第26話:王都の壁と『役割』の価値
夜の森を、俺は一人で歩いていた。
手には、バリン師が鍛えてくれた『マナの結晶の杖』が、確かな重みをもって握られている。
杖の先端にはめ込まれた結晶が、俺の意志に呼応して、周囲の闇を払う穏やかな光を放っていた。
以前の俺なら、夜の森を行軍するなど、自殺行為に等しかった。
ほんの数分、光の玉を灯すだけでも、けっこうな集中力とマナを消耗したからだ。闇に潜む捕食者の気配に、常に怯えていなければならなかった。
だが、この杖を手にしてから、全てが変わった。
杖にマナを流し込むと、柄に巻き付いた金属のルーン文字が、微かに熱を帯びる。
これまで俺の体の中で奔流のように荒れ狂っていたマナが、杖を通して、まるで澄んだ小川の流れのように、滑らかに、そして正確に、先端の結晶へと注がれていく。
杖は、俺の不完全な魔法を補い、増幅し、安定させてくれる、最高の補助機関だった。
この光なら、何時間でも灯し続けられる。
遠くで、夜行性の獣の遠吠えが聞こえた。
俺は杖を握る手に、少しだけ力を込める。すると、光の玉の輝きが、警告するように、すっと強くなった。
獣は、それ以上近づいてはこない。
恐怖はない。そこにあるのは、自らの力への、確かな信頼感だった。
この新しい相棒と共に旅を続けること、一月。
ついに俺は、その威容を眼前に捉えた。
王都、『シルバーストリーム』。
白い城壁が、地平線の端から端まで続いている。噂に聞いていた通り、その壁は太陽の光を浴びて、まるで銀色の川の流れのように、眩いばかりに輝いていた。数えきれないほどの塔や建物がひしめき合い、その中心には、天を突くように白亜の王宮がそびえ立っている。
美しい。
俺がずっと夢見てきた、人間文化の頂点。
だが同時に、そのあまりの巨大さと威圧感に、俺は息を呑んだ。
俺はすぐには近づかず、数日間、街を囲む森の中に潜んで、様子を窺うことにした。
それは、エリアス先生に叩き込まれた、慎重さだった。
朝、巨大な城門が開くと、人の波が街の中へと吸い込まれていく。
門の前には、全身を鋼の鎧で固めた衛兵たちが、槍を手に微動だにせず立っていた。彼らは、街へ入る全ての人間の荷を改め、身分を確かめている。野菜を積んだ荷車には、隠れている者がいないか、長い槍を容赦なく突き刺していた。
俺は、自分の緑色の肌と、尖った耳を、改めてローブの奥に隠した。
ある日の午後、俺は見てしまった。
森のはずれで、一匹のはぐれゴブリンが、木の実を探してうろついていた。俺とは違う、痩せて、知性のない、ただのゴブリンだ。
それに気づいた巡回中の衛兵たちは、まるで面白い狩りでも見つけたかのように、笑い声を上げながら、そのゴブリンを包囲した。
命乞いをするような鳴き声を上げるゴブリンに、彼らは遊びのように矢を射かけ、最後は槍で、その命をあっけなく奪った。
まるで、害虫でも駆除するかのように。
俺は、茂みの中で、息を殺して震えていた。
絶望が、再び俺の心を覆い尽くす。
無理だ。
この街に入るなど、不可能だ。
この杖で、俺は強くなったはずだった。だが、この圧倒的な『人間社会』という壁の前では、俺の魔法など、赤子の玩具に等しい。
その夜、俺は焚き火の前で、膝を抱えていた。
手の中の杖が、虚しく光を反射している。この力に、何の意味がある?
諦めの気持ちが、毒のように心を蝕んでいく。
その時、俺の脳裏に、あの光景が蘇った。
商業都市クロスロード。市場の広場。
フードが脱げ、正体がバレた、あの絶望の瞬間。
人々が叫び、剣に手をかけた、あの殺意に満ちた空気。
『――あの時、彼らは俺を殺そうとした。躊躇いもなく』
だが、殺されなかった。なぜだ?
『エリアス先生が、俺を『使役魔』と呼んだからだ』
そうだ。
あの瞬間、広場の人々の思考は、確かに停止した。
目の前にいるのが「ゴブリン」であるという事実は変わらない。だが、「駆除すべき害獣」というカテゴリーから、「高名な魔法使いの所有物」という、別のカテゴリーへと、彼らの認識が上書きされたのだ。
彼らは、ありのままの俺を見ていたわけじゃない。最初から最後まで、彼らの都合のいい『役割』を通して、俺を見ていただけだ。
『……人間社会とは、そういうものなのかもしれない』
ならば。
その理不尽なルールを、逆用してやればいい。
『ゴブスケ』として、この街に入ることはできない。
『ただのゴブリン』として、門をくぐることは絶対にできない。
だが……。
『偉大な魔法使いの使い魔が、秘密の任務を帯びて、供の者と共に王都を訪れる』
――その『役割』ならば、どうだろうか?
絶望に沈んでいた俺の心に、一つの、冷たく、そして、したたかな光が灯った。
もう、ただ隠れて怯えるのは終わりだ。
俺は、この人間社会のルールの上で、奴らと渡り合ってみせる。
俺の新たな目的が決まった。
ヴァレリウス様に会う、その前に。
俺はまず、俺という存在を王都へ運び込むための、都合のいい『駒』を探し出さなければならない。
俺は立ち上がり、王都の煌びやかな灯りを見つめた。
その瞳にはもう、絶望の色はなかった。
獲物を品定めする、冷徹な狩人の光が宿っている。
この巨大な壁は、もはや乗り越えるべき障害ではない。
開けるべき錠前だ。そして俺は、そのための『鍵』を、これから探し出すのだ。
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