第29話:虎の威を借るゴブリン
翌朝。
夜明け前の、まだ薄暗い森の中で、俺は約束の場所である王都の西門近くに潜んでいた。
果たして、あの男は本当に来るのだろうか。
疑念が、胸をよぎる。
やがて、一人の男が、やけに芝居がかった足取りで姿を現した。
カシムだ。
彼は、いつもの派手なローブではなく、フードのついた、より実用的な旅人のマントを羽織っていた。真剣な表情を作り、しきりに周囲を警戒しているが、その瞳が興奮で爛々と輝いているのを、俺は見逃さなかった。
「来たか、相棒!」
カシムは、俺の姿を見つけると、声を潜めて言った。
しかし、その声は妙によく通った。
『相棒……』
その言葉が、俺の胸に奇妙な響きを残した。
出来損ない。役立ず。裏切り者。化け物。
そうとしか呼ばれてこなかった俺にとって、その馴れ馴れしくも、どこか対等な響きを持つ言葉は、どう受け止めていいのか分からなかった。ただ、ほんの少しだけ、胸が温かくなるような、むず痒いような、不思議な感覚だった。
カシムは、そんな俺の内心など知る由もなく、続けた。
「舞台の準備は整った。今日、俺たちの、いや、王国の歴史が動く日になるぜ!」
『……大げさな男だ』
俺は呆れつつも、彼の計画を聞くことにした。
「いいか、ゴブスケ。これは、二人の偉大な魔法使いの、歴史的な会談に関わる、極秘任務だ」
カシムは、したり顔で語り始めた。
「我々の行動は、一挙手一投足、全てが秘密裏に行われなければならない。お前のそのローブはいいが……顔が問題だ」
彼は、俺が被っているフードを、さらに深く引き下げた。
「これでも足りん。念には念を入れよう」
彼は、どこからか、分厚くて大きな黒いスカーフを取り出すと、俺の顔の下半分にぐるぐると巻き付けた。これで、フードの影から覗くのは、俺の丸眼鏡だけになった。
「よし。これなら、ただの『怪しい助手』だ」
カシムは満足げに頷いた後、俺の緊張を察したのか、自信満々に胸を叩いた。
「何をそんなに心配している! 安心しろ、相棒。今日の西門の当番は、顔なじみのボリスだ。石頭だが、少しばかり貸しがあってな。俺の顔に免じて、フリーパスよ。大丈夫だ、問題ない」
彼のその根拠のない自信に、俺の不安は少しも和らがなかったが、他に選択肢はない。
俺は、彼の芝居がかった指示通り、ガラクタの詰まった麻袋を背負い、彼から三歩下がった位置についた。
俺たちは、街の門が開くのを待ち、朝一番に街へ入ろうとする商人や、農夫たちの列に紛れ込んだ。
初めて、人間の集団の中に、身を投じる。
フードとスカーフで視界は悪い。聞こえてくるのは、人々のざわめき、馬のいななき、荷車の軋む音。鼻をつくのは、汗の匂い、家畜の匂い、そして、パンの焼ける香ばしい匂い。その全てが、俺の五感を激しく刺激する。
カシムは、そんな周囲の視線を、むしろ楽しむかのように、わざと胸を張って歩いていた。
やがて、俺たちの番が来た。
カシムが「よう、ボリス! 今日の……」と、馴れ馴れしく声をかけようとした、その時。
彼の前に立ちはだかった衛兵は、ボリスではなかったようだ。
それは、カシムより頭一つ分は背が高く、頬に古い傷跡を持つ、まるで熊のような大男だった。その目は、一切の感情を映さず、ただ氷のように冷たく、俺たちを見下ろしている。
カシムの馴れ馴れしい笑顔が、顔に張り付いたまま、ぴしりと固まった。
俺の心臓が、大きく跳ねた。
計画が、最初の第一歩で、崩れた。
「……止まれ」
熊のような衛兵の声は、冬の風のように冷たかった。
「身分と、目的を言え。……そっちの、怪しげな助手は何だ?」
その瞬間、俺の頭に、最悪の可能性がよぎった。
『……まずい。こいつのハッタリは、本物の衛兵相手に通用するのか?』
目の前の衛兵の、厳しい目つき。カシムの額に、すっと浮かんだ汗。
『ここで恐怖に負けて、俺を突き出すんじゃないだろうな?「こいつに脅されていました」とでも泣きつけば、自分の罪は軽くなる。こいつなら、やりかねない……!』
俺は、ローブの下で、杖を握る手に力を込めた。
だが、カシムは、俺の想像の斜め上を行く役者だった。
彼は、凍り付いていた笑顔を、一瞬で、尊大で自信に満ちた笑みへと切り替えると、まるで舞台の幕が上がったかのように、堂々と胸を張った。
「これは失敬、衛兵殿!」
彼は、懐から、三流魔術師であることを示す、くたびれた身分証を取り出して見せた。
「私は、王宮魔術師ギルド所属、カシムと申す者! こちらの助手と共に、緊急の納品任務の最中でしてな!」
「納品だと? その怪しい袋がそうか。中身を見せろ」
「おっと、それはいかん!」
カシムは、俺が持つ麻袋を、そして俺自身を両手で庇うようにして大げさに叫んだ。
「これは、宮廷魔術師長ヴァレリウス様が直々にご所望された、非常にデリケートな魔法薬の素材! 光に弱く、少しの衝撃で大爆発しかねない代物でしてな! もし、この門が吹き飛んでもよろしければ、どうぞお開けください!」
カシムのハッタリは、留まるところを知らなかった。
彼は、ダメ押しとばかりに、エリアス先生の手紙を、衛兵の目の前で、これ見よがしにちらつかせた。
「そして、これは、かの賢者エリアス卿から、ヴァレリウス様個人に宛てられた、親書です。衛兵殿、我々をここで足止めさせることが、いかなる結果を招くか……お分かりですかな?」
エリアスと、ヴァレリウス。
二人の伝説の名前。
熊のような衛兵は、さすがにその名前に反応し、眉をひそめた。だが、彼はそれでも、疑いの目を緩めない。
「……分かった。だが、その助手のフードとスカーフを取れ。顔を確認する」
「そ、それは……!」
さすがのカシムも、これには言葉に詰まった。
万事休すか。
そう思った、その時だった。
「――おい、マードック。何を油を売っている。さっさと列を進めんか」
衛兵の後ろから、隊長らしき、年配の男が声をかけた。
彼はカシムの顔を見ると、心底うんざりしたように言った。
「なんだ、またお前か、カシム。……いいから、行かせてやれ。こいつのハッタリに付き合っているだけ、時間の無駄だ」
どうやら、カシムの悪名は、別の意味で衛兵たちの間で有名らしかった。
マードックと呼ばれた熊の衛兵は、不満そうに舌打ちをすると、乱暴に手を振った。
「……ちっ。行け!」
俺たちは、ゆっくりと門を通過した。
背後で門が閉まる音が聞こえた時、俺は、自分が息をするのも忘れていたことに気づいた。
俺の目の前には、王都シルバーストリームの、どこまでも続く、巨大な街並みが広がっていた。
石畳の道。ひしめき合う、大勢の人間たち。
俺は、ついに、この巨大な壁の内側へと、足を踏み入れたのだ。
不可能の、第一歩。
それは、達成された。
だが、フードの奥で、遠くに見える白亜の王宮の塔を睨みつけながら、俺は理解していた。
本当の試練は、まだ始まったばかりなのだと。
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