも、まだ半分も見えていない。

 ただ一つだけ、はっきりしたことがある。

 午前四時の東階段に、高嶺先生がいた。

 藤村はそう言った。

 それが本当なら、事件の見え方は変わる。三木が佐伯を突き落としたという単純な構図は崩れる。だが同時に、別の疑問が生まれる。

 なぜ高嶺先生は、自分がそこにいたことを黙っているのか。

 成瀬は図書館の窓の外に目を向けた。夕方の光が駅前のロータリーを斜めに照らしている。バスを待つ人、買い物袋を下げた老人、制服姿の中学生。誰も、学校で起きた事件のことなど知らない顔をして歩いている。

 世界は、他人の不幸に驚くほど無関心だ。

 そのことに、成瀬は少し救われ、少し腹が立った。

「藤村」

 成瀬はできるだけ低い声で呼んだ。

 藤村は顔を上げなかった。

「高嶺先生を見たって、本当なんだな」

 藤村は頷いた。

「見間違いじゃない?」

「たぶん」

「たぶん?」

 藤村はようやく顔を上げた。目元が赤い。マスクの上からでも、呼吸が乱れているのが分かった。

「暗かったから、はっきり顔を見たわけじゃない。でも、歩き方とか、背格好とか、髪とか。高嶺先生だと思う」

「何時ごろ」

「分からない」

「時計は見てない?」

「スマホは持ってた。でも、時間を見る余裕なんてなかった」

 成瀬は頷いた。自分も同じだ。あの時間、時計など見ていなかった。あとになって時刻を問われると、記憶の曖昧さだけが浮き彫りになる。

「君は校舎の外にいたんだな」

「うん」

「どこ」

「校庭のフェンスの外。東階段の窓が少し見える場所」

「そこから佐伯も見えた?」

 藤村は視線を落とした。

「人影は見えた。佐伯くんかどうかは、分からない。でも、背が高くて、男子の制服だった」

「二人は何をしていた」

「話してたと思う」

「揉み合っていた?」

「そこまでは見えない。私、怖くなって逃げたから」

「逃げた?」

「だって」

 藤村は両手を握りしめた。

「佐伯くんが本当に来てると思わなかった。三木さんだけが来て、スマホを見つけて、消してくれたらいいって。そう思ってた。なのに、佐伯くんがいて、先生もいて、何が起きてるのか分からなくなって」

「そのあと、音を聞いた?」

 藤村は首を横に振った。

「走ってたから。何も聞いてない」

「どこへ」

「駅の方。しばらく歩いて、ここに来た」

「学校に戻ろうとは思わなかった?」

「無理だよ」

 藤村の声が細くなった。

「戻ったら、全部聞かれる。どうしてそこにいたのか。どうして三木さんを呼んだのか。佐伯くんに何をされたのか。全部」

「警察には話した方がいい」

 成瀬は言った。

 言った瞬間、自分でもひどく正論めいていると思った。正論は、人を追い詰める時に一番鋭い刃になる。

 藤村は案の定、表情を硬くした。

「分かってる」

「なら」

「分かってるって言ってるでしょ」

 声が震えた。怒鳴る寸前の声だった。近くの席の女性がこちらを見た。成瀬は口を閉じた。

 藤村はしばらく黙っていた。やがて、机の端に置いていたペットボトルに手を伸ばした。キャップを開けようとして、指が滑った。成瀬が代わりに開けようかと言いかける前に、彼女は自分で開けた。

「佐伯くんはね」

 藤村は小さく言った。

「最初は優しかった」

 成瀬は何も言わなかった。

「誰にでも優しいんじゃなくて、私にだけ優しいみたいに見せるのがうまかった。私が落ち込んでる時に声をかけてくれて、勉強を教えてくれて、家のことで悩んでるって言ったら、話を聞いてくれた。誰にも言わないって」

「それを録音していた?」

 藤村は頷いた。

「音声だけじゃない。メッセージも、写真も。私が送ったものもある。送らされたものもある」

 成瀬は息を止めた。

 踏み込んではいけない領域がある。そう直感した。藤村の口から、それ以上の詳細を聞くべきではない。少なくとも今、この場所で聞くべきではない。

「それで脅された」

「最初は脅しだと思わなかった。冗談みたいに言うの。これ、誰かに見られたら困るよねって。俺は見せないけど、莉子が俺を裏切ったら分からないよって」

 藤村は笑おうとして失敗した。

「裏切るって何だろうね。付き合ってもいないのに」

 成瀬は胸の奥が重くなるのを感じた。

 佐伯涼の顔が浮かんだ。授業中に教師へ明るく返事をする顔。休み時間に男子たちと笑う顔。文化祭の準備で女子に重い荷物を持たせず、自分で運んでいた顔。どれも嘘ではなかったのかもしれない。だが、それらの顔と今聞いた話は、同じ人間の中に同居している。

 そのことが、一番気持ち悪かった。

「三木は、どこまで知っていた」

「全部じゃない」

「でも、助けようとした」

「三木さんは、気づいちゃったの」

 藤村は目を伏せた。

「私が佐伯くんの通知を見るたびに固まることとか、トイレで泣いてることとか。隠してたつもりだったけど、三木さんには分かってた」

「相談したのか」

「したくなかった。でも、三木さんが言ったの。『言わなくていい。でも、ひとりで持ってるのはやめなよ』って」

 成瀬は三木の声を想像した。

 感情を大きく出さず、淡々としていて、けれど相手を突き放すわけではない。その姿は想像できた。三木さつきは、そういう距離の取り方をする。

「それで、三木にスマホのデータを消してほしいと頼んだ」

「頼んだというより、私が勝手に追い詰めた」

「追い詰めた?」

「三木さんは、警察か先生に相談した方がいいって言った。でも、私は嫌だって言った。大人に言ったら、学校中に広まるって。親にも知られるって。だったらもう消えるしかないって」

 藤村は両手で顔を覆った。

「最低だよね。そんなこと言ったら、三木さんが動くって分かってたのに」

 成瀬は返す言葉を探したが、見つからなかった。

 誰が悪いのか。

 佐伯が悪い。それは間違いない。だが、それだけでこの状況を説明できるほど単純ではない。藤村は追い詰められ、三木は助けようとし、成瀬は何も知らずに巻き込まれた。高嶺先生は何かを知っている。大人たちは、まだ何も知らない顔をしている。

「藤村」

 成瀬は言った。

「高嶺先生に相談したことはある?」

 藤村の肩がぴくりと動いた。

「ない」

「本当に?」

「ない」

「佐伯が何か、高嶺先生のことを言っていたことは?」

 藤村はしばらく考えるように目を伏せた。

「先生は使えないって言ってた」

「使えない?」

「生徒のことを見てるふりをして、自分の評価しか見てないって。俺が何をしても、先生は動けないって」

 成瀬は、高嶺先生の顔を思い浮かべた。

 生活指導担当。厳格で、規律にうるさい教師。制服のボタン一つ、髪の長さ一つにも注意する。生徒から好かれているとは言い難いが、職務には真面目な人だと思っていた。

 佐伯の言葉が事実かどうかは分からない。だが、佐伯がそう言ったということには意味がある。

「佐伯は、高嶺先生の弱みも握っていたのかな」

 成瀬がつぶやくと、藤村は首を横に振った。

「分からない。でも、佐伯くん、先生のことを怖がってはいなかった」

「高嶺先生に叱られても?」

「むしろ、面白がってた」

 藤村の声が低くなった。

「一度、見たことがある。廊下で高嶺先生に注意されて、佐伯くんが笑ってた。普通なら謝るところなのに、笑ってた。先生はすごく怒ってたけど、佐伯くんは全然怖がってなかった」

「何を注意されたんだ」

「分からない。近づいたら、佐伯くんがこっちを見たから逃げた」

 成瀬は黙った。

 佐伯と高嶺先生の間に何かがある。

 それは確かだった。

 藤村から聞けることは、もう限界に近いようだった。彼女は話すたびに、少しずつ削られていく。成瀬は立ち上がった。

「今日は帰った方がいい」

「学校には」

「無理に行かなくていい。でも、三木には連絡してくれ」

 藤村は首を横に振った。

「できない」

「なぜ」

「何て言えばいいの。ごめんって? 私のせいで疑われてるのに?」

「それでも、黙っているよりはいい」

 藤村は答えなかった。

 成瀬は鞄を持った。

「もう一つだけ。今朝、東階段で先生を見たこと、いつか話してほしい」

「警察に?」

「できれば」

「怖い」

「分かる」

「分かってない」

 藤村は即座に言った。

 成瀬は反論できなかった。

「分かってないよ、成瀬くんは。話したら終わるかもしれないって思いながら、それでも話せって言われる怖さなんて」

「そうだな」

 成瀬は認めた。

「分かってない。でも、このままだと三木が終わる」

 藤村の目が揺れた。

「……少し考えさせて」

「分かった」

 それ以上、成瀬は求めなかった。

 図書館を出ると、外はすっかり夕方だった。駅前の人通りは増え、商店街の看板に明かりが灯り始めている。成瀬は歩きながらスマホを取り出した。

 三木に連絡するべきか迷った。

 クラスの連絡網で、彼女のアカウントは知っている。だが、個別に連絡したことはない。いきなり送れば警戒されるだろう。けれど、藤村から聞いたことを伝えないわけにはいかなかった。

 成瀬は短く入力した。

 藤村に会った。話したい。今どこ?

 送信する前に、指が止まった。

 高嶺先生に見られていたわけではない。誰かがスマホを覗いているわけでもない。それなのに、文字にすることに抵抗があった。言葉は残る。残った言葉は、時に本人の意図とは違う意味を持つ。佐伯の未送信メッセージがそうだった。

 成瀬は文を消し、通話ボタンを押した。

 呼び出し音が数回鳴ったあと、三木が出た。

「何」

 警戒した声だった。

「藤村に会った」

 沈黙。

「今、話せるか」

「何を聞いたの」

「佐伯のこと。スマホのこと。それから、今朝の東階段のこと」

 三木の呼吸が少し変わった。

「藤村さん、何て言った」

「高嶺先生を見たって」

 今度の沈黙は長かった。

「三木」

「どこにいるの」

「駅前」

「学校に戻れる?」

「今から?」

「お願い。人に聞かれたくない」

 成瀬は腕時計を見た。午後六時前。学校に戻るには十分ほどかかる。教師はまだ残っているだろう。むしろ、校内で話す方が危険な気もした。

「学校で大丈夫なのか」

「外だと誰に見られるか分からない」

「学校なら見られない?」

「見られても、呼び出されたって言えばいい」

「誰に」

 三木は答えなかった。

「分かった。向かう」

 通話は切れた。

 成瀬はスマホを握ったまま、しばらく立っていた。

 学校へ戻る。

 朝、あれほど出たかった場所へ、夕方また向かう。馬鹿げていると思った。だが、行くしかなかった。事件の中心はまだ学校にある。佐伯の机も、東階段も、あの短い音も、高嶺先生も。

 校門に着く頃には、日はかなり傾いていた。部活動の生徒たちはいつもより少ない。事件のせいで、多くの部活が中止になったのだろう。グラウンドの端では、野球部が顧問の指示で片付けをしている。校舎の窓には、ところどころ明かりがついていた。

 成瀬は正門から入った。今度は堂々と。朝とは違う。それだけで少し滑稽だった。

 三木は昇降口の陰にいた。

 制服の上にカーディガンを羽織り、鞄を肩にかけている。帰ったのかと思ったが、ずっと残っていたらしい。

「遅い」

「急いだ」

「こっち」

 三木は短く言って歩き出した。向かったのは、旧校舎との連絡通路だった。今はほとんど使われていない理科準備室や資料室がある棟で、放課後は人が少ない。途中、職員室の前を通ったが、高嶺先生の姿はなかった。

 旧校舎の二階、資料室の前で三木は止まった。

「ここなら、たぶん大丈夫」

「鍵は」

「開いてる。古い資料を取りに来る先生が閉め忘れるから」

 学校は、やはり無防備だった。

 資料室の中は薄暗く、紙と古い木の匂いがした。壁際には段ボール箱が積まれ、棚には使われなくなった教材や行事の記録ファイルが並んでいる。窓の外には中庭が見えた。人影はない。

 三木は扉を閉めると、成瀬に向き直った。

「藤村さん、どこまで話した?」

「佐伯に脅されていたこと。君がスマホのデータを消そうとしたこと。東階段の外から高嶺先生を見たこと」

 三木は目を閉じた。

「やっぱり」

「知ってたのか」

「知ってたわけじゃない。でも、変だと思ってた」

「何が」

「高嶺先生が来るのが早すぎた」

 成瀬も同じことを考えていた。

 救急隊員とほぼ同時に高嶺先生は現れた。学校に連絡が入ってから来たにしては早い。もともと校内にいたと考える方が自然だった。

「三木は、今朝、高嶺先生を見たのか」

「見てない」

「本当に?」

「見てない。でも、足音は聞いた」

「教室に戻る前?」

 三木は頷いた。

「佐伯くんのロッカーを見たあと、廊下で足音がした。男子の足音じゃないと思った。革靴みたいな音」

「それで隠れた?」

「教室に戻った。誰かに見つかったら終わりだと思ったから」

「その足音が高嶺先生だった可能性がある」

「あると思う」

 成瀬は資料室の机に手を置いた。冷たい。

「なら、今朝の東階段には、佐伯、高嶺先生、そして外から藤村がいた。君は教室にいた。僕も途中から教室にいた」

「そう」

「でも、佐伯のスマホには君の名前が残っていた」

 三木の表情が険しくなった。

「それが分からない」

「佐伯が事前に書いた可能性は?」

「私を陥れるため?」

「君がスマホを探すことを読んでいたなら」

 三木は黙った。

「ありえる」

 その声は低かった。

「佐伯くんは、そういうことをする」

「君を疑わせるために未送信メッセージを用意した。でも、途中で何かが起きた」

「それなら、佐伯くんは私が来ることを知ってたことになる」

「藤村のメモを知っていたか、藤村に書かせたか」

「それはない」

 三木は即座に言った。

「藤村さんは、佐伯くんに言われて書いたわけじゃない」

「なぜ分かる」

「分かる」

「それじゃ説明にならない」

 三木は唇を噛んだ。

「藤村さんは、佐伯くんを本気で怖がってた。佐伯くんのために私を罠にはめるなんてできない」

「怖がっている人間は、何をするか分からない」

 成瀬が言うと、三木は睨んだ。

「成瀬くんって、時々すごく嫌なこと言うね」

「たぶん、必要なことを言ってる」

「必要なら何を言ってもいいの?」

 返す言葉がなかった。

 しばらく沈黙が落ちた。

 資料室の外で、遠くの部活の声が聞こえる。誰かが笑っている。何かが倒れる音がする。日常の音が、壁一枚向こうで続いていた。

「ごめん」

 成瀬は言った。

 三木は驚いたようにこちらを見た。

「藤村を疑いたいわけじゃない。ただ、全部の可能性を考えないと、君を助けられない」

「私を助けたいの?」

「助けたいというか」

「というか?」

 成瀬は少し迷った。

「君がやってないなら、やってないと証明したい」

 三木は目を伏せた。

「私、やってない」

「分かってる」

「分かってないよ。成瀬くんは、まだ迷ってる」

 成瀬は否定できなかった。

 三木はそれを責めるでもなく、小さく息を吐いた。

「その方がいいと思う。全部信じる人より、迷ってくれる人の方が信用できる」

 奇妙な言い方だった。だが、三木らしいとも思った。

 成瀬は鞄からノートを取り出した。今日の授業ではほとんど使っていないページを開く。

「整理しよう」

「探偵みたいなことするの?」

「そういう言い方はやめろ」

「ごめん」

 三木が少しだけ笑った。初めて見る表情だった。すぐに消えたが、その一瞬で、彼女も普通の高校生なのだと思い出した。

 成瀬はノートに時系列を書き始めた。

 三時五十分過ぎ。成瀬、学校付近に到着。

 四時前後。三木、校内に侵入。佐伯の机とロッカーを探す。

 時刻不明。成瀬、校舎に入る。短いチャイムのような音を聞く。

 時刻不明。三木、足音を聞き教室へ戻る。

 四時過ぎ。成瀬、教室で三木に会う。

 その後、鈍い音。

 東階段下で佐伯を発見。

 救急通報。

 高嶺先生が現れる。

「チャイム?」

 三木がノートを覗き込んだ。

「何これ」

「教室に向かう途中で聞いた。短い音。校内放送みたいな」

「私、聞いてない」

「本当に?」

「うん。たぶん、ロッカーを探してる時だったと思う。音なんて聞こえなかった」

「場所によって聞こえなかったのかもしれない」

「その音、関係あるの?」

「分からない」

 成瀬はノートの端に丸をつけた。

「でも、学校で午前四時に鳴る音なんて普通じゃない」

「放送設備の誤作動とか」

「誰かが操作した可能性もある」

「誰が」

 成瀬は答えなかった。

 三木もそれ以上聞かなかった。

「高嶺先生は、生活指導担当だよな」

「うん」

「朝早く来ることはある?」

「校門指導の日は早い。でも、四時は早すぎる」

「鍵は持っている」

「先生だからね」

「放送設備を使える?」

「使えると思う。全校集会とかで話してるし」

「佐伯との関係は」

 三木は少し考えた。

「悪かったと思う」

「なぜ」

「佐伯くん、何度か高嶺先生に呼び出されてた」

「何の件で」

「分からない。でも、佐伯くんは平気な顔をしてた」

 藤村と同じ証言だった。

 成瀬はノートに書き加えた。

 佐伯と高嶺先生に接点。佐伯は高嶺先生を怖がっていない。

「佐伯のスマホには、藤村以外のデータもあったと思うか」

 三木は黙った。

「あると思う」

「なぜ」

「藤村さんだけじゃない気がする」

「根拠は」

「見てたから」

 三木は棚の方へ視線を向けた。

「佐伯くんって、人の弱いところを見つけるのがうまかった。誰が親に厳しくされてるとか、誰が成績で追い詰められてるとか、誰が恋愛のことで悩んでるとか。最初は優しい顔で近づく。それで、いつの間にか逃げられなくする」

「君にも?」

 成瀬が聞くと、三木は少し笑った。

「私には無理だったみたい」

「なぜ」

「私、愛想悪いから」

「それだけ?」

 三木は答えなかった。

 成瀬は、それ以上聞かなかった。誰にでも踏み込まれたくない領域がある。事件のために必要だとしても、全部を暴いていいわけではない。

「佐伯のスマホが見つかれば、全部分かるのかな」

 三木がつぶやいた。

「警察が調べる」

「でも、ロックとかあるでしょ」

「未送信メッセージが見えた時は、ロックされてなかった」

「それも変」

「何が」

「佐伯くん、スマホを人に見られるのをすごく嫌がってた。絶対にロックしてた。通知の表示も切ってたと思う」

 成瀬は顔を上げた。

「なのに、画面が開いていた」

「うん」

「転落の衝撃で?」

「そんな都合よく?」

 三木の言う通りだった。

 佐伯が転落した時、たまたまメッセージアプリが開き、たまたま三木を疑わせる文が表示されていた。ありえないとは言わない。だが、出来すぎている。

「誰かが見せたかった」

 成瀬は言った。

「私を疑わせるために?」

「あるいは、もっと別の誰かから目を逸らすために」

 三木はノートを見つめた。

「高嶺先生」

 名前が小さく落ちた。

 二人とも黙った。

 教師を疑う。

 その行為には、独特の重さがあった。生徒同士なら噂で済む。だが、教師となると違う。学校の秩序そのものに触れる。まして高嶺先生は生活指導担当だ。生徒の規律を守らせる側の人間が、事件に関わっているかもしれない。

 成瀬はノートを閉じた。

「証拠がいる」

「藤村さんの証言は?」

「見間違いだと言われたら終わりだ。しかも、藤村は警察に話す覚悟がまだできてない」

「私が話す」

「何を」

「高嶺先生が怪しいって」

「根拠が弱い。君が言えば、自分の疑いを逸らすためだと思われる」

 三木は悔しそうに唇を噛んだ。

「じゃあ、どうすれば」

「時刻を確かめる」

「時刻?」

「佐伯が転落した時刻だ。今は、僕たちが聞いた鈍い音の直後に落ちたことになっている。でも、それが本当に転落音だったのか分からない」

 三木の目が変わった。

「違う音だったかもしれないってこと?」

「あの音が、佐伯が何かにぶつかった音だった可能性もある。実際に階段から落ちたのは、もっと後かもしれない」

「でも、私たちが行った時には倒れてた」

「そうだ。だから、そんなに大きくはずれない。でも数分ならありえる」

「数分で何が変わるの」

「君のアリバイが変わる」

 三木は息を呑んだ。

「僕が君を見た時刻が四時七分前後だとして、佐伯が四時五分に落ちたなら、君のアリバイは弱い。でも、佐伯が四時十八分以降に落ちたなら、君は教室にいた可能性が高い」

「どうやって確かめるの」

「校内の記録。放送設備。防犯カメラ。電気錠。スマホの歩数記録」

「そんなの、私たちが見られるわけない」

「普通はな」

 成瀬は少し考えた。

 防犯カメラや電気錠は無理だ。生徒が触れられるものではない。だが、放送設備なら可能性がある。成瀬は一年の時、放送委員だった。今も放送室の場所と、設備の基本的な使い方は知っている。鍵は職員室にあるはずだが、放送室自体が開いていることもある。

「放送室に行く」

 三木が目を見開いた。

「今から?」

「校内放送の記録が残っているかもしれない」

「勝手に入ったら」

「今朝も勝手に入った」

「笑えない」

「笑わせるつもりはない」

 三木は呆れたように成瀬を見た。だが、止めなかった。

「私も行く」

「目立つ」

「もう手遅れ」

 確かにそうだった。三木はすでに学校中の視線を集めている。成瀬だけで動いたところで、怪しさは大差ない。

 二人は資料室を出た。

 放送室は本校舎三階、職員室とは反対側の端にある。廊下を歩く途中、何人かの教師とすれ違った。三木は俯き、成瀬はなるべく自然に歩いた。自然に歩こうと意識すればするほど、足音が不自然に聞こえた。

 放送室の前に着くと、扉は閉まっていた。

 鍵はかかっていなかった。

「不用心だな」

 成瀬がつぶやくと、三木が小さく言った。

「この学校、だいたいそう」

 中に入ると、薄い埃の匂いがした。マイク、ミキサー、古いCDプレーヤー、校内放送用のアンプ。壁には放送委員の当番表が貼られている。成瀬の名前はもうない。

 成瀬は機器の電源を確認した。主電源は落ちている。だが、タイマー放送の管理端末は別だった。小さな液晶画面に日付と時刻が表示されている。

「分かるの?」

 三木が後ろから聞いた。

「少しだけ」

 成瀬はメニューを操作した。予約一覧。実行履歴。機器の型は古いが、基本的な機能は残っているはずだ。

 履歴を開くと、今日の日付が表示された。

 午前八時二十五分 予鈴

 午前八時三十分 本鈴

 午前十二時四十分 昼休み終了五分前

 午後一時五分 予鈴

 通常のチャイムが並んでいる。成瀬はスクロールした。

 その中に、不自然な履歴が一つあった。

 午前四時三分 試験信号

 成瀬は息を止めた。

「三木」

 画面を指差す。

 三木が覗き込んだ。

「四時三分」

「あの音だ」

「試験信号って何」

「放送設備のテスト音。普通、生徒が聞くものじゃない」

「誰が操作したか分かる?」

「そこまでは」

 成瀬はさらにメニューを探した。操作履歴。管理者ログ。だが、パスワードを求められた。これ以上は無理だった。

「写真を撮って」

 三木が言った。

 成瀬はスマホを取り出し、画面を撮影した。

 その時、廊下で足音がした。

 二人は同時に振り返った。

 放送室の扉が開いた。

 立っていたのは倉橋だった。

「何してんの」

 倉橋は、驚きと興奮が混じった顔で言った。

 成瀬は舌打ちしそうになった。

「そっちこそ何してる」

「新聞部。放送室に用があって」

「新聞部は放送室を使わないだろ」

「細かいこと言うなよ」

 倉橋の視線が三木に向いた。三木は露骨に顔を背けた。

「二人で何調べてんの。もしかして、佐伯の件?」

「関係ない」

「関係ないわけないだろ。三木がここにいる時点で」

「倉橋」

 成瀬は低い声で言った。

「面白半分なら出ていけ」

 倉橋は一瞬むっとした顔をしたが、すぐに口元を歪めた。

「面白半分じゃないって言ったら?」

「どういう意味だ」

 倉橋は廊下を確認してから、扉を閉めた。

「俺、今朝の写真持ってる」

 成瀬は眉を寄せた。

「写真?」

「朝練が中止になる前に、学校の外から校舎撮ってたんだよ。新聞部の企画で、早朝の学校ってやつ。まあ、正直ボツ企画だけど」

 三木が顔を上げた。

「何が写ってるの」

「東階段の窓」

 成瀬の背中に緊張が走った。

「見せろ」

「命令かよ」

「倉橋」

「分かったよ」

 倉橋はスマホを取り出した。何枚か写真を開き、拡大する。朝焼け前の校舎。東階段の縦長の窓。暗い画面の中に、人影のようなものが写っている。

 鮮明ではない。だが、二人いるように見えた。

 一人は背が高い。男子生徒のように見える。もう一人は、大人の背格好だった。

「これ、何時に撮った」

 成瀬は聞いた。

「四時十六分」

 倉橋は画面の詳細情報を表示した。

 撮影時刻は、確かに午前四時十六分だった。

 三木が小さく息を呑んだ。

 成瀬は写真を見つめた。

 四時十六分。

 その時刻に、佐伯らしき生徒と、大人らしき人物が東階段付近にいた。

 もしこれが本物なら、佐伯は四時十六分にはまだ階段下に倒れていなかった可能性がある。少なくとも、成瀬と三木が聞いた鈍い音が、即座に転落を意味していたとは限らない。

「この写真、送ってくれ」

 成瀬が言うと、倉橋はスマホを引っ込めた。

「その前に説明しろよ。お前ら、何を知ってる」

「今は言えない」

「またそれかよ。みんな隠し事ばっかりだな」

 倉橋は苛立ったように言った。

「佐伯が落ちて、三木が疑われて、学校中が噂してる。俺だけ蚊帳の外かよ」

「これはネタじゃない」

「分かってるよ」

「分かってない」

 成瀬の声が鋭くなった。

「誰かの人生が壊れるかもしれない話だ」

 倉橋は黙った。

 放送室の空気が重くなった。三木は二人を見ていた。

 やがて倉橋は、気まずそうに視線を逸らした。

「分かってるつもりだよ。俺だって、佐伯のこと好きだったわけじゃない」

「どういう意味だ」

「嫌なやつだったってこと」

 倉橋は吐き捨てるように言った。

「でも、あいつはうまかった。みんなの前ではいいやつだった。だから、嫌ってるこっちが悪いみたいになる」

 三木の表情が少し変わった。

「倉橋くんも、何かされたの」

「俺は別に。ただ、去年、新聞部の記事を潰された」

「記事?」

「生徒会費の使い道について調べてた。佐伯が絡んでたわけじゃないと思うけど、あいつに茶化されて、いつの間にか俺が変な陰謀論者みたいにされた。教師にも止められた」

「誰に」

 成瀬が聞いた。

 倉橋は少し迷った。

「高嶺」

 また、その名前だった。

 成瀬は三木と目を合わせた。

 倉橋は気づかず続けた。

「高嶺先生は、学校を荒らすなって言った。根拠のないことを書くなって。俺は根拠を集めようとしてたのに」

「佐伯と高嶺先生は、その件で何か話していた?」

「知らない。でも、佐伯は笑ってた」

「笑ってた?」

「ああ。俺が記事を下げた日、廊下で高嶺先生と佐伯が話してた。佐伯が笑って、高嶺先生はすごい顔してた」

 成瀬はノートを持っていないことを悔やんだ。

 藤村、三木、倉橋。

 別々の人間が、同じような断片を持っている。

 佐伯は高嶺先生を怖がっていなかった。

 高嶺先生は佐伯に対して、ただの生活指導以上の感情を抱いていた可能性がある。

 そして事件当日の午前四時十六分、東階段付近に大人の人影があった。

「写真、送ってくれ」

 成瀬はもう一度言った。

 倉橋は今度は拒まなかった。

「悪用すんなよ」

「しない」

「それと、俺も混ぜろ」

「駄目だ」

「何で」

「危ないから」

 倉橋は鼻で笑った。

「お前らだけでどうにかできると思ってんの?」

 成瀬は答えられなかった。

 確かに、自分たちだけでどうにかできることではない。だが、誰に話せばいいのかも分からない。教師に話せば高嶺先生に伝わるかもしれない。警察に話せば、三木の隠し事も藤村の被害も一気に表に出る。

 正しい手順は分かっている。

 それでも、踏み出す足が重い。

「一つだけ約束しろ」

 成瀬は言った。

「この写真を誰にも見せるな。グループチャットにも流すな。記事にもするな」

「条件は?」

「今、分かっていることは共有する」

 三木が成瀬を見た。

「いいの?」

「倉橋を完全に黙らせるのは無理だ」

「聞こえてるぞ」

「聞こえるように言った」

 倉橋は不満そうだったが、写真を送ってきた。

 成瀬のスマホに通知が来る。画像を開く。改めて見ると、画質は粗い。それでも、時刻の意味は大きかった。

 四時十六分。

 成瀬が三木を教室で見たあとだ。鈍い音を聞いたあとかもしれない。少なくとも、事件は最初に思ったより複雑だった。

 その時、放送室の外で、誰かが咳払いをした。

 三人は固まった。

 扉の向こうに、人の気配がある。

「誰かいるのか」

 声がした。

 高嶺先生だった。

 成瀬は反射的にスマホの画面を伏せた。三木は顔色を失った。倉橋でさえ、言葉を失っている。

 扉が開いた。

 高嶺先生が入ってきた。スーツの上着を着て、手には書類を持っている。いつものように姿勢がよく、表情は読み取れない。

「放送室で何をしている」

 成瀬はすぐには答えられなかった。

 高嶺先生の目が、成瀬、三木、倉橋の順に動いた。最後に、放送設備の管理端末へ向かう。

「誰が触った」

 声は静かだった。

 その静けさが、かえって恐ろしかった。

「僕です」

 成瀬は言った。

 三木がこちらを見た。

「何のために」

「今朝、変な音を聞いたので」

「変な音?」

「校内放送のような音です。午前四時ごろに」

 高嶺先生の表情は変わらなかった。

「それで勝手に機器を操作したのか」

「すみません」

「謝れば済む問題ではない」

 高嶺先生は一歩入ってきた。

「今は事件の直後だ。勝手な行動が、どれだけ混乱を生むか分からないのか」

 正論だった。

 だからこそ、成瀬は何も言えなかった。

「三木。君もだ」

 三木は肩を震わせた。

「自分がどういう立場にいるか、分かっているな」

 その言い方に、成瀬の中で何かが引っかかった。

 自分がどういう立場にいるか。

 それは教師が生徒を心配して言う言葉にも聞こえる。だが、別の意味にも聞こえた。疑われている立場だと、わざわざ思い知らせているようにも。

「倉橋。新聞部だからといって、何でも嗅ぎ回っていいわけではない」

「すみません」

 倉橋は素直に頭を下げた。珍しいことだった。

 高嶺先生は成瀬に視線を戻した。

「成瀬、君には失望した」

 その言葉は、思った以上に刺さった。

「君はもっと冷静な生徒だと思っていた。曖昧な正義感で動くことが、どれほど危険か考えなさい」

 まただ。

 曖昧な親切。曖昧な正義感。

 高嶺先生は、なぜ繰り返しその言葉を使うのか。

「先生」

 成瀬は自分でも意外なほど静かに言った。

「今朝、どこにいましたか」

 空気が止まった。

 三木が息を呑む。倉橋が目を見開く。

 高嶺先生は、成瀬を見た。

「どういう意味だ」

「佐伯が倒れる前です。先生はどこにいましたか」

「私は通報を受けてから来た」

「誰からですか」

「学校に連絡が入った」

「救急車とほぼ同時に来ました」

「近くにいたからだ」

「どこに」

 高嶺先生の目が細くなった。

「成瀬」

 低い声だった。

「君は今、自分が何を言っているか分かっているのか」

「分かっています」

「教師を疑っているのか」

 成瀬は一瞬だけ迷った。

 だが、もう引けなかった。

「確認しています」

 高嶺先生は成瀬を見つめたまま、しばらく黙っていた。

 その沈黙の中で、放送設備の管理端末が小さな電子音を鳴らした。画面が自動でスリープに入る音だった。誰も動かなかった。

「君たちは、全員職員室へ来なさい」

 高嶺先生は言った。

「今ここで話すことではない」

 それは命令だった。

 成瀬はスマホをポケットに入れた。写真は残っている。放送履歴の画像も残っている。だが、それらが何を意味するのか、まだ十分ではない。

 放送室を出る時、成瀬は一度だけ振り返った。

 管理端末の画面は暗くなっていた。

 午前四時三分の試験信号。

 それは、誰かがそこにいた証拠だった。

 そして午前四時十六分の写真。

 それは、佐伯が倒れた時刻を揺るがす可能性を持っていた。

 廊下を歩きながら、成瀬はポケットの中の紙片に触れた。汗で柔らかくなった紙は、もうただの呼び出しメモではない。藤村の助けを求める声であり、三木を事件に引きずり込んだ入口でもある。

 成瀬は思った。

 三木さつきは嘘をついた。

 藤村莉子も嘘をついた。

 佐伯涼は、嘘を仕掛けた。

 そして高嶺先生も、何かを隠している。

 誰かを守るための嘘と、誰かを傷つけるための嘘。

 その二つは、見た目だけでは区別がつかない。

 職員室へ向かう廊下の窓に、三人の姿が映っていた。成瀬、三木、倉橋。その後ろを、高嶺先生が歩いている。

 窓の中の高嶺先生は、まるで三人を見張っているようだった。

 その時、成瀬のスマホが震えた。

 ポケットの中で、短く一度。

 高嶺先生に気づかれないよう、成瀬は歩きながら画面を見た。

 藤村からだった。

 短いメッセージ。

 警察に話す。

 でも、その前に聞いて。

 佐伯くん、今朝、先生を呼び出すって言ってた。

 成瀬は足を止めそうになった。

 前を歩く高嶺先生が、ゆっくりと振り返った。

「どうした」

 成瀬はスマホを握りしめた。

「何でもありません」

 そう答えた自分の声は、ひどく乾いていた。


四時十八分の空白

 職員室へ向かう廊下は、放課後の光に沈んでいた。

 西側の窓から差し込む夕日が、床に長い帯を作っている。昼間は白っぽく見える廊下も、この時間になると別の場所のようだった。壁に貼られた進路実績の掲示物も、文化祭の写真も、夕日の中では古い記憶の一部に見える。

 成瀬悠真は、スマホを握りしめたまま歩いていた。

 藤村莉子から届いた短いメッセージが、頭の中で何度も繰り返されている。

 警察に話す。

 でも、その前に聞いて。

 佐伯くん、今朝、先生を呼び出すって言ってた。

 先生。

 その一語が、やけに重かった。

 藤村が見た東階段の人影。倉橋が撮った四時十六分の写真。放送室に残っていた午前四時三分の試験信号。階段の踊り場にあった白い粉。そして、救急車とほぼ同時に現れた高嶺先生。

 すべてが高嶺先生へ向かっているように見える。

 だが、それは危険な考えでもあった。

 人は、一度疑い始めると、すべての事実をその疑いに合わせて並べ替えてしまう。都合のいい断片だけを拾い、都合の悪いものを見落とす。成瀬は、それが怖かった。三木さつきを犯人だと決めつけている生徒たちと、自分は本当に違うのか。

 廊下の先を、高嶺先生が歩いている。

 背筋の伸びた後ろ姿。歩幅は一定で、迷いがない。怒っているようにも、焦っているようにも見えない。それがかえって不自然だった。

 倉橋光太は、成瀬の横で落ち着きなく眼鏡を直していた。三木さつきは少し後ろを歩いている。顔色は悪い。だが、視線は足元ではなく、高嶺先生の背中に向けられていた。

 職員室に入る直前、高嶺先生は立ち止まった。

「ここで待ちなさい」

 そう言って、扉だけを開けて中へ入った。

 成瀬たちは廊下に残された。

 職員室の中から、教師たちの話し声が漏れてくる。電話の音、書類をめくる音、誰かが椅子を引く音。事件が起きても、教師たちには仕事がある。出欠確認、保護者連絡、明日の授業準備、部活動の調整。学校という場所は、人が一人倒れても、次の日の時間割を組み続ける。

 倉橋が小声で言った。

「なあ、今の藤村から?」

 成瀬は答えなかった。

「画面見えてた。佐伯が先生を呼び出すって何だよ」

 三木が顔を上げた。

「藤村さんから?」

 成瀬は観念して頷いた。

「佐伯が今朝、先生を呼び出すと言っていたらしい」

「先生って」

 倉橋が言った。

「高嶺だよな」

「まだ分からない」

「いや、分かるだろ。ここまで来たら」

「分かった気になるのが一番危ない」

 成瀬の声は、自分でも硬いと思った。

 倉橋は不満そうに口を閉じた。

 三木はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。

「佐伯くんが先生を呼び出したなら、私たちが思っていたのと逆だね」

「逆?」

「私たちは、高嶺先生が佐伯くんを呼び出したのかと思ってた。でも、佐伯くんが高嶺先生を呼んだなら、佐伯くんには何か目的があった」

 成瀬は頷いた。

 そうだ。そこが重要だった。

 佐伯が高嶺先生を呼び出した。なら、佐伯は高嶺先生と話す必要があった。しかも午前四時という異常な時間に。生徒が教師をそんな時間に呼び出すには、相応の材料がいる。

 脅迫。

 その言葉が自然に浮かんだ。

 佐伯は藤村を脅していた。ほかの生徒にも同じことをしていた可能性がある。なら、高嶺先生に対しても何かを握っていたのではないか。

 ただし、それだけでは説明できない。

 佐伯が高嶺先生を脅すために呼び出したとして、なぜ三木を疑わせる未送信メッセージを用意していたのか。なぜ藤村に関わるメモが教室に落ちていたのか。なぜ三木がその場に来ることまで読めたのか。

 複数の罠が、同じ朝に重なっている。

 成瀬は、そこに作為を感じた。

 職員室の扉が開いた。

 出てきたのは高嶺先生ではなく、担任の坂上だった。坂上は三人を見ると、困ったように眉を寄せた。

「何をしたんだ、お前たちは」

「放送室にいました」

 成瀬が答えると、坂上は額を押さえた。

「この状況で、勝手に動くな。警察も来てるんだぞ」

「すみません」

「謝るなら、最初からやるな」

 坂上の声には怒りより疲れがにじんでいた。

「中に入れ」

 三人は職員室に入った。

 高嶺先生は窓際の机の前に立っていた。隣には年配の男性警察官がいる。午前中にも事情を聞いてきた人物だった。名前は確か、村瀬と言った。私服ではなく制服姿で、物腰は穏やかだが、目だけはよく動く。

「放送室で何をしていたのか、説明してもらえますか」

 村瀬が言った。

 高嶺先生ではなく警察官が聞いたことで、成瀬は少しだけ安心した。ここで高嶺先生にすべてを握られるよりはいい。

「今朝、校内放送のような音を聞きました」

 成瀬は言った。

「それが気になって、放送設備の履歴を確認しました」

「勝手に?」

「はい。すみません」

 村瀬は手帳に何かを書いた。

「どんな音でしたか」

「短いチャイムのような音です。普通の授業のチャイムとは違いました。途中で切れたような、一瞬だけの音でした」

「何時ごろ」

「正確には分かりません。でも、教室へ行く前です。午前四時過ぎだと思います」

「履歴には何が残っていましたか」

 成瀬はスマホを取り出した。

 一瞬、高嶺先生の視線がそこへ向いた。

 成瀬は画面を開き、写真を見せた。

「午前四時三分に、試験信号という履歴がありました」

 村瀬はスマホを受け取り、拡大した。

「これは君が撮ったもの?」

「はい」

「放送設備の操作は、誰でもできるものですか」

「詳しくは分かりません。ただ、放送室の鍵は開いていました。管理端末の履歴を見るだけなら、パスワードは不要でした」

 村瀬は高嶺先生に目を向けた。

「先生、この試験信号というのは?」

 高嶺先生は落ち着いて答えた。

「放送設備の点検時に使うものです。通常、生徒が操作することはありません」

「教師なら?」

「放送機器の扱いを知っている者なら可能です」

「今朝、点検の予定は?」

「ありません」

「では、誰かが操作した可能性がある」

「その可能性はあります。ただし、誤作動の可能性も否定できません」

 高嶺先生の声に乱れはなかった。

 成瀬はその横顔を見た。何も知らない教師の顔にも見える。すべてを知った上で平然としている顔にも見える。

 村瀬はスマホを成瀬に返した。

「放送履歴についてはこちらでも確認します。それから、倉橋くん」

 倉橋がびくりとした。

「君は写真を持っているそうですね」

 倉橋が成瀬を見る。成瀬は小さく頷いた。ここで隠す意味はない。むしろ、警察に渡した方がいい。

「あります」

 倉橋はスマホを出した。

「今朝、学校の外から撮りました」

「何時に?」

「四時十六分です。画像の詳細情報にも残ってます」

 村瀬が写真を確認する。成瀬はその様子を見守った。村瀬の表情はほとんど変わらない。だが、写真を見たあと、一瞬だけ目が細くなった。

「この人影は、東階段ですか」

「はい。たぶん」

「たぶん?」

「外から撮ったので、正確な場所までは。でも角度的には東階段の窓です」

 村瀬は高嶺先生に写真を見せた。

「先生、これはどのあたりでしょう」

 高嶺先生は画面を覗き込んだ。

「東階段の踊り場付近に見えます」

「人が二人いるように見えますね」

「画像が不鮮明です。断定はできないでしょう」

「時刻は四時十六分」

 村瀬が言った。

「佐伯くんが倒れているのを発見されたのは何時ごろでしたか」

 成瀬はすぐには答えられなかった。

 救急通報をした時刻なら、スマホに記録が残っている。成瀬は通話履歴を開いた。

「四時二十一分です。救急へ電話しています」

 村瀬が頷く。

「つまり、四時十六分に東階段付近に人影があり、四時二十一分に救急通報が行われた」

 その言葉で、職員室の空気が変わった。

 教師たちの何人かがこちらを見る。坂上の表情も硬くなった。高嶺先生だけが、ほとんど変わらない顔で立っている。

 成瀬は、事件の時刻が初めて形を持ち始めたのを感じた。

 四時三分、試験信号。

 四時十六分、東階段の人影。

 四時二十一分、救急通報。

 では、鈍い音を聞いたのはいつか。

 成瀬は記憶をたどった。教室に入る。三木と話す。紙片を拾う。三木とやり取りをする。鈍い音。東階段へ走る。佐伯発見。救急通報。

 その流れに、五分以上の余裕はあっただろうか。

 あったかもしれない。

 なかったかもしれない。

 記憶は、時間を正確には測らない。

「成瀬くん」

 村瀬が言った。

「鈍い音を聞いてから通報するまで、どれくらいだったと思いますか」

「分かりません。すぐに階段へ行って、佐伯を見つけて、呼吸を確認して、救急に電話しました」

「一分?」

「それよりは長かったと思います」

「五分?」

「そこまでは」

 答えながら、成瀬は自信を失っていった。

 人は、緊急時の数分を長く感じることも短く感じることもある。あの時の自分に、正確な時間感覚などなかった。

「三木さんは?」

 村瀬が三木を見る。

 三木は少し戸惑ったあと、答えた。

「分かりません。音がして、すぐに走りました。でも、佐伯くんを見つけたあと、成瀬くんが電話するまでの時間は、長く感じました」

「実際には?」

「分かりません」

 村瀬は頷いた。

「分からないなら、分からないで構いません。分かったふりをされる方が困ります」

 その言い方に、成瀬は少し救われた。

 高嶺先生が静かに口を開いた。

「村瀬さん、これは事故の時刻を確認しているということですか」

「現時点では、事実関係の整理です」

「生徒たちの曖昧な記憶をもとに、話を広げるのは危険ではありませんか」

「もちろんです。ですから記録を確認します」

 村瀬の声は穏やかだったが、引く気はなかった。

「放送設備の履歴、防犯カメラ、通話記録、救急隊の到着時刻。確認できるものは確認します」

 高嶺先生はそれ以上言わなかった。

 成瀬は、その沈黙が気になった。反論するならできたはずだ。写真は不鮮明、放送履歴は誤作動、成瀬たちは勝手に動いている。いくらでも切り捨てる材料はある。だが、高嶺先生は必要以上には否定しない。

 否定しすぎると怪しまれることを知っているように見えた。

「今日はもう帰りなさい」

 村瀬が言った。

「ただし、何か思い出したら、必ず連絡してください。勝手に調べようとしないこと。分かりましたね」

 三人は頷いた。

 高嶺先生が付け加えた。

「特に成瀬。君は冷静でいるように」

「はい」

「三木も。今は不用意な行動を慎みなさい」

「はい」

「倉橋。写真を誰かに送ったり、記事にしたりしないように」

「はい」

 倉橋が珍しく素直に返事をした。

 職員室を出ると、三人はしばらく無言で廊下を歩いた。

 外は夕暮れを通り越し、青みがかった暗さになっていた。廊下の窓に、校庭の隅の照明が映っている。

「なあ」

 昇降口へ向かう途中で、倉橋が口を開いた。

「これ、結構やばくないか」

「やばいって何が」

「佐伯が落ちた時間、ずれるかもしれないってことだろ」

「まだ分からない」

「でも、四時十六分に東階段に人影があった。お前が救急に電話したのは四時二十一分。なら、その間に何かあったってことじゃん」

 倉橋は興奮気味だった。だが、その興奮は先ほどまでの野次馬根性とは少し違っていた。自分の撮った写真が事件の核心に触れるかもしれない。その恐れと高揚が混ざっている。

「四時十六分の人影が佐伯だと決まったわけじゃない」

 成瀬は言った。

「じゃあ誰だよ」

「分からない」

「分からないばっかりだな」

「分かったふりをするよりましだ」

 倉橋は黙った。

 三木は二人の少し後ろを歩いていた。成瀬は振り返った。

「三木」

「何」

「四時十六分に佐伯が東階段にいたなら、君の疑いはかなり薄くなる」

「どうして」

「君はその時、僕と一緒に教室か、その近くにいたはずだから」

「はず、でしょ」

 三木は静かに言った。

 成瀬は言葉に詰まった。

「成瀬くんが私を見た時刻は、まだ分かってない。四時十六分に私がどこにいたかも、証明できない」

「でも」

「希望だけで安心すると、あとで折れるよ」

 三木の声は冷静だった。

 成瀬は彼女を見た。三木は、自分が助かるかもしれない状況でも、簡単には期待しない。期待することに慣れていない人間のようだった。

「それに」

 三木は続けた。

「高嶺先生が疑われたとしても、藤村さんのことは消えない」

 その通りだった。

 事件の時刻がずれても、三木が佐伯のスマホを探した事実は消えない。藤村が佐伯に脅されていた事実も、佐伯が誰かを傷つけていた事実も消えない。

 真相に近づくほど、救われないものが増えていく。

 昇降口に着いた時、成瀬のスマホが震えた。

 藤村からだった。

 今、警察の人に連絡した。

 明日、話を聞いてもらうことになった。

 成瀬はそれを三木に見せた。

 三木は画面を見つめ、唇を結んだ。

「よかった」

 そう言った声は、少しもよかったようには聞こえなかった。

「これで少しは」

「違う」

 三木は首を振った。

「藤村さんは、これから一番怖いところに行くんだよ」

 成瀬は何も言えなかった。

 証言すること。

 それは、ただ事実を話すことではない。自分が隠してきたものを、人前に差し出すことだ。傷を見せることだ。時には、もう一度傷つくことでもある。

 成瀬は、自分が軽々しく「話した方がいい」と言ったことを思い出し、胸が痛んだ。

「成瀬」

 倉橋が言った。

「俺、帰るわ。何かあったら連絡する」

「ああ」

「写真のこと、マジで内緒な」

「分かってる」

 倉橋は三木に少し気まずそうに目を向けた。

「その、悪かったな。昼間、変なこと言って」

 三木は一瞬だけ倉橋を見た。

「別に」

「別にって、怒ってるやつの別にだろ」

「怒ってる」

「だよな。ごめん」

 倉橋は頭を下げ、逃げるように校門へ向かった。

 残された成瀬と三木は、昇降口の前でしばらく立っていた。

 校庭の向こうに、東階段の窓が見える。夕闇の中で、その窓だけが妙に黒く沈んでいた。今朝、あそこに佐伯がいた。高嶺先生らしき人物もいた。そして数分後、佐伯は階段下に倒れていた。

「成瀬くん」

 三木が言った。

「今朝、私が教室にいたこと、証明できるかな」

「する」

「できるかどうかを聞いてる」

「するしかない」

 三木は小さく笑った。

「そういう言い方、ずるいね」

「自覚はある」

「でも、嫌いじゃない」

 意外な言葉だった。

 成瀬が返事に困っていると、三木はすぐに視線を逸らした。

「ごめん。変な意味じゃない」

「分かってる」

「分かってるって言うのも変」

「じゃあ、分かってない」

「それも嫌」

 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。

 だが、その緩みは長く続かなかった。

 校舎の中から、誰かがこちらへ歩いてくる音がした。

 高嶺先生だった。

 職員室から来たのではなく、東側の廊下から現れた。手には黒い鞄を持っている。帰るところらしい。

 三木の身体が強張った。

 高嶺先生は二人を見ると、足を止めた。

「まだいたのか」

「今帰るところです」

 成瀬が答えた。

「寄り道せず帰りなさい。今日は疲れているだろう」

「はい」

「三木」

 名前を呼ばれ、三木は顔を上げた。

「明日も学校に来るか」

 三木は少し迷った。

「来ます」

「無理をする必要はない」

「大丈夫です」

「そうか」

 高嶺先生は、それだけ言って歩き出そうとした。

 成瀬は、その背中に声をかけた。

「先生」

 高嶺先生が振り返る。

「佐伯は、先生を呼び出したんですか」

 三木が隣で息を止めた。

 高嶺先生は、成瀬を見た。

「誰から聞いた」

「答えてください」

「質問に質問で返すのは感心しないな」

「先生も、答えていません」

 空気が張り詰めた。

 高嶺先生の目が、いつもより冷たく見えた。

「佐伯とは、今朝会っていない」

 静かな声だった。

「本当に?」

「成瀬。君は少し、越えてはいけない線を越え始めている」

「線を引いたのは誰ですか」

 言ってから、成瀬は自分でも驚いた。

 高嶺先生の表情がわずかに動いた。

「どういう意味だ」

「先生は、朝から僕たちに隠し事をするなと言いました。でも、先生自身はどこにいたかをはっきり言っていません」

「私は説明した」

「近くにいた、としか」

「それで十分だ」

「十分かどうかは、先生が決めることじゃない」

 三木が小さく「成瀬くん」と言った。

 止めようとする声だった。

 だが、もう止まれなかった。

「午前四時三分に、放送設備の試験信号が鳴っています。四時十六分には東階段に大人の人影が写っています。藤村は、階段に先生らしき人を見たと言っています。佐伯は今朝、先生を呼び出すと言っていたそうです」

 高嶺先生は無言だった。

 成瀬は続けた。

「それでも、先生は佐伯に会っていないと言うんですか」

 長い沈黙があった。

 校庭から、野球部の片付ける音が聞こえる。金属バットがケースに当たる音。誰かの笑い声。それらが妙に遠かった。

 高嶺先生は、やがて口を開いた。

「君は何も分かっていない」

「分かりたいんです」

「分からない方がいいこともある」

「それは、誰にとってですか」

 高嶺先生の目が細くなった。

「君たちにとってだ」

「僕たちを守るためですか」

「そうだ」

「それとも、先生自身を守るためですか」

 三木が息を呑んだ。

 高嶺先生は、初めてはっきりと表情を変えた。

 怒りだった。

 だが、それは一瞬で消えた。次に浮かんだのは、疲労に近いものだった。成瀬はその表情を見て、胸の奥に小さな違和感を覚えた。

 犯人が追い詰められた顔とは少し違う。

 もっと古い傷を、無理やり押されたような顔だった。

「成瀬」

 高嶺先生の声は低かった。

「佐伯涼という生徒を、君はどれだけ知っている」

「ほとんど知りません」

「三木。君は」

 三木は答えなかった。

「人はな、自分が見たい顔だけを見る。明るい生徒、優秀な生徒、問題のない生徒。教師も同じだ。見たいものだけを見る。その方が楽だからだ」

「先生は、佐伯の裏の顔を知っていたんですか」

 成瀬が聞いた。

 高嶺先生は答えなかった。

 だが、その沈黙は答えに近かった。

「知っていて、何もしなかったんですか」

 三木の声だった。

 小さいが、鋭い声だった。

 高嶺先生は三木を見た。

「何もしなかったわけではない」

「じゃあ、何をしたんですか」

「君に話すことではない」

「藤村さんが苦しんでた」

 三木の声が震えた。

「佐伯くんに脅されて、ずっと怖がってた。先生は知ってたんですか」

「三木」

「知ってたなら、どうして止めなかったんですか」

 高嶺先生は、すぐには答えなかった。

 その沈黙が、三木をさらに傷つけたようだった。

「大人って、いつもそうですよね」

 三木は言った。

「何か起きる前は、証拠がないって言う。何か起きた後は、どうして相談しなかったって言う」

 高嶺先生の顔がわずかに歪んだ。

「それは違う」

「何が違うんですか」

「君たちが思っているほど、物事は単純ではない」

「単純じゃないから、佐伯くんは落ちたんですか」

 成瀬は三木を止めようとしたが、遅かった。

 高嶺先生の目が、冷たく光った。

「その言葉の意味を考えてから口にしなさい」

 三木はひるまなかった。

「考えてます」

 高嶺先生は、しばらく三木を見ていた。

 やがて、視線を成瀬へ移した。

「明日、警察が正式にいくつか確認するだろう。君たちは、聞かれたことにだけ答えなさい。余計な推測を広めるな」

「推測ではありません」

「では証拠か」

 成瀬は黙った。

 高嶺先生は静かに言った。

「写真も、履歴も、証言も、見方を誤れば人を殺す。君たちは今、それを扱うには幼すぎる」

「幼いから黙っていろと?」

「そう言っている」

 はっきりとした言葉だった。

 成瀬の中で、怒りに似たものが生まれた。だが同時に、その言葉の一部が正しいことも分かっていた。自分たちは高校生だ。警察ではない。事件を捜査する権限も、誰かを裁く資格もない。

 それでも、黙っていれば三木は疑われ続ける。藤村は怯え続ける。佐伯のスマホに残された言葉だけが、一人歩きし続ける。

「黙っていたら、誰かが守られるんですか」

 成瀬は聞いた。

 高嶺先生は答えなかった。

「先生は、今朝、東階段にいましたか」

 成瀬はもう一度聞いた。

 高嶺先生は、しばらく成瀬を見つめていた。

 そして言った。

「いたとしても、君たちには関係ない」

 その瞬間、三木が小さく息を呑んだ。

 成瀬も言葉を失った。

 認めたわけではない。だが、否定もしなかった。

 高嶺先生は踵を返した。

「今日は帰りなさい」

 今度の声には、疲れが滲んでいた。

 高嶺先生はそのまま昇降口を出ていった。校門へ向かう背中は、夕闇の中で少し小さく見えた。

 三木はその場に立ち尽くしていた。

「今の」

「聞いた」

「いたとしても、って言った」

「ああ」

「どういうこと」

「分からない」

 また、分からない。

 だが、分からないものの輪郭は少しずつ見えている。

 成瀬はスマホを取り出し、藤村に返信した。

 明日、警察に話す前に、佐伯が先生を呼び出すと言った理由を教えてほしい。

 送信する。

 すぐに既読はつかなかった。

 三木がぽつりと言った。

「怖いね」

「何が」

「真実に近づいてるのか、誰かの嘘に誘導されてるのか、分からない」

 成瀬は頷いた。

「でも、止まれない」

「うん」

 三木は校庭の方を見た。

 東階段の窓は、もうほとんど闇に溶けていた。

「午前四時十八分」

 三木がつぶやいた。

「何?」

「もし、佐伯くんが落ちたのがそのくらいの時間なら、私は助かるのかな」

「助かる可能性はある」

「可能性」

「今はそれしか言えない」

 三木は小さく頷いた。

「それでいい」

 成瀬は、東階段の窓を見つめた。

 事件の本当の時刻は、まだ分からない。だが、四時十八分前後に何かが起きた。佐伯はそこにいた。高嶺先生もいた可能性がある。放送設備は四時三分に動き、佐伯のスマホは誰かに見せるように開かれていた。

 すべてが偶然であるはずがない。

 けれど、必然だと決めるには、まだ足りない。

 成瀬のスマホが震えた。

 藤村からの返信だった。

 佐伯くんは、先生に見せるものがあるって言ってた。

 それを見せれば、先生はもう私たちに偉そうなことを言えないって。

 成瀬は画面を見つめた。

 私たち。

 佐伯がそう言ったということは、藤村以外にも被害者がいた。あるいは、高嶺先生の指導の対象となった生徒たち全体を指しているのか。

 続けて、もう一通届いた。

 でも、佐伯くんは笑ってた。

 先生を助けるためじゃない。

 先生を壊すためだと思う。

 成瀬は、喉の奥が乾くのを感じた。

 佐伯は何を持っていたのか。

 高嶺先生は、何を守ろうとしているのか。

 三木が画面を覗き込み、顔を強張らせた。

「佐伯くん、本当に何をしたの」

 成瀬は答えられなかった。

 答えの代わりに、朝の光景が浮かんだ。

 階段下に倒れた佐伯。

 手元のスマホ。

 未送信のメッセージ。

 句読点のない文。

 三木の名前。

 途中で途切れた告発。

 あれは、佐伯の最後の言葉だったのか。

 それとも、誰かが用意した舞台装置だったのか。

 成瀬はようやく気づき始めていた。

 この事件で最初に疑うべきだったのは、誰が佐伯を落としたかではない。

 誰が、佐伯のスマホをあの状態で残したのか。

 そこに、三木を犯人にするための嘘と、別の誰かを隠すための嘘が重なっている。

 成瀬はスマホをしまった。

「明日、藤村が話す」

「うん」

「警察も放送履歴と写真を確認する」

「うん」

「それで、たぶん高嶺先生にも正式に話が行く」

 三木は小さく息を吐いた。

「怖い」

「僕も」

「成瀬くんも怖いんだ」

「当たり前だろ」

 三木は少しだけ笑った。だが、その笑みはすぐ消えた。

「でも、少し安心した」

「何で」

「怖くない人より、怖がってる人の方が信用できるから」

 その言葉は、昼間の彼女の言葉と似ていた。

 迷ってくれる人の方が信用できる。

 三木さつきは、まっすぐ信じられることを望んでいない。疑われることに慣れているのかもしれない。あるいは、疑いもせず信じる人間の危うさを知っているのかもしれない。

 成瀬は校門の方へ歩き出した。

 三木も並んで歩いた。

 学校を出る時、振り返ると、東階段の窓に一瞬だけ光が見えた気がした。

 誰かがいる。

 そう思って目を凝らしたが、そこには何もなかった。窓が外灯を反射しただけかもしれない。

 だが成瀬には、それが午前四時の残像に見えた。

 誰も知らない時間。

 誰も見ていないはずの場所。

 そこで交わされた会話が、ひとりの生徒を階段下に落とし、ひとりの少女を容疑者にした。

 そして今、その空白は少しずつ埋まり始めている。

 だが、空白が埋まるほど、そこに隠されていたものの形は醜くなっていく。

 成瀬は思った。

 真実は、人を救うためにあるのだろうか。

 それとも、もう壊れてしまったものに、名前をつけるためだけにあるのだろうか。

 答えはまだ出なかった。

 ただ、午前四時十八分。

 その数分間に、すべてを変える何かが起きたことだけは、もう疑えなかった。


先生の証言

 翌朝、学校はいつもより静かだった。

 登校してくる生徒の数は普段と変わらない。正門の前には自転車が並び、昇降口では上履きに履き替える音が重なり、廊下には朝の眠たげな声が漂っている。それでも、何かが違っていた。

 誰も大きな声で笑わない。

 誰も佐伯涼の席を正面から見ようとしない。

 そして、誰も三木さつきに近づかない。

 成瀬悠真が教室に入ると、三木はすでに席についていた。机の上には古文の教科書が開かれている。読んでいるわけではない。視線は文字の上に置かれているだけだった。

 佐伯の席は空いたままだ。

 昨日と同じように教科書とノートが残されている。誰かが片づけることもできず、かといってそのままにしておくには重すぎるものとして、机は教室の中に存在していた。

 成瀬が自分の席に座ると、三木がこちらを見た。

 声は出さない。ただ、目で問いかけてきた。

 藤村から連絡はあったか。

 成瀬は小さく首を横に振った。

 昨夜、藤村莉子からのメッセージはあれきり届かなかった。警察に話すと決めた、と彼女は言った。だが、そのあとで何があったのかは分からない。学校に来る途中も、成瀬は何度もスマホを確認した。既読はつかない。

 不安は、何も起きていない時ほど膨らむ。

 ホームルームが始まる直前、担任の坂上が教室に入ってきた。その顔を見た瞬間、教室の空気がわずかに変わった。坂上はいつもより硬い表情をしていた。出席簿を教卓に置き、一度だけ佐伯の席を見た。

「今日は一部、警察の方が学校に来ます」

 坂上は言った。

 教室が静まり返る。

「昨日の件について、何人かに話を聞くそうです。呼ばれた人は、落ち着いて、知っていることだけを話してください。分からないことは、分からないと言って構いません」

 知っていることだけを話す。

 その言葉が、成瀬の胸に沈んだ。

 自分は本当に知っていることだけを話せるだろうか。見たこと、聞いたこと、感じたこと。それらは別のものだ。だが、事件の中では混ざりやすい。事実と推測の境界は、思っているよりも薄い。

「それから」

 坂上は少し声を強めた。

「佐伯のこと、三木のこと、根拠のない話を外へ流さないように。グループチャットやSNSに書くことも同じです。これは興味本位で触れていい話ではありません」

 数人が気まずそうに目を逸らした。

 坂上の注意は正しい。だが、遅かった。噂はすでに広がっている。佐伯の未送信メッセージの存在も、三木が疑われていることも、成瀬が現場にいたことも。止めるには、昨日の朝に戻るしかない。

 ホームルームが終わると、三木が席を立った。

 成瀬も立とうとしたが、彼女は首を横に振った。来なくていい、という合図だった。

 教室の扉の近くには、村瀬という警察官が立っていた。昨日と同じ穏やかな顔をしている。三木はその前で一度足を止め、深くはないが、きちんと頭を下げた。村瀬も頷き、彼女を廊下の向こうへ案内した。

 その背中を、教室中が見ていた。

 成瀬は自分の席に戻った。授業は始まったが、教師の声は耳を通り抜けていく。ノートを開いても、文字が浮かばない。頭の中では、昨日の出来事が何度も並び替えられていた。

 午前四時三分、放送設備の試験信号。

 午前四時十六分、倉橋が撮った東階段の写真。

 午前四時二十一分、成瀬の救急通報。

 その間に何が起きたのか。

 佐伯は高嶺先生を呼び出した。藤村はそう言った。佐伯は「先生に見せるものがある」と言っていた。高嶺先生を壊すためだと、藤村は感じた。

 では、その「見せるもの」とは何か。

 成瀬は、佐伯のスマホを思い出す。

 あのスマホには、藤村を脅すデータがあった。おそらく他の生徒のものも。もしそこに高嶺先生に関する何かが入っていたなら、佐伯が教師を呼び出した理由になる。

 だが、もう一つの可能性もある。

 佐伯は、高嶺先生本人の弱みではなく、高嶺先生が見て見ぬふりをしてきた証拠を握っていたのではないか。

 先生は何もできなかった。

 先生は生徒を守れなかった。

 それを突きつけるだけでも、佐伯にとっては十分だったのかもしれない。

 二時間目の途中で、成瀬も呼ばれた。

 廊下に出ると、村瀬が待っていた。

「すみませんね。授業中に」

「いえ」

「少し確認したいことがあります」

 案内されたのは、昨日と同じ面談室ではなく、応接室だった。校長室の隣にある、来客用の部屋だ。ソファと低いテーブルがあり、壁には学校創立時の古い写真が飾られている。

 中には、村瀬のほかに若い警察官が一人いた。机の上には書類と、透明な袋に入ったいくつかの物品が置かれている。

 その中に、佐伯のスマホがあった。

 黒いケース。画面のひび。見覚えがある。

 成瀬は思わず視線を止めた。

「気になりますか」

 村瀬が言った。

「はい」

「君が最初に画面を見たんでしたね」

「はい」

「その時の表示を、もう一度説明してもらえますか」

 成瀬は記憶をたどった。

「メッセージアプリが開いていました。入力途中の文章が残っていました」

「内容は」

「三木に呼び出された。あいつ俺を、というところまでです」

「句読点は?」

 成瀬は顔を上げた。

 村瀬は静かに見ている。

「ありませんでした」

「覚えていますか」

「はい。少し変だと思ったので」

「なぜ変だと?」

「佐伯は、普段のメッセージでは句読点を使っていたと思います」

「君は佐伯くんとよくメッセージを?」

「いえ。クラスのグループチャットだけです。でも、そこでの文面は見ています」

 村瀬は若い警察官に目配せした。若い警察官が書類を一枚差し出す。そこには、佐伯の過去のメッセージらしき文面が印刷されていた。個人名や一部の内容は黒塗りされている。

 佐伯の文は、確かに句読点が多かった。

 成瀬は紙を見つめた。

「未送信の文だけ、違うんですね」

「そうです」

 村瀬は言った。

「ただし、これだけで誰かが書いたとは断定できません。慌てていた、怪我をしていた、片手で打った。いくらでも説明はできます」

「はい」

「でも、気になる点は他にもあります」

 村瀬は透明な袋に入ったスマホを見た。

「このスマホは、発見時にロックが解除された状態でした。佐伯くんは普段、顔認証とパスコードを使っていたようです」

「転落の前に、自分で開いていたんじゃないですか」

「その可能性はあります」

「でも」

 成瀬は言葉を切った。

 村瀬が先を促すように頷く。

「三木を疑わせる文面が、ちょうど見える状態で残っていた」

「そうです」

 村瀬の声は淡々としていた。

「偶然にしては、少し整いすぎている」

 成瀬の胸が鳴った。

 自分の感じていた違和感を、大人の口から聞いたことで、初めてそれが現実のものになった気がした。

「もう一つ」

 村瀬は別の袋を指した。

 中には、白い粉が付着した透明なテープのようなものが入っている。おそらく現場から採取したものだ。

「階段の踊り場付近に、白い粉が落ちていました。君も見ていますね」

「はい」

「チョークの粉ではありませんでした」

「何だったんですか」

「グラウンドなどで使うライン用の石灰に近い成分です」

 成瀬は息を止めた。

 石灰。

 高嶺先生は生活指導担当だ。朝の校門指導やグラウンド確認に出ることもある。そういう時に石灰を扱う可能性はある。もちろん、体育教師や部活動の顧問も扱う。高嶺先生だけに結びつけるのは早い。

 だが、また一つ、点が増えた。

「事件当日の朝、石灰を使う予定はあったんですか」

 成瀬が聞くと、村瀬は少しだけ目を細めた。

「本来はありません。ただ、体育祭の準備で倉庫に石灰袋が置かれていたことは確認しています」

「誰でも持ち出せた?」

「倉庫の鍵を持っている教師なら」

 教師なら。

 成瀬は口の中が乾くのを感じた。

「高嶺先生は、何か話しましたか」

 思わず聞いてしまった。

 村瀬はしばらく成瀬を見た。

「それは君に話せません」

「すみません」

「ただ、君に確認したいことがあります」

「何ですか」

「高嶺先生と佐伯くんの関係について、何か知っていますか」

 成瀬は正直に首を横に振った。

「詳しくは知りません。ただ、佐伯は高嶺先生を怖がっていなかったと思います。藤村も、倉橋も、似たようなことを言っていました」

「三木さんは?」

「佐伯が何度か高嶺先生に呼び出されていたと言っていました」

「理由は?」

「分かりません」

 村瀬は頷いた。

「分かりました」

 事情聴取はその後も続いた。成瀬が学校に入った経路、教室で三木と交わした会話、紙片を拾ったこと。成瀬はついに紙片を提出した。藤村が書いたものだと聞いたことも話した。

 村瀬は責めなかった。

 ただ、透明な袋に紙片を入れながら言った。

「こういうものは、早く出してくれた方が助かります」

「すみません」

「でも、なぜ迷ったのかは分かります」

 意外な言葉だった。

 成瀬が顔を上げると、村瀬は少しだけ苦い笑みを浮かべた。

「人は、自分が正しい行動を取れると思いたがる。でも実際には、迷います。迷うこと自体は悪いことではありません。問題は、迷ったあとに何をするかです」

 成瀬は何も言えなかった。

 村瀬の言葉は、高嶺先生の言葉と似ていて、まったく違っていた。

 曖昧な親切は人を傷つける。

 曖昧な正義感は危険だ。

 高嶺先生はそう言った。

 だが村瀬は、迷いを否定しなかった。

「三木は」

 成瀬は聞いた。

「疑われていますか」

 村瀬はすぐには答えなかった。

「疑いがあるから話を聞く。疑いが薄れたから話を聞かない。そう単純なものではありません」

「でも」

「ただ、昨日よりは見えているものが増えました」

 それが答えだった。

 成瀬は応接室を出た。

 廊下に出ると、三木が壁にもたれて立っていた。授業に戻ったのかと思ったが、待っていたらしい。

「何を話したの」

「紙を出した」

 三木の表情が一瞬硬くなった。

「藤村さんの?」

「ああ。もう隠せない」

「分かってる」

 意外にも、三木は怒らなかった。

「藤村さんも話したみたい」

「会ったのか」

「さっき少しだけ。泣いてた。でも、話したって」

 成瀬は胸の奥が少しだけ軽くなった。

「よかった」

「うん。でも、よかっただけじゃない」

「分かってる」

「藤村さん、しばらく学校に来られないかも」

「そうか」

「でも、言ってた。三木さんのせいじゃないって」

 三木の目がかすかに揺れた。

「そう」

 短い返事だった。

 だが、その声に混じったものを、成瀬は聞き逃さなかった。安堵ではない。救われた人間の声でもない。むしろ、さらに重いものを背負ったような声だった。

「三木」

「何」

「君が全部背負う必要はない」

 三木は少し笑った。

「成瀬くんって、たまにすごく普通のこと言うよね」

「悪かったな」

「悪くはない。普通のことを普通に言えるのは、たぶん大事だから」

 そう言って、三木は歩き出した。

 教室に戻る途中、成瀬は職員室の方を見た。高嶺先生の姿は見えない。机も空いている。朝から、ほとんど姿を見ていなかった。

 昼休み、倉橋が成瀬の席へ来た。

「聞いたか」

「何を」

「高嶺、午後から早退した」

 成瀬は顔を上げた。

「早退?」

「校長室に呼ばれて、そのあと帰ったらしい。警察も一緒にいたって」

「誰から聞いた」

「いろいろ」

「その情報源、信用できるのか」

「今回はわりと信用できる。新聞部の後輩が職員室前で見た」

 三木もこちらを見ていた。

「高嶺先生、何か話したのかな」

「分からない」

 成瀬は答えた。

 だが、心臓は速くなっていた。

 警察が高嶺先生に接触した。放送履歴、写真、石灰、藤村の証言。材料は揃いつつある。だが、それでも決定的ではない。高嶺先生が東階段にいたとしても、佐伯を突き落とした証拠にはならない。佐伯と話していただけかもしれない。転落は事故かもしれない。

 それでも、高嶺先生が何かを隠していたことは間違いない。

 午後の授業が終わると、成瀬は三木と一緒に図書室へ向かった。

 逃げる場所がそこしかなかった。

 教室にいれば視線を浴びる。廊下にいても噂が刺さる。屋上前の階段も、放送室も、もう使えない。図書室だけは、まだ少しだけ静かだった。

 二人は奥の閲覧席に座った。

 三木は借りてもいない本を開き、成瀬はノートを広げた。

「何を書くの」

「整理」

「また?」

「整理しないと、頭の中で都合よく変わる」

 三木は納得したように頷いた。

 成瀬はノートに書いた。

 佐伯のスマホ

 ロック解除状態

 未送信メッセージ

 句読点なし

 三木を疑わせる内容

 誰かが見せるために残した可能性

 石灰

 東階段の踊り場

 手すり付近

 チョークではない

 体育祭準備用の石灰

 高嶺先生

 四時十六分の写真に写った可能性

 藤村の目撃

 佐伯が呼び出すと言っていた

 今朝会っていないと否定

 ただし、いたとしても関係ない、と発言

 三木はノートを見つめていた。

「こうやって見ると、先生が犯人みたい」

「そう見える」

「でも、成瀬くんはまだ迷ってる」

「ああ」

「何が引っかかるの」

 成瀬はペンを止めた。

「高嶺先生が、三木に罪を着せようとしたように見えない」

 三木は黙った。

「佐伯のスマホをあの状態で残したのが高嶺先生なら、君を犯人にする意思があったことになる。でも、先生は昨日からずっと、隠し事はするなと言っていた。圧力にも聞こえるけど、本当に止めようとしていたようにも聞こえる」

「自分を守るためじゃないの」

「それもある。でも、もし本気で君に罪を着せるつもりなら、もっと強く誘導できたはずだ」

「例えば?」

「君が佐伯に呼ばれたと自分で言ったこと。紙片の存在。ロッカーに触れたこと。手を洗ったこと。そこを徹底的に突けば、君はもっと追い詰められた」

 三木は顔を伏せた。

「追い詰められてたよ」

「すまん」

「でも、言ってることは分かる」

 三木は本を閉じた。

「高嶺先生は、私を犯人にしたかったんじゃない?」

「分からない」

「じゃあ、何をしたかったの」

 成瀬はノートの空白を見た。

 高嶺先生が守りたかったもの。

 それは自分自身か。学校か。教師としての立場か。生徒か。

 あるいは、その全部か。

 その時、図書室の入り口に人影が立った。

 坂上だった。

 成瀬と三木に気づくと、ゆっくり近づいてきた。

「ここにいたのか」

「はい」

「二人とも、少しいいか」

 三木が身構えた。

「警察ですか」

「いや」

 坂上は首を横に振った。

「高嶺先生から、君たちに渡してほしいと言われた」

 成瀬は息を止めた。

 坂上は封筒を一通、机の上に置いた。白い封筒。宛名はない。

「先生は?」

「今日は帰られた」

「これは何ですか」

「中身は見ていない。君たち二人に、とだけ言われた」

 坂上の表情は複雑だった。困惑と心配と、少しの恐れが混じっている。

「読むかどうかは任せる。ただ、何かあればすぐに私か警察に言いなさい」

 そう言って、坂上は去っていった。

 封筒が机の上に残された。

 三木はそれを見つめた。

「開ける?」

 成瀬は頷いた。

「開けよう」

 封は糊付けされていなかった。中には、手書きの便箋が数枚入っていた。高嶺先生の字だった。硬く、整った字。

 成瀬は最初の一行を読んだ。

 君たちは、私を疑っているのだと思う。

 三木が隣で息を呑んだ。

 成瀬は続きを読んだ。

 その疑いは、半分正しい。

 手紙は、告白の形をしていた。

 ただし、そこに書かれていたのは、成瀬たちが想像していた単純な自白ではなかった。

 佐伯涼の問題には、以前から気づいていた。最初は、同級生への軽いからかいだと思っていた。少し強く注意すれば済む範囲だと判断した。そう判断したかった。学校では、毎日のように小さな問題が起きる。遅刻、無断欠席、制服違反、部内の衝突、SNS上の悪口。教師はそのすべてに対応する。だが、すべてを深く掘ることはできない。できない、という言い訳を、私は何度も使った。

 成瀬は便箋を握る手に力が入るのを感じた。

 三木は無言で文字を追っている。

 佐伯の周囲で、何人かの生徒の様子がおかしくなった。藤村莉子もその一人だった。私は気づいていた。確証はなかった。本人たちは話さない。佐伯はいつも笑っていた。教師の前では、礼儀正しい生徒だった。問い詰めても、証拠がなければ何もできない。そう考えた。いや、そう考えることで、自分が動かない理由を作った。

 便箋の文字は、乱れていなかった。

 乱れていないことが、かえって苦しかった。高嶺先生は冷静にこれを書いている。自分の弱さを、逃げずに文字にしている。

 三木が小さく言った。

「知ってたんだ」

 成瀬は答えなかった。

 今朝、佐伯から連絡があった。午前四時に東階段へ来い、と。馬鹿げていると思った。無視するべきだった。だが、佐伯は言った。来なければ、先生が見て見ぬふりをしてきたものを全部出す、と。

 成瀬の胸が鳴った。

 佐伯が高嶺先生を呼び出した。

 藤村の話と一致する。

 私は行った。教師としてではない。保身のためだった。それを認める。私は佐伯を止めたかったのではなく、自分が何を見て見ぬふりしてきたかを暴かれるのが怖かった。

 東階段で、佐伯は笑っていた。スマホを見せ、そこにあるいくつかのデータを示した。藤村莉子に関するもの。ほかの生徒に関するもの。そして、私が過去に処理を先送りにした相談記録の写真。どれも、私にとって都合の悪いものだった。

 成瀬は息を止めた。

 相談記録。

 高嶺先生は、本当に何もしていなかったわけではない。相談を受けていた。だが、処理を先送りにした。その記録を佐伯は持っていた。

 どうやって。

 そう思ったが、今は先を読むしかなかった。

 佐伯は言った。先生は生徒のために怒っているふりがうまい。本当は自分の評価が怖いだけだろう、と。私は否定できなかった。否定できないことに腹を立てた。

 便箋の字が、そこだけ少し強くなっていた。

 揉み合いになった。私は佐伯のスマホを奪おうとした。佐伯は抵抗した。踊り場の掃除用具入れに身体がぶつかり、大きな音がした。彼は倒れなかった。少なくとも、その時は。

 成瀬は三木を見た。

 三木もこちらを見ていた。

 鈍い音。

 二人が聞いた音は、転落音ではなかった。

 私はそこで一度、佐伯から離れた。彼は階段の手すりに寄りかかりながら、なお笑っていた。私は救いようのない怒りを覚えた。教師としてではない。大人としてでもない。ひとりの弱い人間として、彼の笑いを消したいと思った。

 成瀬は唇を噛んだ。

 その言葉は、告白というより懺悔だった。

 だが、次の文で、成瀬は目を止めた。

 私は佐伯を突き落としていない。

 三木が小さく息を吸った。

 私はその場を離れようとした。佐伯はスマホを拾おうとして、足を滑らせた。階段の端に置かれていた石灰袋が破れ、床が粉で滑りやすくなっていた。彼は手すりを掴もうとしたが、間に合わなかった。転落した。

 成瀬は便箋から目を離せなかった。

 事故。

 高嶺先生はそう書いている。

 だが、それで終わりではなかった。

 私はすぐに救急車を呼ぶべきだった。だが、数秒、動けなかった。佐伯のスマホが階段下に落ちていた。画面が開いていた。そこには三木さつきを疑わせる未送信の文があった。

 三木の指が便箋の端を握った。

 私はそれを見た時、佐伯が三木を陥れようとしていたことに気づいた。彼は、三木が学校へ来ることを知っていた。藤村が三木に助けを求めることも、読んでいたのかもしれない。自分に何かあった時、三木に疑いが向くようにしていた。

 成瀬の中で、佐伯という人間の輪郭がさらに歪んだ。

 倒れる前から、自分が被害者になる可能性まで利用していたのか。

 いや、そこまで考えていたわけではないのかもしれない。高嶺先生と揉み合う前に、三木を牽制するつもりで書いていただけかもしれない。それでも、結果としてその文は三木を刺した。

 私はスマホを拾った。救急に電話しようとした。だが、佐伯のスマホで通報すれば、そこに残ったデータをどう扱うか問われる。私は迷った。自分のスマホを出し、通報しようとした。その時、遠くから足音が聞こえた。君たちだった。

 成瀬は、自分が東階段へ走った時のことを思い出した。

 階段下に倒れた佐伯。スマホは手元にあった。では、その直前に高嶺先生はスマホを置いたのか。

 私は逃げた。

 成瀬の手が止まった。

 教師として、最もしてはならないことをした。東階段から離れ、職員玄関側へ回り、通報を受けて駆けつけたように装った。救急車を呼んだのは君だった。私ではない。

 職員室の蛍光灯。救急隊員とともに現れた高嶺先生。あの冷静さは、冷静だったのではない。冷静であるふりだった。

 私は佐伯のスマホに手を加えていない。未送信の文を書いたのは佐伯本人だ。ただ、私はそれを残した。三木に疑いが向くと分かっていながら、消さなかった。自分がその場にいたことを隠すために。

 三木は目を閉じた。

 成瀬は、その横顔を見た。

 突き落としてはいない。メッセージを書いてもいない。

 だが、高嶺先生は逃げた。佐伯を放置し、三木が疑われる状況を残した。それは罪ではないのか。法的にどう扱われるかは分からない。だが、人としては、明らかに罪だった。

 最後の便箋には、こう書かれていた。

 三木さつき。君は佐伯を突き落としていない。成瀬悠真。君が見たことは正しい。ただし、見たことだけで人を救えると思ってはいけない。私が見ていたものも、正しかった。佐伯が危うい生徒であることも、藤村が苦しんでいることも、私は見ていた。見ていながら、何もしなかった。見ていたという事実は、時に何もしなかったことの言い訳にはならない。

 そして最後に、一文。

 私は警察にすべて話す。

 成瀬は便箋を置いた。

 図書室の奥は静かだった。ページをめくる音も、椅子を引く音も、遠くに消えている。三木は封筒を見つめたまま動かない。

「三木」

 呼びかけると、彼女は小さく首を横に振った。

「何て言えばいいか分からない」

「僕も」

「先生は、私に罪を着せようとしたわけじゃなかった」

「でも、君が疑われることを知っていて逃げた」

「うん」

「許せることじゃない」

「うん」

 三木は何度も頷いた。

「でも、少しだけ分かってしまう自分が嫌」

 成瀬は黙った。

「私も逃げたから。佐伯くんのロッカーを触って、手を洗って、嘘をついた。藤村さんを守るためって言いながら、自分が疑われるのも怖かった。先生と同じじゃないって言える自信がない」

「違う」

 成瀬はすぐに言った。

 三木が顔を上げる。

「君は佐伯を放置して逃げたわけじゃない」

「でも、嘘をついた」

「嘘にも違いはある」

「誰かを守るための嘘と、自分を守るための嘘?」

「たぶん」

 三木は苦笑した。

「それ、そんなに簡単に分けられる?」

 成瀬は答えられなかった。

 確かに、簡単ではない。

 三木は藤村を守ろうとした。だが、自分も守ろうとした。高嶺先生は自分を守ろうとした。だが、生徒をこれ以上傷つけないために沈黙した部分もあったのかもしれない。佐伯の嘘は誰かを傷つけるためのものだった。だが、佐伯自身も何かに追い詰められていた可能性はゼロではない。

 人の嘘は、一色ではない。

 白か黒かに分けられるなら、こんなに苦しくはならない。

「成瀬くん」

 三木が言った。

「これ、警察に渡そう」

「もちろん」

「その前に、コピー取る?」

「必要ない。写真を撮っておく」

「疑い深いね」

「迷ってくれる人の方が信用できるんだろ」

 三木は少しだけ目を丸くし、それから小さく笑った。

「覚えてたんだ」

「忘れるほど昔の話じゃない」

 成瀬は便箋を一枚ずつ撮影した。手がわずかに震えた。これで、高嶺先生の沈黙は終わる。三木への疑いも大きく動くだろう。藤村の証言も、倉橋の写真も、放送履歴も、この手紙とつながる。

 ただ、それは終わりではない。

 佐伯はまだ意識不明だ。彼が何を考えていたのか、本人の口からは語られていない。高嶺先生の手紙がすべて正しいとも限らない。人は告白の中でも、自分に都合のいい形で事実を並べることがある。

 それでも、確かなものはあった。

 三木は佐伯を突き落としていない。

 成瀬が最初に信じたいと思ったことは、少なくとも間違いではなかった。

 図書室を出ると、廊下の向こうから坂上が歩いてきた。成瀬は封筒を差し出した。

「先生。これ、警察に渡してください」

 坂上は封筒を見て、表情を変えた。

「読んだのか」

「はい」

「中身は」

「高嶺先生の告白です」

 坂上の顔から血の気が引いた。

「分かった」

 彼はそれ以上聞かなかった。封筒を受け取ると、すぐに職員室へ向かった。歩き方がいつもより速い。

 三木はその背中を見送った。

「これで終わるのかな」

「分からない」

「またそれ」

「本当に分からないから」

「うん」

 三木は窓の外を見た。

 校庭には薄い夕日が差していた。東階段の窓は、昨日ほど不気味には見えない。だが、そこに何があったかを知った今、ただの窓にも戻らなかった。

「でも、少しだけ息ができる」

 三木は言った。

 その言葉を聞いて、成瀬は初めて、自分も息を詰めていたことに気づいた。

 その時、廊下の奥から村瀬が現れた。坂上から連絡を受けたのだろう。村瀬は封筒を手にしていた。

「成瀬くん、三木さん」

 二人は姿勢を正した。

 村瀬は静かに言った。

「高嶺先生が、警察署に来ました。今、話を聞いています」

 三木の目が揺れた。

「先生は」

「自分が東階段にいたことを認めました」

 成瀬は拳を握った。

「佐伯を突き落としたんですか」

 村瀬はすぐには答えなかった。

「その点については、慎重に確認しています。高嶺先生は、転落は事故だったと話しています」

「事故」

 三木がつぶやいた。

「ただし」

 村瀬は続けた。

「転落後、すぐに通報しなかったこと、現場を離れたこと、佐伯くんのスマホが三木さんを疑わせる状態だったことを知りながら説明しなかったことは認めています」

 三木は唇を結んだ。

「私は」

「現時点で、三木さんが佐伯くんを突き落としたとする根拠はかなり弱くなっています」

 村瀬は慎重に言った。

「ただ、佐伯くんのスマホを探していたことについては、事情を聞く必要があります」

「はい」

 三木は頷いた。

 その返事は逃げていなかった。

 成瀬は彼女の横顔を見た。朝の教室で見た白い顔とは違う。まだ怯えている。まだ傷ついている。それでも、目を逸らしていなかった。

「藤村さんは」

 三木が聞いた。

「話してくれました」

 村瀬は言った。

「とても勇気のいることだったと思います」

 三木はうつむいた。

「あとで、会えますか」

「今日は難しいかもしれません。でも、伝えることはできます」

 三木は少し迷ってから言った。

「ありがとうって」

 村瀬は頷いた。

「伝えます」

 警察官が去ると、廊下には成瀬と三木だけが残った。

「ありがとう、か」

 成瀬が言うと、三木は少し眉を寄せた。

「変?」

「いや」

「ごめんより先に、ありがとうって言いたかった」

「いいと思う」

「本当に?」

「本当に」

 三木は小さく息を吐いた。

 その瞬間、校内放送が鳴った。

 通常の下校時刻を知らせるチャイムだった。明るく、間延びした音が廊下に広がる。午前四時に聞いた試験信号とは違う。だが、成瀬は一瞬だけ身体を強張らせた。

 三木も同じだった。

 二人は顔を見合わせた。

「嫌な音」

 三木が言った。

「前は何とも思わなかったのにな」

「もう、しばらく無理かも」

 そう言って、三木は苦笑した。

 チャイムが鳴り終わると、学校は再び静かになった。

 事件の中心にあったものが、少しだけ動いた。高嶺先生は自分の罪を語り始めた。三木の疑いは晴れつつある。藤村は証言した。

 だが、成瀬の中にはまだ消えない疑問があった。

 佐伯はなぜ、あの未送信メッセージを途中で止めたのか。

 三木を陥れるためなら、もっとはっきり書けたはずだ。

 三木に呼び出された。あいつ俺を。

 その先に続くはずだった言葉は何だったのか。

 殺す気かもしれない。

 そう続けるつもりだったのか。

 それとも、まったく別の文だったのか。

 成瀬は、佐伯のスマホ画面を思い出した。

 あの文は、告発に見えた。

 だが、もしかすると違う。

 佐伯は、誰かに向けて最後の罠を仕掛けたのではなく、途中で何かに気づいたのかもしれない。

 その疑問を解くには、佐伯本人が目を覚ますしかない。

 廊下の窓の外で、夕日が沈みかけていた。

 成瀬は思った。

 真実は少しずつ姿を現している。

 だが、姿を現した真実が、人を救うとは限らない。

 高嶺先生の証言は、三木を救うかもしれない。

 同時に、藤村の傷を公にするかもしれない。

 佐伯の加害を明らかにするかもしれない。

 学校が隠してきたものを、白日の下に晒すかもしれない。

 それでも、もう戻れない。

 午前四時の学校で始まった嘘は、ようやくほどけ始めた。

 その糸の先に、誰が倒れているのか。

 成瀬はまだ知らなかった。


誰も知らない証言

 佐伯涼が意識を取り戻したという知らせは、翌日の昼休みに届いた。

 教室にいた誰かが、廊下から走ってきた別の生徒に耳打ちされ、その声が机から机へと移っていった。最初は小さなさざ波だった。やがて、それはクラス全体に広がり、誰かがはっきりと言葉にした。

「佐伯、目ぇ覚ましたらしい」

 教室の空気が止まった。

 成瀬悠真は、窓際の席に座る三木さつきを見た。

 三木はノートに視線を落としていた。だが、ペンの先は止まっている。聞こえていないはずがなかった。彼女は少しだけ唇を結び、何かを飲み込むように喉を動かした。

 佐伯が生きている。

 その事実に安堵するべきだった。実際、成瀬は安堵した。階段下に倒れていた佐伯の顔が脳裏から消えない。あのまま目を覚まさなかったら、事件はまったく違う重さを持っていたはずだ。

 だが、同時に別の緊張が胸を締めつけた。

 佐伯が目を覚ましたなら、彼自身の口から何が語られるのか。

 彼は高嶺先生とのやり取りを話すのか。

 藤村莉子を脅していたことを認めるのか。

 三木を陥れようとした未送信メッセージについて説明するのか。

 それとも、また別の嘘をつくのか。

 佐伯は被害者だった。

 だが、ただの被害者ではない。

 その事実が、教室の誰にも共有されていないことが、成瀬には不気味だった。佐伯の席はまだ空いている。そこに座っていた人間が、どれだけのものを握り、どれだけの人間を追い詰めていたかを知っている者は少ない。

 知っている者ほど、簡単には口にできない。

 昼休みが終わる頃、担任の坂上が教室に入ってきた。彼はいつもより慎重な顔をしていた。

「佐伯が意識を取り戻したと連絡がありました」

 教室のあちこちから、小さく息を吐く音が聞こえた。

「命に別状はないそうです。ただ、まだ治療中です。見舞いや連絡については、学校から指示があるまで控えてください」

 坂上は一度言葉を切った。

「それから、昨日から話している通り、根拠のない噂を広げないこと。佐伯についても、三木についても、藤村についても同じです」

 藤村の名前が出た瞬間、何人かが顔を上げた。

 藤村莉子は、今日も学校に来ていない。

 来られるはずがなかった。警察に話したあと、彼女が何をどこまで説明したのか、成瀬は詳しく知らない。ただ、村瀬から「とても勇気のいる証言だった」と聞いただけだ。

 証言。

 その言葉は、事件が始まった朝とは違う響きを持つようになっていた。

 証言とは、見たものを話すことだと思っていた。だが今は違う。証言とは、自分の傷を人前に置くことでもある。間違えたこと、怖かったこと、逃げたこと、嘘をついたこと。そういうものを、自分の口で認めることでもある。

 成瀬はまだ、自分が本当に証言したと言えるのか分からなかった。

 見たものをすぐには出さなかった。紙片を隠した。三木を信じきれず、疑いきれず、中途半端な場所で立ち止まった。高嶺先生を問い詰めた時でさえ、正義感だけではなかった。三木を救いたいという気持ちの中には、自分が見たものを間違いにしたくないという意地もあった。

 人の善意は、思ったより汚れている。

 それを知った数日間だった。

 放課後、成瀬は三木に呼び止められた。

「少し、時間ある?」

 廊下には帰り支度をする生徒たちが流れている。三木はその流れから少し離れた場所に立っていた。声は落ち着いているように聞こえたが、指先が鞄の持ち手を強く握っている。

「ある」

「藤村さんに会いに行きたい」

 成瀬は少しだけ驚いた。

「連絡があったのか」

「うん。駅前の図書館にいるって」

「一人で行くのが怖い?」

 三木は少し考えた。

「怖いというより、逃げそうだから」

「藤村が?」

「私が」

 正直な答えだった。

 成瀬は頷いた。

「行こう」

 校門を出る時、東階段の窓が視界に入った。

 もう夕方だった。あの朝のような暗さはない。窓はただの窓で、外灯の反射もなかった。それでも成瀬は、そこに人影を探してしまう。佐伯と高嶺先生。四時十六分の写真に写っていた二つの影。誰かが撮っていなければ、存在しなかったことにされていたかもしれない影。

 倉橋は、あの写真のことで警察に何度か話を聞かれたらしい。本人は「俺のスクープが」と冗談めかしていたが、写真を誰にも流していない。成瀬はそれだけで、倉橋を見る目が少し変わった。

 駅前の図書館は、前に藤村と会った時と同じように静かだった。

 閲覧席の奥、窓際に藤村はいた。制服ではなく、また白いパーカーを着ている。マスクはしていなかった。顔色は悪いが、目元は以前より少しだけはっきりしている。

 三木を見ると、藤村は立ち上がった。

 二人はしばらく何も言わなかった。

 成瀬は少し離れた棚の前に立った。完全に席を外すべきか迷ったが、三木が小さく首を振った。近くにいてほしい、という意味だと受け取った。

「ごめん」

 最初に言ったのは藤村だった。

 声は小さかった。

「私が、三木さんを巻き込んだ」

 三木は首を横に振った。

「私も、自分で行った」

「でも、私がメモを書いたから」

「うん」

 三木は否定しなかった。

「それは、怒ってる」

 藤村の顔が歪んだ。

 成瀬は息を止めた。

 三木は続けた。

「でも、藤村さんがどれだけ怖かったかも、今なら少し分かる。だから、怒ってるし、心配してるし、ありがとうとも思ってる」

「ありがとう?」

「話してくれたから」

 藤村は目を伏せた。

「三木さんを助けるためだけじゃないよ」

「うん」

「自分が、もう黙ってるのが嫌だったから」

「それでいいと思う」

 三木の声は静かだった。

「誰かのためだけに勇気を出せる人なんて、たぶんそんなにいない。自分のためでいいと思う」

 藤村はそれを聞いて、両手で顔を覆った。

「三木さんは、そういうことを言うから嫌だ」

「嫌なの」

「嫌じゃないけど、苦しい」

 三木は少しだけ笑った。

「分かる」

 二人の間に、静かな沈黙が落ちた。

 それは気まずい沈黙ではなかった。何かを急いで埋めなくてもいい沈黙だった。

 藤村はやがて顔を上げた。

「佐伯くん、目を覚ましたんだって」

「うん」

「怖い」

 三木は頷いた。

「私も」

「佐伯くん、何て言うんだろう」

「分からない」

「また嘘をついたら?」

「その時は、その嘘もちゃんと見る」

 藤村は三木を見た。

 三木は言った。

「もう、見ないふりはしない」

 その言葉に、成瀬は高嶺先生の手紙を思い出した。

 見ていたという事実は、何もしなかったことの言い訳にはならない。

 高嶺先生は警察に話した。自分が東階段にいたこと、佐伯と揉み合ったこと、佐伯が転落したあと逃げたこと、佐伯のスマホが三木を疑わせる状態だったことを知りながら黙っていたこと。

 学校は混乱している。

 校長は保護者説明会の準備に追われ、教師たちは何をどこまで生徒に話すべきかで揉めているらしい。佐伯が生徒を脅していたことまで明るみに出れば、学校の責任問題になる。高嶺先生だけの問題ではない。見ようとしなかった大人が何人いたのか、その数を誰も数えたくないのだろう。

 それでも、もう隠し通すことはできない。

 藤村が警察に話した。三木も話した。倉橋も写真を出した。成瀬も紙片を出した。高嶺先生も告白した。

 一人ひとりの証言は弱かった。曖昧で、欠けていて、傷だらけだった。

 それでも、重なれば輪郭になる。

「成瀬くん」

 藤村がこちらを見た。

「ごめんね。成瀬くんまで巻き込んで」

「僕は勝手に巻き込まれた」

「何それ」

「事実」

 藤村が少しだけ笑った。

「でも、ありがとう」

 成瀬は返事に困った。ありがとうと言われるほどのことをした自信はなかった。結局、彼は迷いながら動いただけだ。

「僕は」

 言いかけて、やめた。

 謝るのも違う。謙遜するのも違う。大丈夫だと言うのも軽い。

「聞けてよかった」

 成瀬は言った。

「藤村の話も、三木の話も」

 藤村は目を伏せた。

「うん」

 図書館を出る頃には、外は薄暗くなっていた。

 三木と藤村は、駅まで並んで歩いた。成瀬は少し後ろを歩いた。二人の会話は多くない。だが、以前とは違う距離だった。無理に元へ戻る必要はないのだと思った。壊れたものが、まったく同じ形に戻ることは少ない。それでも、別の形でつながり直すことはある。

 駅前で藤村と別れたあと、三木はしばらく黙っていた。

「よかったな」

 成瀬が言うと、三木は首を傾げた。

「よかったのかな」

「少なくとも、会えた」

「うん」

「話せた」

「うん」

「それで十分じゃないか」

 三木は少し笑った。

「成瀬くん、たまに雑だよね」

「雑か」

「でも、今はそのくらいがいい」

 駅の改札前で、人々が行き交っている。スーツ姿の会社員、塾へ向かう小学生、買い物帰りの親子。誰も、成瀬たちの数日間を知らない。午前四時の学校で何があったのかも、三木が何を隠し、藤村が何を話し、高嶺先生が何から逃げたのかも知らない。

 世界はやはり無関心だ。

 だが、その無関心は今、少しだけ優しく感じられた。

「佐伯に会うことになると思う」

 三木が言った。

 成瀬は彼女を見た。

「警察で?」

「たぶん。直接じゃないかもしれないけど、いつかは」

「怖いか」

「怖い」

 即答だった。

「でも、聞きたいことがある」

「何を」

「あの未送信メッセージの続き」

 成瀬は黙った。

 三木に呼び出された。あいつ俺を。

 その先に何が続くはずだったのか。

 それは、成瀬もずっと気になっていた。

「殺す気かもしれない、じゃないのか」

「そうかもしれない。でも、本当にそうなら、佐伯くんは最後まで打ったと思う」

「途中で高嶺先生と揉み合ったから」

「うん。でも、何か引っかかる」

 三木は改札の向こうへ目を向けた。

「佐伯くんは、私を犯人にしたかったのかな」

「違うと思うのか」

「分からない。陥れようとしたのは本当だと思う。でも、それだけじゃない気がする」

「どうして」

「佐伯くんは、誰かを傷つける時、もっときれいにやる」

 その言い方が、妙に重かった。

「きれいに?」

「逃げ道を塞いでから、笑う。そういう人だった。あんな途中で切れた文を残すかなって」

 成瀬は考え込んだ。

 確かに、佐伯が計画的に三木を陥れるつもりなら、文面は中途半端すぎる。三木を名指しし、具体的な恐怖を書けばいい。三木に呼び出された。あいつ俺を殺す気だ。そう残せば、もっと強い証拠になる。

 なぜ途中で止まったのか。

 意識を失ったから。揉み合ったから。転落したから。そう説明することはできる。

 だが、本当にそれだけか。

 翌日、成瀬はその答えの一部を知ることになった。

 村瀬から学校を通じて呼ばれたのは、放課後だった。三木も一緒だった。場所は応接室。そこには村瀬と若い警察官、そして担任の坂上がいた。

 佐伯本人はいない。

 村瀬は穏やかな声で言った。

「佐伯くんから、話を聞くことができました」

 三木の手が膝の上で動いた。

「彼は、今朝ではなく、事件当日の朝のことを部分的に覚えています。もちろん、怪我の影響で曖昧な部分もあります。すべてを鵜呑みにはできません」

 村瀬はそう前置きした。

「ただ、未送信メッセージについては、彼自身が打ったと認めました」

 三木は目を閉じた。

 成瀬は予想していたはずなのに、胸が重くなった。

「内容についても、確認しました」

 村瀬は書類を見た。

「彼は最初、三木さんを疑わせるつもりだったと話しました。藤村さんが三木さんに助けを求めていることには気づいていたそうです。三木さんが学校へ来る可能性も考えていた。だから、万一の時に三木さんへ疑いが向くような文を打った」

 三木の顔が白くなる。

 成瀬は思わず口を開いた。

「万一って、何ですか」

「高嶺先生と揉めることを想定していたようです」

 村瀬の声は淡々としている。

「佐伯くんは、高嶺先生に自分の持っていたデータを見せることで、先生を追い詰めようとしていた。高嶺先生が感情的になることも予測していたようです」

「自分が怪我をするかもしれないのに?」

「そこまで深く考えていたかは分かりません。むしろ、自分は常に相手を操作できると思っていたのかもしれません」

 村瀬の言葉は静かだったが、そこには冷えたものがあった。

 成瀬は、佐伯という人間の傲慢さを思った。

 相手の弱みを握り、反応を予測し、怯えや怒りまで自分の道具にする。高嶺先生の怒りさえ、佐伯にとっては操作できるものだったのかもしれない。

 だが、現実は佐伯の想定通りには動かなかった。

 石灰で足を滑らせ、階段から転落した。

「では、なぜ文は途中で止まっていたんですか」

 三木が聞いた。

 声は震えていたが、逃げてはいなかった。

 村瀬は彼女を見た。

「佐伯くんは、途中で書き換えようとしたと話しています」

「書き換え?」

「最初は、三木さんを疑わせる文を書くつもりだった。しかし高嶺先生と話しているうちに、別の文にしようとした」

「別の文って」

 村瀬は一瞬だけ迷ったように見えた。

「彼の説明では、こうです。『三木に呼び出された。あいつ、俺を止めようとしていた』と書こうとした」

 応接室が静かになった。

 三木は動かなかった。

 成瀬もすぐには意味を飲み込めなかった。

 三木に呼び出された。

 あいつ俺を――

 殺す気かもしれない。

 そう続くと思っていた。

 だが佐伯は、途中で変えようとした。

 俺を止めようとしていた。

「なぜ」

 三木の声はかすれていた。

「なぜ、そんなふうに」

「分かりません」

 村瀬は正直に言った。

「佐伯くん自身も、はっきり説明できていない。ただ、高嶺先生とのやり取りの中で、自分がしてきたことをすべて他人のせいにするのは無理だと思った、と話しています」

「佐伯が?」

 成瀬は思わず言った。

 信じられなかった。

 人はそんなに急に変わるものなのか。階段の踊り場で教師と揉み合い、追い詰められたからといって、自分の罪を認めるような人間になるのか。

 村瀬も、その疑問を分かっているようだった。

「もちろん、これも彼の言葉です。責任を軽くするための説明かもしれません。自分を少しでもよく見せるための言い訳かもしれません」

「なら」

「ただ」

 村瀬は続けた。

「未送信の文が途中で止まっていたことは事実です。彼が本気で三木さんだけを陥れようとしていたなら、もっと明確な文を残すこともできた。それをしなかった理由は、今後も慎重に確認する必要があります」

 三木は膝の上で手を握っていた。

「私は、許さなくていいんですよね」

 突然の言葉だった。

 村瀬は少し驚いたように三木を見た。

「もちろんです」

 三木は頷いた。

「佐伯くんが途中で書き換えようとしたとしても、藤村さんを脅していたことも、私を疑わせようとしたことも、消えない」

「消えません」

 村瀬は言った。

「そして、あなたが許す必要もありません」

 三木はゆっくり息を吐いた。

 成瀬は、その横顔を見ていた。

 佐伯が最後に何を思ったのかは分からない。ほんの一瞬だけ後悔したのかもしれない。自分が踏み越えたものの大きさに気づいたのかもしれない。あるいは、ただ都合よく言い換えただけなのかもしれない。

 それでも、三木が言った通り、許す必要はない。

 人の後悔は、被害者に許しを強制するものではない。

 応接室を出たあと、三木は廊下で立ち止まった。

「変だね」

「何が」

「私、佐伯くんが最低なままの方が楽だった」

 成瀬は黙って聞いた。

「最後まで私を陥れようとしてたって思えたら、怒るだけでよかった。でも、途中で書き換えようとしたとか言われると、どうしていいか分からなくなる」

「許さなくていいって言われたろ」

「うん。でも、許さないって決めるのにも体力がいる」

 成瀬はその言葉に、妙に納得した。

 許すことも、許さないことも、軽くはない。どちらも心を使う。傷ついた側にとっては、選ぶこと自体が負担になる。

「しばらく保留でいいんじゃないか」

「保留?」

「今決めなくていい」

 三木は少し考え、それから小さく笑った。

「また雑」

「便利だろ」

「うん。便利」

 二人は廊下を歩いた。

 窓の外には校庭が広がっている。部活動の声が戻りつつあった。事件の直後は止まっていた練習も、少しずつ再開されている。日常は容赦なく戻ってくる。戻ってほしくない時にも、戻ってくる。

 だからこそ、人はその中で生きるしかない。

 数日後、高嶺先生が正式に学校を離れることになった。

 理由は「事件に関する調査のため」とだけ説明された。生徒たちには詳細は伝えられなかったが、噂はすでに広がっている。高嶺先生が佐伯の転落現場にいたこと、通報せずに一度逃げたこと、佐伯が複数の生徒を脅していたこと。

 学校は大きく揺れた。

 保護者説明会が開かれ、校長は何度も頭を下げた。生徒からの相談体制を見直すという話も出た。だが、成瀬にはそれがどこまで本気なのか分からなかった。制度は言葉になると立派だ。問題は、その言葉が本当に誰かを守るかどうかだ。

 高嶺先生から、成瀬たちへ直接の連絡はなかった。

 ただ、坂上を通じて、短い伝言だけが届いた。

 自分が見ていたものから逃げたことを、一生忘れない。

 それを聞いた時、三木は何も言わなかった。

 成瀬も何も言わなかった。

 言葉にすれば、軽くなる気がした。

 佐伯は退院後、しばらく学校を休むことになった。警察の捜査は続いている。佐伯のスマホからは、藤村だけでなく、複数の生徒に関するデータが見つかったらしい。その中には、直接的な脅迫に使われたものも、そうでないものもあったという。

 どこからが罪なのか。

 どこからが取り返しのつかない傷なのか。

 成瀬には分からない。

 ただ、藤村がまた学校に来た日、教室の空気は少し変わった。

 藤村は三木の隣の席に行き、何か短く言った。三木も短く返した。二人は笑わなかった。抱き合いもしなかった。ただ、並んで座った。

 それだけで十分だった。

 その日の放課後、成瀬は一人で東階段へ向かった。

 事件のあと、しばらく立ち入りが制限されていた場所だ。今はもう普通に通れる。階段は清掃され、血の跡も石灰の粉も残っていない。踊り場の掃除用具入れも元の位置に戻っている。

 そこには、何もなかった。

 だが、何もないことが、かえって怖かった。

 人が倒れた場所も、時間が経てば普通の床になる。誰かが嘘をついた場所も、掃除されればきれいになる。傷跡は、外から見えなくなる。だからこそ、覚えている人間が必要なのだと思った。

 成瀬は階段の手すりに触れた。

 冷たい金属の感触。

 あの朝、佐伯はここにいた。高嶺先生もいた。藤村は外から見ていた。三木は教室にいた。成瀬は何も知らずに扉を開けた。

 誰も全体を見ていなかった。

 それぞれが、自分の見た断片だけを持っていた。その断片は弱く、不完全で、時に間違っていた。それでも、重ね合わせることでしか、真実には近づけなかった。

 成瀬はポケットから一枚の紙を取り出した。

 事件後、村瀬から求められて書いた自分の証言の控えだった。正式な書類ではない。自分のために書き写したものだ。

 午前四時過ぎ、二年三組の教室で三木さつきを見た。

 彼女は怯えていた。

 嘘をついていた。

 しかし、佐伯涼を突き落としてはいなかった。

 その文章を初めて書いた時、成瀬の手は震えた。

 今も、読み返すと少し震える。

 自分の証言が完全ではないことを、成瀬は知っている。時刻は曖昧だった。記憶も欠けていた。三木を見たからといって、彼女のすべてを知っていたわけではない。

 だが、不完全でも言わなければならないことがある。

 完全な証言だけを待っていたら、きっと何も語れない。

「ここにいたんだ」

 声がした。

 振り返ると、三木が階段の上に立っていた。

「探した?」

「少し」

「何か用?」

「別に。成瀬くんがいそうだと思ったから」

 三木はそう言って、踊り場まで降りてきた。

「ここ、嫌じゃないのか」

「嫌だよ」

「なら、なぜ」

「嫌だから来た」

 成瀬は少し笑った。

「分かるような、分からないような」

「私も分かってない」

 三木は手すりに触れた。

「何も残ってないね」

「ああ」

「本当に、ここで起きたのかなって思う」

「起きた」

「うん。起きた」

 二人はしばらく黙っていた。

 窓の外は夕方だった。校庭の向こうで、部活動の声が聞こえる。誰かがボールを蹴る音。誰かが笑う声。日常の音。

「成瀬くん」

「何」

「ありがとう」

 成瀬は彼女を見た。

「何に」

「分からない」

「分からないのに礼を言うのか」

「うん。何に対してか分からないけど、言いたくなった」

 成瀬は少し考えた。

「じゃあ、どういたしまして」

「雑」

「便利だろ」

 三木は笑った。

 今度の笑みは、すぐには消えなかった。

「私、まだ怖い」

 彼女は言った。

「学校に来るのも、廊下を歩くのも、誰かに見られるのも。佐伯くんのことを思い出すのも、高嶺先生のことを考えるのも、藤村さんに会うのも、全部少しずつ怖い」

「うん」

「でも、来る」

「うん」

「藤村さんとも、また話す。たぶん、前みたいには戻らないけど」

「戻らなくてもいいんじゃないか」

 三木は頷いた。

「そう思う」

 彼女は窓の外を見た。

「成瀬くんは?」

「僕?」

「怖い?」

 成瀬は少し考えた。

「怖い」

「何が」

「自分が見たものを、また間違えること」

 三木は静かに聞いていた。

「今回だって、僕は何度も迷った。君を信じたいと思いながら疑った。高嶺先生を疑いながら、本当に疑っていいのか迷った。佐伯を悪者だと思いながら、最後のメッセージでまた分からなくなった」

「うん」

「たぶん、これからも間違える」

「うん」

「でも、分かったふりはしないようにする」

 三木は成瀬を見た。

「それ、いいと思う」

「そうか」

「うん。成瀬くんらしい」

 自分らしいと言われても、成瀬にはよく分からなかった。

 ただ、その言葉は嫌ではなかった。

 二人は東階段を降りた。

 階段下に着くと、成瀬は一度だけ振り返った。そこにはもう誰も倒れていない。スマホも落ちていない。未送信のメッセージもない。

 それでも、あの朝は確かにあった。

 午前四時の学校。

 誰も知らないはずの時間。

 そこで三木さつきは嘘をついた。藤村莉子は助けを求めた。佐伯涼は罠を仕掛け、途中で何かを変えようとした。高嶺先生は逃げた。成瀬悠真は、それをすべてあとから知った。

 誰か一人の証言だけでは、何も救えなかった。

 だが、誰か一人の沈黙だけで、人は簡単に傷ついた。

 昇降口へ向かう途中、校内放送が下校時刻を告げた。

 今度は三木も成瀬も立ち止まらなかった。

 音はただのチャイムとして、廊下に響き、窓の外へ抜けていった。

 校門を出ると、空は薄い紫色に変わっていた。

 三木は駅へ向かう道を歩き、成瀬は途中まで並んだ。言葉は少なかった。だが、沈黙は重くなかった。

 交差点で別れる時、三木が言った。

「また明日」

 それは何でもない言葉だった。

 だが、成瀬には、それがこの数日で一番確かな言葉に思えた。

「ああ。また明日」

 三木は少しだけ手を上げて歩いていった。

 成瀬はその背中を見送った。

 彼女はもう、午前四時の教室に立っていた少女ではない。怯え、嘘をつき、それでも誰かを守ろうとした少女でもある。疑われ、傷つき、証言し、また明日と言った少女でもある。

 人は一つの顔だけでできていない。

 佐伯も、高嶺先生も、藤村も、三木も、自分自身も。

 それを知ったことが、成瀬にとって事件の答えだった。

 家に帰る途中、スマホが震えた。

 倉橋からだった。

 新聞部の新しい企画名、考えた。

 「見たことを書く」ってどう?

 成瀬は思わず笑った。

 少し考えてから返信した。

 悪くない。

 ただし、分からないことは分からないと書け。

 すぐに返事が来た。

 それ、地味すぎ。

 成瀬はスマホをしまった。

 地味でいいと思った。

 真実は、派手な一言で人を黙らせるものではない。もっと地味で、面倒で、不完全で、誰かの震える声に似ている。時には届かず、時には誤解され、時には人を傷つける。それでも、言わなければ消えてしまうものがある。

 成瀬は歩きながら、もう一度だけ午前四時の教室を思い出した。

 暗い教室。非常灯の緑。濡れた靴先。床に落ちていた紙片。遠くで鳴った短い音。三木の白い顔。

 あの時の自分は、何も分かっていなかった。

 けれど、何も分かっていないまま、扉を開けた。

 たぶん、すべてはそこから始まった。

 誰も知らない午前四時に、彼女は嘘をついた。

 その嘘は、人を殺すためのものではなかった。

 誰かを、まだこの世界に引き留めるための嘘だった。

 そして成瀬は、その嘘を証言する。

 完全ではない記憶で。

 迷い続ける言葉で。

 それでも、見たものから逃げないために。

 空の端に、夜が戻り始めていた。

 明日の朝になれば、学校はまた開く。廊下には生徒の声が戻り、教室には光が入り、東階段はただの階段として誰かに踏まれる。事件は少しずつ過去になっていく。

 だが、午前四時の証言は消えない。

 消してはいけない。

 成瀬はそう思いながら、家へ向かう角を曲がった。

 了



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ