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第31話:王宮の鉄壁

 カシムの隠れ家で迎えた、王都での最初の朝。

 窓から差し込む光は、森の中で浴びるそれとは違い、建物の影に遮られて、どこか頼りなかった。


 潜入の成功に、昨夜まではしゃいでいたカシムも、一夜明けた今、その顔には、これから対峙する現実の重みが、暗い影を落としていた。


「……無理だ」

 彼は、部屋の中を意味もなく歩き回りながら、頭を掻きむしった。壁際に積まれた、ギルドの規則集のような分厚い本を、バン!と叩く。


「見たか、ゴブスケ!『高位魔術師への謁見請願手続き』! 第一項、請願書を提出。第二項、階級五以上の魔術師からの推薦状を三通添付。第三項、予備審査の結果を待つ!通常は半年から1年……ふざけてる! これじゃ、手紙がただの紙切れになる前に、俺たちが干からびちまう!」


 昨日までの自信は、完全に消え失せていた。

 俺は、壁際で黙って新しい杖を磨きながら、彼の弱音を聞いていた。杖に刻まれたルーン文字が、俺の指先で、かすかに熱を帯びる。


 そして、ゆっくりと顔を上げると、懐から、エリアス先生に託された手紙を取り出した。


「……作戦は、単純だ。この手紙を、見せる」

 俺の、カタコトだが、迷いのない言葉に、カシムは


「はあ!?」と素っ頓狂な声を上げた。


「見せる!? 誰にだよ! 王宮の門の前で、『手紙でーす』って叫ぶのか!? 衛兵に笑われて、叩き出されるのがオチだ! 下手すりゃ、不審者として捕まるぞ! お前、昨日の門番たちの、あの目を見てなかったのか!」


「エリアス先生を、信じる」

 俺は、手紙に押された、賢者の紋章を指差した。


「この紋章は、ただの飾りじゃない。この杖、見ろ。バリン師が、作った。先生の命令で。先生の名は、力だ」

 俺は、杖を床にコン、と突いた。硬質な音が、狭い部屋に響く。


 俺のあまりに純粋な、そして、頑固な瞳に、カシムは言葉を失ったようだった。


 彼は、しばらく天井を仰いで何かを考えていたが、やがて、やけくそになったように、ガシガシと頭を掻いた。


「……ああ、もう分かった、分かったよ! やってやろうじゃねえか、その単純で、無謀な作戦とやらをよ! どうせ、他に妙案もねえんだ! 最悪、公開処刑か? それも、歴史に名を残すってもんだ! 行くぞ、ゴブスケ! 王宮に殴り込みだ!」

 カシムの自暴自棄な宣言に、俺は静かに頷いた。


 俺たちは、王都で最も壮麗な地区、王宮地区へと足を踏み入れた。


 下町の、人々の活気と生活の匂いに満ちた喧騒とは、別世界のようだった。塵一つない、太陽の光を反射して目を痛めるほど白い大理石の石畳。幾何学的に完璧に刈り込まれ、一分の隙もない庭園。道の両脇には、魔力を帯びた水晶が街灯として、昼間だというのに淡い光を放っている。


 行き交う人々も、皆、仕立ての良い絹の服を着た貴族や、威厳のあるローブをまとった高位の役人ばかりだ。彼らは、俺たちのことなど存在しないかのように、その視界にすら入れていない。


 そして、その道の先に、目的地である、王立魔術師ギルドの壮麗な建物がそびえ立っていた。

 入り口を守っていたのは、街の門にいた衛兵とは、明らかに格が違った。


 全身を、魔法的な輝きを放つ銀と青のプレートメイルで固め、その表面には、傷一つない。彼らは、まるで石像のように微動だにせず、その背には、王家の紋章が誇らしげに刻まれている。近衛魔術師。王宮でも、エリート中のエリートだ。


 カシムの顔が、みるみるうちに青ざめていく。

 だが、もう後戻りはできない。


 彼は、震える足で、一歩前へ出た。俺は、言われた通り、三歩下がった位置で、フードを目深に被り、気配を殺す。


「わ、私は、魔術師ギルド所属のカシムと申す者!」

 カシムの声が、緊張で上ずる。


「宮廷魔術師長ヴァレリウス閣下に、緊急かつ、個人的な、親書をお届けに参った!」

 近衛魔術師の一人が、俺たちを、道端の石ころでも見るかのような、一切の感情を排した目で見下ろした。


 長い、侮辱的な沈黙の後、その唇が、かすかに動き、冷たい言葉を紡ぐ。


「宮廷魔術師長閣下は、お約束のない者とは会われん」


「し、しかし、これは、かの賢者エリアス卿からの親書で……!」

 カシムが、必死に食い下がる。


 もう一人の衛兵が、まるでこちらの会話が聞こえていないかのように、短く、鋭い笑いを漏らした。


「賢者エリアス、だと? 小僧、その名を騙れば、ただでは済まんぞ」


「そ、そんな……! この紋章を見ろ! これが、賢者の……!」

 カシムが、懐から手紙を取り出そうとした、その時。


 最初の衛兵が、腰の剣の柄に、ガチリと手をかけた。鞘と剣が擦れる、乾いた、嫌な音が響く。


「それ以上近づけば、公務執行妨害とみなす。――失せろ」

 その声には、一切の感情がなかった。


 ただ、有無を言わせぬ、絶対的な拒絶。

 それは、エリアス先生の権威ですら、全く通用しない、王都の「ルール」という名の、鉄壁だった。


 俺とカシムは、何もできなかった。

 ただ、その場から、すごすごと引き下がるしかなかった。

 すれ違う貴族や魔術師たちが、俺たちを、好奇と侮辱の目で見て、ひそひそと笑っている。


 隠れ家に戻るまで、俺たちは、一言も口を利かなかった。

 カシムの部屋の、古びた木の扉を閉めた瞬間。

 俺たちの、最初の計画は、完全に跡形もなく砕け散ったのだ。


 俺は、手の中の、届けることすらできなかった手紙を、ただ呆然と見つめていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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