第9話:森の対峙
俺が決意を固めて向かった先は、森の中心にある、月明かりに照らされた円形の広場だった。
ここは古くから「賢者の岩」と呼ばれる巨大な岩が鎮座しており、ゴブリンも人間も、なぜか互いに寄り付かない聖域のような場所だ。
だが、今夜だけは違った。
広場の一方、村へ続く道から、複数の松明の光が姿を現した。
バルトだ。彼は村の屈強な猟師たちを10人ほど引き連れていた。誰もが弓や槍で重武装し、その目にはゴブリンへの激しい憎悪が燃え盛っている。
「本当にゴブリンが魔法なんざ使うのか?」
若い猟師の一人が、緊張した面持ちで隣の男に尋ねる。
「バルトさんが見たって言うんだ、間違いない。どんな手を使ってくるか分からんぞ、気を引き締めろ」
年配の猟師が、槍を握りしめながら答えた。
彼は昔、ゴブリンの襲撃で弟を亡くしていた。
バルトは、そんな部下たちの会話を聞きながら、固く唇を噛み締めていた。
『アンナは騙されているだけだ。俺が、俺の手で助け出さなければ』
父親としての使命感が、彼の心を焦がす。
だが、同時に、猟師としての冷徹な憎しみが、ゴブリンという種族そのものの根絶を彼に囁いていた。この二つの激しい感情が、彼の内部で渦を巻いていた。
そして、広場のもう一方。
ゴブリンの巣穴へ続く獣道から、おびただしい数の松明が、ぬるりと闇に滲み出してきた。
族長だ。彼は血気にはやる20匹以上の同族を率いていた。錆びた剣や棘付きの棍棒を手に、獲物(俺)を追い詰めた興奮で、誰もが獣のように荒い息を吐いている。
広場の中央で、二つの勢力は鉢合わせした。
茂みが揺れ、現れたのが憎き人間の姿だと気づいたゴブリンたちの間に、驚きと怒りが走る。
闇の中から、獣じみたゴブリンの群れが現れ、猟師たちは息を呑み、即座に武器を構えた。
森の全ての音が、ぴたりと止んだ。
松明の火が風に揺れ、互いの顔に歪んだ影を落とす。誰もが唾を飲み込み、最初の一撃を放つきっかけだけを待っていた。
その静寂を、最初に破ったのは族長の咆哮だった。
「グルルルル……ガアアッ!」
彼はバルトたちを指差し、棍棒で地面を叩きつける。
その言葉はバルトたちには理解できない。だが、剥き出しの敵意と「邪魔だ、失せろ」という意思だけは、痛いほど伝わってきた。
『やはり、交渉の余地などないか』
バルトは、弓を構えながら怒鳴り返した。
「娘をどこへやった! あの化け物を差し出せ!」
もちろん、その言葉は族長には届かない。
だが、人間が武器を構え、リーダーらしき男が何かを叫んでいる。それは、ゴブリンにとって「攻撃」の意思表示に他ならなかった。
族長は、自分たちの粛清を人間が邪魔しに来たと完全に誤解した。
「グガアアアッ!」
彼は天に向かって雄叫びを上げ、部下たちに「かかれ!」と命じる。
人間とゴブリン。
互いの言葉を理解できず、ただ相手の敵意だけを読み取り、最悪の誤解を重ねていく。
憎しみと興奮が、臨界点に達しようとしていた。
その殺気立つ両者の中で、誰一人として気づいていなかった。
全ての憎悪の矛先である存在が、静かにその舞台へ登りつつあることを。
猟師たちが、弓に矢をつがえる。
ゴブリンたちが、棍棒を握りしめ、前傾姿勢になる。
まさに、血で血を洗う全面衝突が始まろうとした、その瞬間だった。
広場を見下ろす「賢者の岩」の上に、一つの影が、すっくと立った。
月明かりが、その姿を照らし出す。
それは、ボロボロの服をまとい、左肩から血を流し、それでも背筋を伸ばして立つ、一匹のゴブリン。
この場にいる全員が、血眼になって探していた存在――俺だった。
「「「……!」」」
全ての視線が、岩の上の俺一人に集中する。
「グルアッ!(裏切り者め!)」
族長が、地を這うような唸り声で俺を睨みつけた。
「あの時の化け物……!」
バルトが、憎悪を込めて弓を俺に向けた。
人間からの殺意。
ゴブリンからの殺意。
二つの純粋な憎悪が、嵐のように俺に叩きつけられる。
足が震えた。今すぐ逃げ出してしまいたいという本能が、全身で叫んでいた。
だが、俺はもう逃げないと決めたのだ。
アンナがくれた、「ゴブスケ」という名前を守るために。
俺は、両陣営の間に割って入るように、岩の上から広場の中央へと静かに降り立った。
人間とゴブリン、そのちょうど真ん中に。
そして、震える声で、しかし全員に聞こえるように、俺の覚悟を乗せた第一声を、放った。
「……やめろ」
たった一言。
ひどい発音の、カタコトの言葉。
だが、その声に含まれた切実な響きは、殺気一色だった者たちの心を、わずかに揺さぶった。
憎悪の嵐の中心に、静かな凪が生まれたかのように、人間も、ゴブリンも、確かに動きを止めたのだ。
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