第8話:人間とは何か
闇の中を、俺はただひたすらに走っていた。
左肩の傷口に木の枝が擦れ、焼けるような激痛が走る。空腹で目が眩み、喉はカラカラに乾ききっている。時折ぬかるみに足を取られ、泥水をすする羽目にもなった。
だが、足を止めることは許されない。
背後からは、二つの脅威が容赦なく迫っていた。
風に乗って聞こえてくる、ゴブリンたちの獲物を嬲る時の下品な笑い声。
すぐ近くの茂みから、人間の猟犬の荒い鼻息が聞こえた気がして、何度も肝を冷やした。
人間も、ゴブリンも、俺という一つの獲物を追って、この暗い森を包囲しつつあった。
体力も、そして魔力も、もう限界だった。
俺は、根が剥き出しになった巨大な古木の洞に転がり込み、息を殺して束の間の休息を取る。
暗く、冷たい洞の中で、荒い呼吸を繰り返す。
身体の痛みよりも、心が痛かった。
疲労困憊の頭に、アンナと過ごした短い日々が、あまりにも鮮やかな幻灯のように蘇っては消えていく。
特に、忘れられない光景があった。
あれは、彼女と会うようになって三日目のことだ。アンナは一本の木の枝を拾うと、地面にサラサラと不思議な記号を書き始めた。
『ゴブスケ、これ、なんて読むか分かる?』
彼女が書いたのは、『花』という文字だった。
『はな』
俺は、魔導書で覚えた知識で、そう答える。
『すごい! 正解!』
アンナは手を叩いて喜んだ。そして、自分の名前、村の名前、たくさんの言葉を俺に教えてくれた。
『じゃあ、これは?』
彼女は次に、『ありがとう』と書いた。
『……あ、りがとう』
俺が辿々しく発音すると、彼女は「うん、上手!」と花が綻ぶように笑った。
『感謝を伝える、とっても大事な言葉なんだよ』
ゴブリンの社会に、感謝を伝える言葉など存在しない。欲しいものは奪うだけ。
俺は、その温かい響きを持つ言葉が、たまらなく好きになった。
彼女は俺に、ただの知識ではなく、「心」の伝え方を教えてくれようとしていたのだ。
あの穏やかな学びの時間。他愛のない笑い声。それこそが、俺にとっての世界の全てだった。
『……俺は、ただ、人間になりたかっただけなのに』
その温かい思い出が、今の絶望的な状況との対比で、鋭いナイフのように胸に突き刺さる。
『なぜ、こんなことになったんだ?』
俺が憧れた「人間」とは、一体何だったのだろう。
それは、絵本の中にいた、正義感あふれる騎士や、知恵で人々を救う魔法使い。
それは、アンナが見せてくれた、無垢な優しさや、純粋な好奇心。
知性、文化、愛情……俺がゴブリンであるが故に持っていなかった、美しい概念の集合体。
それが、俺の目指した光だったはずだ。
だが、実際に俺が直面した「人間」の姿は、どうだ。バルトの、あの憎しみに満ちた瞳。
俺を「ゴブリン」という記号でしか見ていなかった。俺が何を考え、どう生きてきたかなど、知ろうともせずに「化け物」と決めつけ、問答無用で殺そうとした、偏見と拒絶。
その姿は、俺が忌み嫌ってきたゴブリンの姿と、何が違う?
族長もまた、俺を「裏切り者」という記号でしか見ていない。自分たちの常識から外れた俺を「化け物」と呼び、力で排除しようとする。
彼らは、自分たちの信じる『正義』や『秩序』のために、俺という個をためらいなく消そうとする。その点で、両者は全く同じじゃないか。
結局、人間もゴブリンも、同じなのかもしれない。
自分たちと違う異質なものを恐れ、憎み、理解しようともせず、ただ力で排除しようとする。
俺が夢見た、完璧で理想的な種族など、どこにも存在しなかったのだ。
……いや、違う。一人だけ、違った。
アンナだ。
彼女だけが、俺を『ゴブスケ』という名前で呼んでくれた。
ゴブリンでも人間でもない、ただの『ゴブスケ』として、向き合ってくれた。
その、あまりにも単純な事実に思い至った瞬間。
俺の中で、何かが音を立てて繋がる。
俺が本当に欲しかったのは、人間の身体や、人間の社会に所属することじゃない。
アンナがくれた、『ゴブスケ』という温かい居場所だったんだ。
俺は、「人間」という種族になりたいんじゃない。
アンナが信じてくれた、「ゴブスケ」という、たった一人の存在になりたいんだ。
遠くで、獣の吠える声がした。追っ手が、また近づいてきている。
これまでの俺なら、ただ怯え、さらに森の奥へと逃げ込んだだろう。
だが、今の俺は違った。
『もう、ただ逃げるのはやめだ』
アンナがくれた大切な名前を、俺自身が守らなくてどうする。
バルトの憎しみも、族長の怒りも、元をたどれば全て俺の存在に行き着く。ならば、俺がそこへ行かなければ、この悲しい連鎖は断ち切れない。
このままでは、アンナが悲しむ。バルトたちと、族長たちがぶつかれば、もっとひどいことになる。
『俺が、止めなければ』
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
肩の傷はまだ痛むが、心は不思議と軽かった。
向かうべき道は、もう定まっている。
俺は、逃げるのをやめた。
そして、二つの追っ手が最も近づいている森の中心部へと、自らの意志で、まっすぐに歩き出した。
絶望的な逃亡者から、運命に立ち向かう者へ。
闇を見据える俺の瞳に、もう迷いはなかった。
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