第20話:二通の手紙
エリアスが目を覚ますと、いつものように、塔の下階から微かな物音が聞こえてきた。
弟子であり、研究対象であり、そして便利な雑用係であるゴブリンが、床を掃き清める音だ。
老魔法使いは、ゆっくりと身を起こすと、ため息と共に呟いた。
「……まだ、おったか」
あの日、ゴブスケに二つの旅路を示してから、すでに三日が過ぎていた。
てっきり、翌朝には意気揚々と、あるいは涙ながらに、この塔を去っていくものだと思っていた。
だが、ゴブスケは何も言わず、これまでと全く同じように、朝早くから起きては塔の掃除をし、薬草を整理し、エリアスのために朝食の準備をしていた。
『旅立つ勇気が出んのか。あるいは、この塔の居心地の良さに、牙を抜かれてしまったか。……ふん、やはり出来損ないは出来損ないか』
エリアスは、気にする素振りも見せず、いつも通り、ゴブスケが淹れた不味くも熱くもない絶妙な白湯をすすり、分厚い魔導書の世界に没頭した。
ただ、その日を境に、塔の中には奇妙な、そして少しだけ居心地の悪い沈黙が流れていた。
そして、五日が過ぎた朝。
エリアスは、いつも聞こえてくるはずの物音がないことに気づいた。
塔は、まるで主人がいなかった頃のような、完全な静寂に包まれている。
彼が階下へ降りると、ホールは塵一つなく磨き上げられ、暖炉には、すぐに火を熾せるようにと、丁寧に組まれた薪が置かれていた。
だが、そこにゴブスケの姿はなかった。
エリアスの書斎。
普段はゴブスケが決して触れることのない、彼の研究机の上。
そこに、二通の手紙が、行儀よく並べられていた。
一通には、拙い絵で、髭を生やした魔法使いの横顔が描かれている。
エリアスは、まずその手紙を手に取った。
ざらついた羊皮紙に、炭で書かれた、不格好だが、一文字一文字に心の込められた文字が並んでいた。
『エリアス先生へ
ながいあいだ、ほんとうに、おせわになりました。
なにもできなかったゴブリンのおれに、まほうや、いきていくためのちえを
おしえてくださったこと、こころから、かんしゃしています。
ほんとうは、ちゃんとおかおをみて、おれいをいってからたびにでるべきでした。
でも、そうしたら、きっと、なみだがでて、たびにでるのがつらくなってしまうとおもいました。
だまっていくことを、おゆるしください。
せんせいにいただいたことばと、みちしるべをむねに、かならず、つよくなってきます。
いつかまたあえるひまで、どうか、おげんきで。
せんせいの、さいしょでさいごのでし(たぶん)
ゴブスケより』
エリアスは、その手紙を最後まで黙って読むと、ふぅ、と一つ、長い息を吐いた。
そして、誰に言うでもなく、呟いた。
「……ふん! ゴブリン風情が、まるで人間みたいなことを言いよってからに……!」
その口元には、自分でも気づかないほどの、ほんのかすかな笑みが浮かんでいた。
彼は手紙を丁寧に畳むと、ローブの懐に大切にしまい込む。
そして、机の上に残された、もう一通の手紙に目をやった。
そちらには、花の冠をかぶった、人間の少女の絵が描かれている。
手紙の最後に、追伸があったのを思い出した。
『もう一つだけ、さいごのおねがいです。もし、もしもごつごうがよろしければ、このてがみを、アンナにとどけてはいただけないでしょうか』
「……アンナ?」
エリアスは、眉をひそめた。
彼の博識な頭脳が、過去の膨大な記憶を探査する。
アンナ。アンナ……? 出来損ないが、そんな名前の薬草の話をしていただろうか。いや、違う。確か、人間の娘の名前だったか……?
老魔法使いは、アンナ宛の手紙を、汚いものでも摘むかのように二本の指で持ち上げると、誰もいない書斎で、腹の底から叫んだ。
「……どこのアンナじゃ、あの出来損ないめ!!」
その頃。
賢者の森から遥か南。
朝の光が木々の間から降り注ぐ、明るい森の中を、一人のゴブリンが、希望に満ちた足取りで歩いていた。
エリアス先生がくれた、新しい旅人のローブ。
腰に下げた袋には、たっぷりの保存食と、新しい水。
そして、胸には『マナの結晶』と、未来への二つの切符が、確かにそこにある。
『まずは、竜の顎山脈だ!』
バリンというドワーフは、どんなに頑固な爺さんだろうか。
ヴァレリウスという先生の宿敵は、どんなにすごい魔法使いだろうか。
アンナは、手紙を読んでくれるだろうか。
不安がないわけじゃない。
きっと、たくさんの困難が待ち受けているだろう。
だが、今の俺の心は、不思議なほど晴れやかだっ
た。
俺はもう、ただ怯えて逃げるだけの、名無しのゴブリンじゃない。
俺には、ゴブスケという名前がある。
エリアス先生という、偉大な師がいる。
そして、アンナという、待っていてくれる人がいる。
意気揚々と歩く俺の足元で、朝日を浴びた森の草葉が、キラキラと輝いていた。
未来は、明るい光に満ちているように見えた。
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