第30話:相棒の疑念
巨大な城門をくぐり抜けた瞬間、俺は、これまで経験したことのない、音と、匂いと、そして、人の気配の奔流に飲み込まれた。
ここが、王都シルバーストリーム。人間の世界の、中心。
「おい、相棒! ぼさっとするな! ここからが本番だぜ!」
隣で、カシムが興奮したように囁いた。衛兵の前で見せたハッタリの成功で、彼は完全に有頂天になっている。
「『秘密の任務』は、まだ始まったばかりだ。行くぞ!」
カシムは、慣れた足取りで、大通りから、蜘蛛の巣のように広がる裏路地へと入っていく。
やがて、俺たちがたどり着いたのは、古びた薬草屋の二階にある、小さな部屋だった。
「どうだ、俺の城だ! まあ、少し散らかってはいるがな!」
カシムが、芝居がかった仕草でドアを開ける。
そこは、城というには、あまりにも狭く、そして、混沌とした部屋だった。
部屋に入るなり、カシムはベッドに大の字になって、天井を仰いだ。
「はーっ! 疲れた! そして、最高にスリリングだったぜ! あの熊みたいな衛兵マードックの、間抜け面を見たか!? 俺様の名演説と、エリアス卿の威光の前には、赤子同然だったがな!」
彼は、一人でぶつぶつと、今日の勝利を反芻し、高らかに笑っている。
俺は、そんな彼の狂乱を、ただ黙って見ていた。
俺は、部屋の唯一の窓から、外を窺った。
ここからでも、王宮の、白亜の塔の先端が見える。
あの場所に、ヴァレリウスはいる。
俺は、ようやくスタートラインに立ったに過ぎない。
俺はカシムの方へ向き直ると、杖で床をトン、と叩いた。
そして、懐からエリアス先生の手紙を取り出し、彼に見せつける。
「……それで、これからどうする?」
俺の、その冷静な一言に、カシムの独演会は、ぴたりと止んだ。
「ああ、そうだったな。これからだ」
彼は、ベッドから身を起こすと、興奮で火照っていた顔を冷ますように、深呼吸を一つした。
そして、ようやく、冷静な思考を取り戻したようだった。
「よし、作戦を練るぞ。俺たちには、この手紙がある。エリアス卿の、紋章入りの手紙がな。あの門番どもですら、最終的には逆らえなかった、強力な……」
そこまで言って、カシムの言葉が、突然、止まった。
彼は、自分の言った言葉を、頭の中で反芻しているようだった。
「……あの門番どもですら、逆らえなかった……?」
彼の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「……待てよ」
カシムは、ゆっくりと俺の方へ振り返った。その顔から、先ほどまでの陽気な表情は、完全に消え失せていた。
「おい、ゴブスケ。……なんで俺たちは、あんな命懸けのハッタリをかまして、街に入ってきたんだ?」
「……会う、ためだ」
俺がそう答えると、カシムは「違う!」と叫んだ。
「そうじゃねえ! この手紙と紋章が、あの石頭の衛兵どもを黙らせるほどの力があるなら、なぜ、最初からそれを堂々と提示しなかった!? なぜ、『極秘任務だ』の『爆発する薬だ』の、回りくどい芝居をする必要があったんだ!?」
彼は、俺の胸倉を掴まんばかりの勢いで、詰め寄ってきた。
「答えろ、ゴブスケ。これは、一体何の冗談だ? エリアス卿の、何かの試練か? それとも……」
彼の頭の中は、疑問符で埋め尽くされていた。
『なぜだ!? なぜエリアス卿が、ゴブリンを使者にする……!? ヴァレリウス様に、こんな怪しげな方法で!? まさか、俺は、とんでもないことに巻き込まれているんじゃ……?』
自分のハッタリが、本物の「権威」の力で通ってしまった。
その事実に、彼は、自分の理解を超えた、巨大な何かの存在を感じ取っていた。
俺は、エリアス先生に言われた言葉を、そのまま伝えた。
「……先生は、言っていた。『どうやって渡すかは、お前の試練だ』と」
その言葉を聞いた瞬間、カシムは、全身から力が抜けたように、その場にへたり込んだ。
「……試練……だと……?」
彼は、天を仰いで、乾いた笑いを漏らした。
「は、はは……」
だが、次の瞬間、彼は、何か、とんでもない真実に思い至ったかのように、カッと目を見開いた。
「……そうか!」
カシムが、弾かれたように立ち上がる。
その顔は、もはや恐怖や混乱ではなく、恍惚とした、とんでもない勘違いの光に満ちていた。
「そうか、そうだったのか! あのエリアス卿が、この俺を……!」
彼は、俺の両肩を掴み、興奮で体を震わせた。
「分かったぞ、ゴブスケ! あの賢者様は、お前を試したんじゃねえ! この俺を試したんだ!」
「……お前を?」
「そうだ!『ゴブリンを伴ってヴァレリウス卿に会う』という、この世で最も難易度の高い試練を、この三流魔術師カシムに与え、俺がそれをどう乗り越えるか、試しておられたんだ! あの熊みたいな衛兵とのやり取りも、全て、天の上の書斎から、水晶玉か何かで見て、俺の才能に感嘆しておられたに違いねえ!」
俺は、完全に舞い上がっている新しい「相棒」を前に、不思議そうな顔で、首を傾げた。
『……何言ってんだ?』
俺には、カシムがなぜそれほど興奮しているのか、全く理解できなかった。
偉大な師が、弟子に試練を与える。それは、当然のことではないのか?
なぜ、彼がそんなに興奮する?
「はーっはっは! やってやろうじゃねえか!」
カシムは、一人で盛り上がっていた。
「見てろよ、エリアス様! ヴァレリウス様! このカシム、必ずや、この試練、乗り越えてみせますぜ!」
彼は、俺の肩を馴れ馴れしくバンバン叩いた。
「というわけで、相棒! 俺たちは、運命共同体だ! まずは、どうやって王宮に潜り込むか、作戦会議だ!」
俺は、彼のその背中を見つめた。
新しい相棒との間に横たわる、決して埋まることのない価値観の溝に、まだ気づいていない。
ただ、その奇妙な光景を前に、手の中の杖を、強く握りしめた。
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