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第32話:相棒の常識

 

 隠れ家に戻り、カシムの部屋の、古びた木の扉を閉めた瞬間。

 俺たちの、最初の計画は、完全に、跡形もなく砕け散った。


 その日から、俺たちの時間は、まるで淀んだ水のように、流れを止めてしまった。


「クソッ! クソクソクソッ!」

 カシムは、最初の数時間、部屋の中を獣のように歩き回り、壁を殴り、家具を蹴り飛ばして、怒りを撒き散らしていた。


「なんだってんだ、あのクソ衛兵どもは! 賢者エリアスの名前が聞こえなかったのか!? あの紋章が見えなかったのか!? 奴らは、全員、目が節穴か!」

 彼の怒りの矛先は、衛兵たちから、エリアス先生へ、そして、この理不尽な世界そのものへと、目まぐるしく変わっていった。


 俺は、そんな彼の狂乱を、ただ黙って見ていた。

 怒りは、やがて諦めへと変わる。


 二日目、三日目と経つうちに、カシムは、まるで魂が抜けたかのように、ベッドの上で、ただ天井を眺めて過ごすようになった。


「……もう、終わりだ……」

 彼が、ぽつりと呟いた。


「俺の、人生最大のチャンスだったのに……。ヴァレリウス様に会って、才能を認められて、宮廷魔術師になって……。全部、夢だったんだ……」

 その間、俺は、俺にできることをしていた。


 杖を、布で何度も何度も磨き上げる。先端のマナの結晶が、俺の心に応えるように、かすかな光を放つ。


 カシムが、埃をかぶったまま放置していた、数冊の魔導書を、隅から隅まで読み返す。

 狭い部屋の中で、マナを練る、地道な修行を繰り返す。


 俺たちの会話は、完全になくなった。

 部屋を支配するのは、カシムの、深い深いため息と、時折聞こえる、腹の虫の音だけだった。


 そして、五日が過ぎた朝。

 ついに、最後の食料だった、硬い黒パンの、最後の一切れが、俺たちの腹へと消えた。


 革袋の中には、もう、パンのかけら一つ残っていない。水差しの中の水も、あと僅かだ。


 飢え。


 俺が、ゴブリンとして生きてきた中で、最もよく知る、旧友のような感覚。

 それが、再び、俺たちの喉元に、その冷たい手をかけてきていた。


 カシムは、もう、ため息すらつかない。ただ、飢えと絶望で、虚ろな目をしている。

 俺は、静かに立ち上がった。


「カシム。食料が、ない」

 俺の言葉に、彼は、ゆっくりと億劫そうに顔を向けた。


「……ああ、知ってるよ。それで、どうするってんだ……」


「問題ない」

 俺は、杖を手に取り、言った。


「俺が、狩りをする」

 その言葉を聞いた瞬間、カシムの虚ろだった目に、一瞬だけ、正気の色が戻った。

 彼は、信じられない、という顔で、俺を凝視した。


「……狩り? おい、ゴブスケ。お前、今、なんて言った?」


「だから、狩りだ。食料を、取ってくる」

 俺は、至極真面目に、そして、当たり前のこととして、そう答えた。


 次の瞬間、カシムは、まるで狂ったように、笑い出した。

 最初は、か細い、引きつったような笑いだった。だが、それは、やがて、腹を抱えて、涙を流しながら転げまわるほどの、大爆笑へと変わっていった。


「は、はは……! 狩り!? 狩りだと!? はーっはっはっはっ! こいつは、傑作だ! 今年の王都で、一番面白い冗談だぜ!」

 一頻り笑い転げた後、彼は、涙を拭いながら、俺の肩を掴んだ。


「おい、ゴブスケ! お前の頭は、薬草で出来てんのか!? ここをどこだと思ってる! ゴブリン住んでる、あのクソ田舎の森じゃねえんだぞ! 王都だ! 人間が、何万もひしめき合ってる、石と、欲望の森なんだよ!」

 彼の言葉は、だんだんと、怒りの色を帯びていく。


「狩り!? 何を狩るってんだ!? 狩れるものといえば、屋根裏を走り回るネズミか、下水道を泳ぐ、病気だらけのドブネズミくらいのもんだ! ああ!? それとも、そこの広場で糞をしてる、平和ボケした鳩でも狙うか? 衛兵に捕まって、地下牢で残りの人生を過ごしたいって言うんなら、それもいいかもなァ!」

 カシムは、ついに、堪忍袋の緒が切れたように、叫んだ。


 彼は、ベッドの脇に放り投げてあった、空っぽの財布を掴むと、それを、俺たちの間の、テーブルに叩きつけた。

 革の擦れる、乾いた、虚しい音だけが響く。


「いいか、ゴブスケ! よく聞け! 人間、特に、都会の人間はな、こうやって生きるんだ!」

 彼は、その空っぽの財布を、指で何度も叩いた。


「これが、俺たちの武器だ! 俺たちの、牙であり、爪なんだよ! 腹が減ったら、これで、店で、食い物を買うんだ! 分かるか!? 野山を駆けずり回って、兎を追いかけるんじゃねえ! この、汚いコインを追いかけるんだ!」


 彼の剣幕に、俺は、ただ黙って、その空っぽの財布を見つめていた。

 エリアス先生は、魔法のことは、何でも教えてくれた。

 だが、こんなことは教えてくれなかった。


「俺たちはな、ゴブスケ……」

 カシムの声から、怒りの色が消え、代わりに、深い、深い疲労の色が滲み出ていた。


「ヴァレリウス様に会うとか、そんなデカい話をする、ずっと前に……。明日の朝、テーブルに並べる、パンの一切れを買うための、『銅貨』を、まず、狩らなきゃならんのだ……!」


 都会では、生きることは、狩りをすること。

 そして、その獲物は、「金」という名の、獣。


 俺は、生まれて初めて、人間社会あまりにも単純で、そして、あまりにも残酷な掟を理解した。

 俺は、自分の手の中の杖と、カシムの目の前にある、空っぽの財布を見比べた。


「……分かった。なら、狩ろう。その、『金』とやらを」


 俺のその言葉に、カシムは、呆然とした顔で、俺を見つめ返した。

 俺たちの、本当の意味での、王都でのサバイバルが始まったのだ。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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