第21話:賢者の教え、狩人の知恵
賢者の森を後にした俺は、再び独りになっていた。
だが、故郷の森から逃げ出した、あの夜とは全く違う。
あの時は、絶望と恐怖だけが俺の道連れだった。今は、胸に確かな目的と、師がくれた二つの道しるべがある。
俺は一度だけ、遠くなった賢者の塔を振り返った。
あの塔で過ごした日々は、俺に魔法の本当の姿と、世界の厳しさを教えてくれた。そして、何より、俺が独りではないことを思い出させてくれた場所だ。
「……行ってきます、先生」
誰に聞こえるでもない声でそう呟くと、俺はもう振り返らず、南へと向かって歩き出した。
エリアス先生が描いてくれた大雑把な地図には、竜の顎山脈の場所が示されているだけ。
「ワシとて、あの偏屈者の鍛冶場の正確な場所など知らん。己の頭で考え、見つけ出すがよい」
旅立つ前の日、先生はそう言って、一冊の古い書物を俺に押し付けた。『鉱物と地脈論』。魔法とは全く関係のない、無骨な学術書だった。
竜の顎山脈に足を踏み入れてから、すでに数日が過ぎていた。
途方もない広さと険しさを前に、俺は完全に途方に暮れていた。闇雲に探しても、見つかるはずがないのだ。
その上、持ってきた保存食も、そろそろ底をつき始めていた。
その日の夕暮れ、俺は崖の上から、一頭の山羊が草を食んでいるのを見つけた。
岩場に暮らす、肉付きのいい大物だ。
『……以前の俺なら、半日かけて罠を仕掛け、泥だらけになって追い回した末に、ようやく手に入れられるかどうか、という獲物だった』
それは、成功するかどうかも分からない、生存のための必死の闘いだったはずだ。
『……だが、今は違う』
俺は杖を構え、意識を集中させた。ターゲットは、山羊そのものではない。その足元の、不安定な岩だ。
エリアス先生の教えを思い出す。
『魔法とは、意志とイメージの力』『最小の力で、最大の結果を生み出せ』。
俺は、岩を砕くような強力な魔法は使わない。
ただ、マナを細い糸のように紡ぎ、山羊の足元の岩の、ほんの小さな亀裂に流し込む。
そして、短く、意志を込めて唱えた。
『――弾けろ』
パキン、と乾いた音がして、山羊が足を乗せていた岩が、綺麗に割れて崩れ落ちた。
バランスを崩した山羊が、悲鳴を上げて下の岩棚へと滑り落ちる。足を少し痛めたようだが、肉を損なうほどの怪我ではない。完璧な狩りだ。
俺は岩場を慎重に下り、獲物の元へとたどり着いた。
火を起こすのも、今では造作もないことだった。指先に小さな火種を生み出し、枯れ枝に移す。火はすぐに大きくなり、暖かく周囲を照らした。
旅に出てからというもの、乾いたパンと干し肉ばかりだった。
焼けた肉の香ばしい匂いが、鼻腔をくすぐる。
俺は夢中で、その肉にかぶりついた。美味い。涙が出るほど、美味い
。
塔で食べていた味気ないスープや、旅の保存食とは比べ物にならない、自分の力で勝ち取ったご馳走だった。
腹がはちきれそうになるまで食べても、肉はまだ半分以上も残っている。
『……食べきれない』
ゴブリンとして生きてきて、初めての経験だった。
飢えこそが常識だった俺にとって、有り余るほどの食料を前にすることは、奇妙で、そして少しだけ戸惑うような感覚だった。
俺は残った肉を、覚えたての冷却魔法で鮮度を保ち、丁寧に革袋にしまった。
腹が満たされると、不思議と、頭が冴えてくるのが分かった。
俺は焚き火の前で、先生に押し付けられた『鉱物と地脈論』のページをめくる。
そして、ある一節に目が留まった。
『……良質な鉄鉱脈は、豊富な水脈と、石炭層の近くに形成されることが多い』
その瞬間、頭の中で、バラバラだった知識が繋がった。
先生の授業を思い出す。『偉大な魔法具を鍛えるには、膨大な熱量と、冷却するための清流が不可欠じゃ』
そうだ。バリンは、ただの鍛冶師ではない。伝説のルーンスミス。彼の鍛冶場は、並の設備ではありえない。
俺は、探し方を変えた。
鍛冶場そのものを探すのではない。偉大な鍛冶場が存在するために、必要不可欠な条件を探すのだ。
まず、俺は山脈を流れる、最も大きな川を見つけ出した。そして、その流れを遡り、水源へと向かって登り始めた。偉大な鍛冶場には、大量の清らかな水が絶対に必要だからだ。
川を遡ること数日。景色が変わり始めた。
岩肌の色が、赤茶けたものから、黒々としたものへと変わっていく。先生に押し付けられた本によれば、これは良質な石炭層が近くにある証拠だ。
一つ目の条件、『水』。二つ目の条件、『燃料』。揃った。
最後の条件は、『風』だ。
巨大な炉を燃やし続けるには、強力な風を送る「ふいご」がいる。ドワーフが独りで、巨大なふいごを動かし続けられるだろうか?
いや、もっと自然で、強力な風。
俺は周囲の地形を観察した。そして気づいた。俺が進んでいるこの渓谷は、二つの巨大な頂に挟まれ、一年を通して山頂から吹き下ろす強風が、一つの通り道に収束する、天然の風の通り道になっていることに。
水、燃料、そして風。
全ての条件が、この先に揃っている。
俺は確信を持って、渓谷の奥へと進んだ。
硫黄の匂いが、鼻をつき始める。地熱も高い。
そして、ついに渓谷の行き止まり、巨大な滝が流れ落ちる崖の中腹に、それを見つけた。
不自然に四角く切り取られた、洞窟の入り口。
そこから、まるで巨大な獣の呼吸のように、規則正しく、黒い煙が吐き出されていた。
ゴウゴウと吹き荒れる風と、滝の轟音。
だが、その音に混じって、確かに聞こえる。
地の底から響いてくるような、重く、そしてリズミカルな金属音。
――キン……、ゴォン……。
――キン……、ゴォン……。
『……見つけた』
俺は、自分の知恵と、先生の教えを頼りに、この場所へたどり着いたのだ。
込み上げてくる達成感を胸に、俺は伝説のルーンスミスが住む、その洞窟の入り口を、まっすぐに見据えた。
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