第28話:賢者の使い
俺は、カシムが毎日通る、森の中の小道を狩場として選んだ。
彼が一人で、成果の出ない魔法練習に悪態をついている、まさにその時だった。
俺は、物音一つ立てず、彼の背後に回り込んだ。
「……お前の練習、見ていた」
俺が、静かに声をかける。
カシムは「ぎゃああ!?」と、裏返った悲鳴を上げて飛び上がった。まるで、尻尾を踏まれた猫のようだった。
振り返り、俺の姿を認めた彼の顔が、恐怖と驚愕に引きつる。
「ゴ、ゴ、ゴブリンだと!? なぜ、こんなところに……!」
彼は、震える手で杖を構え、俺が知る限り、彼の最大火力であろう呪文を叫んだ。
「な、舐めるなよ、化け物! 我が名はカシム! 王宮にその名を轟かせる魔術師だ! く、くらえ! フレイム・ボール!」
情けないほど揺らめいた火の玉が、俺に向かって飛んでくる。
俺は、ため息を一つついて、手にした『マナの結晶の杖』を、軽く一振りした。
杖の先端の結晶が、淡い光を放つ。それだけで、カシムの火の玉は、まるで風に吹き消される蝋燭のように、あっけなく霧散してしまった。
「なっ……!? 呪文もなしに、俺の魔法を……!?」
カシムは、自分の魔法が容易く無効化されたことに、言葉を失っている。
喋る。そして、魔法を使うゴブリン。ありえない。目の前の存在が、彼のちっぽけな常識を、音を立てて破壊していく。
『化け物……いや、悪魔か何かの類か!?』
恐怖が、彼の思考を支配する。
俺は、彼の喉元に、杖の先端を突きつけた。
そして、ローブの懐から、エリアス先生の紋章が押された手紙を、彼の目の前に突き出した。
「俺は、エリアス先生の使いだ」
「エ、エリアス……!?」
伝説級の大魔術師の名前を聞いて、カシムの恐怖に満ちた思考が、一瞬だけ停止した。
エリアス。あの人間嫌いで有名な、伝説の賢者。
その使いが、なぜ、ゴブリン?
混乱が、恐怖を上回っていく。
そして、混乱の次にやってきたのは、彼という人間の本質――強欲なまでの、野心だった。
『待て。待て待て待て。これは、おかしい。だが、もし、もしこれが本物なら……? 喋るゴブリン。エリアス卿の使い。これは……とんでもない秘密。とんでもない、チャンスじゃないのか……?』
彼の目の色が、恐怖から、ギラギラとした打算の色へと変わっていくのを、俺は見逃さなかった。
「……ほう。あの伝説のエリアス卿がねえ」
カシムは、数秒前までのパニックが嘘のように、芝居がかった口調で言った。震えを隠すように、わざと尊大に振る舞っている。
「面白い。で、その偉大な賢者様が、ゴブリンを遣いによこして、この私に一体何の用だ? まさか、私の偉大なる才能を見込んで、弟子にしたいとでも言いに来たのか?」
プライドの高さと、ハッタリ。やはり、俺が見込んだ通りの男だ。
俺は、彼の口車には乗らず、単刀直入に用件を伝えた。
「これを、ヴァレリウス様に届ける。お前、手伝え」
「ヴァレリウス様に? エリアス卿が?」
カシムの目が、さらに大きく見開かれた。
伝説の賢者と、現人神と謳われる宮廷魔術師長。二大巨頭の名前。
彼の野心が、その顔に隠しきれないほど、滲み出ている。
「……なるほどな。世紀の会見、というわけか。だが、なぜ私なんだ? エリアス卿ほどの御仁なら、もっとマシな使いがいただろうに」
彼は、探るような目で俺を見る。
俺は、賭けに出た。
「先生は、知っている。お前が、ヴァレリウス様に会いたいこと」
カシムは、図星を突かれて、一瞬、言葉に詰まった。
彼の頭の中は、疑問符で埋め尽くされていた。
『なぜだ!? なぜエリアス卿が、俺なんかの野心を知っている……!? ゴブリンを使者にするなんて、一体何の策だ……!? 何が何だか、まるで、意味が分からん……!』
だが、ここで「分からない」と認めてしまえば、目の前のこの奇妙なゴブリンに主導権を握られる。
カシムは、ハッタリを打った。
彼は、全てを理解した大物のように、腹を抱えて高らかに笑い出した。
「はっはっは! なるほど、なるほどな! そういうことか! いやはや、あのエリアス卿も、実に面白いことを考える!」
俺には、彼の額に浮かんだ一筋の冷や汗が、はっきりと見えていた。
「いいだろう。乗った」
カシムは、笑いを収めると、真剣な(ように見える)顔で言った。
「だが、勘違いするなよ、えー……」
「ゴブスケだ」
「そうか、ゴブスケか。いいか、ゴブスケ。俺は、あんたの使い走りになるつもりはない。これは、俺とあんたの『共同事業』だ。そうだろ?」
彼は、俺の肩を、馴れ馴れしく叩いた。
「この任務が成功した暁には、報酬は、きっちり山分けさせてもらうぜ? ヴァレリウス様とエリアス卿、両名からの、推薦状くらいは貰わないと、割に合わんからな!」
俺は、差し出された彼の手を、杖を持ったまま、軽く叩いた。
それが、俺たちの、危険な契約成立の合図だった。
契約が成立すると、カシムは上機嫌で、「じゃあ、相棒! 明日の夜明けに、街の西門で落ち合おうぜ!」と言って、鼻歌混じりで去っていった。
俺は、その背中を見送りながら、彼に叩かれた肩に、そっと触れた。まだ、ジンジンと痺れるような、奇妙な感覚が残っている。
『……こいつ、本当に人間か?』
俺がこれまで見てきた人間は、俺に恐怖するか、憎悪するかの二択だった。
師匠の名前を出したからといって、これはうまくいきすぎじゃないか。
『……ゴブリンの俺に、平気で触れてくるなんて』
その馴れ馴れしさは、俺にとって、どんな敵意よりも、ある意味で不気味に感じられた。
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