第3話:禁忌の魔法、禁忌の友情
時が、止まった。
少女の瞳が、信じられないものを見るかのように、そして次の瞬間には、絶望的な恐怖に染まって大きく、大きく見開かれていく。
息を呑む音が聞こえた。小さな悲鳴が喉の奥で詰まり、声にならない叫びの形に唇が震えるのを、俺はただ、立ち尽くして見ていることしかできなかった。
『……あぁ、そうか』
頭のどこかで、分かってはいた。
俺がどれだけ人間になろうと努力しても、俺がどれだけ知性を磨いても、この緑色の肌と醜い容姿を持つ限り、人間にとってはただの「ゴブリン」。
恐怖と、憎悪と、討伐の対象でしかない。
その現実を、少女の純粋な恐怖の瞳が、何よりも雄弁に突きつけてきた。
ズキリ、と胸の奥が痛む。
後ずさろうとする少女が、怪我をした足の激痛に顔を歪める。その目には涙が浮かんでいた。
「…こ、こないで……」
絞り出すような声に、俺はハッと我に返る。
違う。感傷に浸っている場合じゃない。俺がここに突っ立っているだけで、彼女をさらに怖がらせてしまう。
『落ち着け、ヒューマン太郎。紳士的に振る舞うんだ』
俺はまず、相手を安心させるために、本で読んだ知識を総動言した。
地面を擦るように、一歩、また一歩と後ろへ下がり、彼女と距離を取る。
そして、武器を持っていないこと、敵意がないことを示すために、両の手のひらを広げて見せた。膝の関節が軋む音を殺し、その場に膝をついた。
できるだけ、穏やかな声色を意識して、練習してきた言葉を必死に絞り出す。
「……ケガ、イタイ? ……だ、だいじょうぶ」
喉がうまく震えず、我ながらひどい発音だ。
だが、言葉は確かに届いたらしい。
少女は、ゴブリンが人間の言葉を話したという事実に、さらに混乱した表情を見せた。恐怖は薄れるどころか、得体の知れない存在への畏怖に変わっていく。
「いやっ……! 来ないで……お父さん……!」
言葉は、完全に逆効果だった。
どうすればいい。何をすれば、俺が敵ではないと伝わる?
ジェスチャーか? 薬草を拾い集めて渡すか? いや、そんなことをしている間に、彼女の容態が悪化するかもしれない。足は紫色に腫れ上がっているように見える。骨が折れている可能性だってある。
『……もう、あれしかない』
言葉が通じない以上、行動で示すしかない。
そして、今の俺が、自分の人間性を証明できる唯一の手段。
――魔法。
今まで一度たりとも成功したことのない、初級治癒魔法。
博打だ。失敗すれば、俺はただのマヌケなゴブリンとして、彼女に恐怖を与えただけで終わる。
だが、今ここで成功させなければ、この少女は助からない。俺は、俺が憧れた物語の登場人物には、永遠になれない。
『やるしかない……!』
俺は覚悟を決めた。
少女に向かって、もう一度、必死に言葉を紡ぐ。
「こわくない。……だいじょうぶ。…マホウ、つかう」
そう言うと、俺はゆっくりと目を閉じ、意識を集中させた。
雑念を払え。恐怖を、焦りを、全て心の外へ追い出すんだ。思い浮かべるのは、あの絵本で見た魔法使いの姿。困っている人を助ける、賢者の姿。
そして、何よりも強く、心に願う。
『助けたい。この子を、助けたい』
純粋な、ただそれだけの想い。
それが、最後の鍵だったのかもしれない。
体中のマナが、胸の中心に集まり、温かいエネルギーの塊となって腕を伝っていくのが分かった。
これまで感じたことのない、力強い感覚。
俺は目を開き、少女の怪我をした足首に、そっと手のひらをかざした。
「《ヒー……ル》」
自分でも驚くほど、はっきりとした発音だった。
次の瞬間、俺の手のひらから、淡く、しかしどこまでも優しい光が溢れ出した。
光は生き物のように少女の足首を包み込み、傷ついた部分へとしみこんでいく。
少女は、目の前で起こる奇跡に、声も出せずに目を見開いていた。
やがて光が収まった時、俺はどっと全身から力が抜けるのを感じた。
初めての魔法の成功は、俺の体力とマナをごっそりと奪い去っていったのだ。俺はその場にへたり込み、荒い息をつくことしかできない。
少女が、おそるおそる自分の足に触れる。
さっきまで焼けつくようだった激痛が、嘘のように消えていた。腫れも引いている。
信じられない、という顔で、少女は自分の足と、疲れ果てて座り込んでいる俺の顔を、何度も見比べた。
恐怖はまだ、その瞳の奥に残っている。
だけど、その感情の中に「混乱」と「驚き」、そして、ほんのわずかな「興味」が芽生えているのが、俺には分かった。
ゴブリンが、人間の言葉を話し、不思議な魔法を使い、自分の怪我を治してくれた。
今まで村の大人たちから聞かされてきた「ゴブリンは凶暴で邪悪なだけの魔物だ」という常識が、目の前の出来事によってガラガラと音を立てて崩れ始めている。
長い、長い沈黙の後。
少女が、震える声で、おそるおそる口を開いた。
「……あ……りがとう……?」
その、たった一言。
人間から初めてかけられた、感謝の言葉。
俺は疲れ切った顔で、それでも胸に込み上げてくる熱いものを感じながら、精一杯、ぎこちなく頷き返した。
その瞬間、俺はただのゴブリンではなく、確かに『ヒューマン太郎』としての一歩を、踏み出せたような気がした。
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