第7話:追われる者
「娘から離れろ、化け物!」
バルトの殺意に満ちた怒声が、森に響き渡る。
向けられた鏃が、俺の命を刈り取ろうと鈍い光を放っていた。
アンナが俺の背中の陰で「違うの!」と叫び続けているが、その声は父親の怒りの前ではあまりにも無力だった。
どうすればいい。何を言っても信じてもらえないだろう。
下手に動けば、矢が放たれる。だが、このままではアンナが危ない。
俺の思考が、焦りと絶望で完全に停止した、その時。
「お父さんのバカァッ!」
アンナが叫びながら、俺とバルトの間に割って入ろうと駆け出した。小さな体を盾にするように、両手を広げて俺を庇う。
「やめて! ゴブスケを傷つけないで!」
「危ない、アンナ!」
娘の思わぬ行動に、バルトの剛弓が一瞬だけ揺らいだ。
その、ほんの一瞬の隙。
それが、俺に残された唯一のチャンスだった。
ここで戦っても、誰も幸せにならない。アンナを悲しませるだけだ。
俺は彼女を危険に晒すわけにはいかなかった。
「アンナ、また……!」
別れの言葉か、再会の約束か。
自分でも分からない言葉をカタコトで叫び、俺は森の奥深くへと一気に駆け出した。
背後で、風を切る鋭い音が響く。咄嗟に身を捻ったが、鋭い痛みが左肩を走った。矢が、肉を浅く引き裂いていったのだ。
だが、俺は振り返らなかった。
ただひたすらに、アンナから、バルトから、俺たちの楽園だった場所から、遠ざかるために走り続けた。
◇
「大丈夫か、アンナ! どこか怪我はないか!?」
ゴブリンが闇に消えた後、バルトは娘の元へ駆け寄り、その小さな体をきつく抱きしめた。
だが、アンナは父親の腕を、力の限り突き放した。
「どうして信じてくれないの! ゴブスケは私を助けてくれたのに! 悪いゴブリンから、守ってくれたのに!」
彼女は泣きじゃくりながら、父親を睨みつけた。
その手には、お守りのように、俺があげた水晶のかけらが強く握られている。
「……あれは魔物だ。お前は、魔法で騙されていたんだ」
バルトは、自分に言い聞かせるように、硬い声で言った。
「もう二度とあんな化け物に会うな」
バルトの声は、もはやただの猟師長のものではなかった。かつて、何百という兵士を率いた指揮官の、冷徹で、揺るぎない「号令」の響きがあった。
その後、村に戻ったバルトは主だった者を集めた。
「……明日、村の若い衆を集める。持ち場を指示するから、夜明けと共に詰所に集合させろ。罠班は三つ。弓隊は二人一組で五隊。俺は追跡班を率いる。包囲網を形成し、対象を森の東側へ追い込む。あの森にいるゴブリンは、一匹残らず掃討する」
それは、村の秩序を守るというレベルを超えた、軍事行動の開始宣言だった。
◇
一方、ゴブリンの巣穴は、怒りと興奮で煮えくり返っていた。
逃げ帰った斥候が、族長の元へ駆け込み、見てきたこと全てを、恐怖と功名心で脚色しながら報告したのだ。
「『変なやつ』は、やはり裏切り者でありました!」
「人間の子供と馴れ合い、我々の知らぬ不気味な術を……そ、そうです、まるで人間の魔法使いのような術を使っておりました!」
「そこに屈強な人間の猟師も現れましたが、奴らは通じている様子! あの『変なやつ』は、人間どもに我々の情報を売り渡す気です!」
報告を聞き終えた族長は、玉座からゆっくりと立ち上がった。その巨躯から発せられる怒りは、巣穴全体の空気を震わせるほどだった。
「……裏切り者めが」
地を這うような低い声が、響き渡る。
「得体の知れぬ術を使い、群れの掟を破り、我らを最大の敵である人間に売るか。もはや、奴は我々の同族ではない」
族長は、棍棒を岩に叩きつけ、けたたましい音を立てた。
「あの『化け物』を捕らえろ! 生かして俺の前に引きずってこい! 裏切りの代償がどれほど高くつくか、その汚い身体に直接教えてやるわ!」
「「「グオオオオオオッ!!」」」
族長の命令に、ゴブリンたちが一斉に雄叫びを上げる。
武器を手に取り、松明に火を灯し、興奮した獣の群れが、次々と巣穴から森の闇へと飛び出していった。
◇
俺は、当てもなく森の奥へ、奥へと逃げ続けていた。
矢が掠めた左肩が、ズキズキと熱を持って痛む。
だが、それ以上に、心が痛かった。
アンナを危険に晒してしまった。彼女の父親に、完全な誤解を与えてしまった。
あの穏やかで、温かい時間は、もう二度と戻ってこない。
あれから何時間経っただろうか。
ふと足を止め、耳を澄ます。
気のせいではない。
遠くから、複数の音が聞こえてくる。
人間の村の方角から響く、森狩りを知らせる角笛の音。そして、ゴブリンの巣穴の方角から聞こえる、獲物を追う興奮した同族の雄叫び。
人間が、俺を殺そうと追ってくる。
ゴブリンが、俺を捕らえようと追ってくる。
俺は、両方の種族から追われる身となった。
この広い森のどこにも、俺の居場所は、もうない。
深い闇の中、俺はたった一人で立ち尽くし、途方に暮れていた。
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