第4話:本当の名前の意味
人間から初めてかけられた、感謝の言葉。
その響きは、疲れ切った俺の体に温かいマナのように染み渡っていった。
俺はただ、ぎこちなく頷き返すのが精一杯だった。
気まずいような、それでいてどこか温かい沈黙が、俺と少女の間に流れる。
森は夕闇に包まれ始め、木々の影が黒々と伸びていた。フクロウの鳴く声が、夜の訪れを告げている。
少女は自分の足が完全に治っていることを確かめるように、ゆっくりと立ち上がった。そして、俺の魔法の痕跡でも探すかのように、不思議そうな顔で自分の足首を何度も見ている。
やがて彼女は、散らばってしまった薬草を、一つ一つ丁寧にカゴへと拾い集め始めた。俺は体力が回復せず、それを黙って見ていることしかできない。
ひとしきり作業を終えた彼女は、意を決したように、カゴを抱えたまま俺に向き直った。
恐怖の色は、もう彼女の瞳からほとんど消えていた。そこにあるのは、純粋な好奇心と、たくさんの疑問符。
「あなたは……だれ?」
少女が、静かに尋ねる。
「……ゴブリン」
俺は、ありのままを答えた。
「どうして、助けてくれたの? ゴブリンは……人間を襲うって……」
村の大人たちから聞かされているのだろう、おとぎ話の魔物を見るような目で、彼女は続ける。
どう説明すればいい?
『窓から見えた君たちの世界が美しかったから』?
『絵本の騎士や魔法使いに憧れたから』?
そんな複雑なことを、今の俺の語学力で伝えられるはずもなかった。
俺は、必死に頭を働かせ、練習してきた単語を組み合わせる。
「……ケガ、してた。……危ない、から」
そして、一番の核心を、祈るような気持ちで口にした。
「……なりたい。……人間、に」
「にんげん、に?」
少女は、不思議そうに俺の言葉を繰り返した。
その意味を完全に理解できたわけではないだろう。だが、目の前のゴブリンが、少なくともそこらの野蛮な同族とは全く違う存在であることだけは、感じ取ってくれたようだった。
そして、彼女は最もシンプルな質問を口にした。
「あなたの、名前は?」
『来た!』
俺は心の中でガッツポーズをした。
ついに、この時が来たのだ。俺が考えに考え抜いた、完璧で知的な名前を、本物の人間に披露する時が。
俺は少しでも格好良く見えるように、へたり込んだままではあったが、ぐっと胸を張った。
そして、練習の成果を発揮すべく、できる限りはっきりとした発音で、高らかに名乗りを上げた。
「俺、名前、ある! その名も――ヒューマンッ、太郎!」
どうだ。完璧だろう。
人間を目指す俺に、これ以上ふさわしい名前があるだろうか。
俺は得意満面の顔で、少女の反応を待った。
少女は、きょとんとして、小首を傾げた。
「ひゅーまん……たろう?」
何度かその奇妙な響きを口の中で転がし、そして、こらえきれなかったように「ふふっ」と小さく吹き出した。
悪意のある笑いじゃない。面白いものを見つけた子供の、素直で、屈託のない笑みだった。
だが、俺にとっては致命的だった。
『な、なぜだ!? なぜ笑うんだ!? 人間と太郎だぞ!? これ以上なく完璧な組み合わせのはずなのに!』
俺の動揺が伝わったのだろう。
少女は「あ、ごめんなさい」と慌てて口元を押さえた。
そして、何かを考えるようにうーんと唸った後、名案を思いついた、という顔で俺に言った。
「うーん、なんだか呼びにくいから……そうだ、『ゴブスケ』はどうかな?」
「……ごぶすけ?」
予想の斜め上を行く提案に、俺は呆然と呟き返した。
ゴブスケ。ゴブリンのスケ……? 安直すぎるだろう。それに比べてヒューマン太郎の、なんと高尚で知的な響きか。
『ヒューマン太郎の方が、千倍は格好いいに決まっている!』
俺が不満そうな顔をしていると、彼女はにこりと笑って続けた。
「うん、ゴブスケ! あなたは、今日からゴブスケだよ!」
ゴブスケ、と。
彼女が俺を呼ぶ。優しい声で。笑顔で。
その瞬間、俺の中で何かが音を立てて変わった。
自分で付けた『ヒューマン太郎』は、ただの記号だった。誰にも呼ばれることのない、自己満足の鎧。
だが、彼女がくれた『ゴブスケ』は違う。
生まれて初めて、誰かが俺のためだけに与えてくれた、温かい繋がりそのものだった。
それが『名前』というものなのだと、俺は生まれて初めて理解した。
俺は、自分の新しい名前を、確かめるように小さく呟いた。
「……ごぶ、すけ……」
そして、アンナの顔をまっすぐ見て、ゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。
すっかり暗くなった森を、俺たちは並んで歩いていた。薬草に詳しい彼女が先に立ち、俺は少し後ろからついていく。
「村の近くは危ないから」と、彼女は森の出口が見える手前で立ち止まった。
「今日のことは、誰にも言わない。ゴブスケと私の、秘密だよ」
彼女は人差し指を口に当てて、悪戯っぽく笑う。
「また、会える? ここで」
俺は力強く、何度も頷いた。
一人、自分の洞窟へ帰る。
道すがら、俺は「ゴブスケ」という新しい響きを、何度も何度も口ずさんでいた。
『ヒューマン太郎』ほど知的ではないかもしれない。
だが、ずっと温かくて、キラキラ光る宝物のように、俺の胸を満たしていた。
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